★ 昨日は松島裕さんが推進されている
「二輪文化を伝える会 」のことをご紹介したのだが、
その中にこんな二輪関連の人物の名前が載っていて、
その一番先に上げられているのが「谷口尚己」さんなのである。
松島さんの感覚なのだろうが、
二輪文化への貢献度のようなものが、その名前の大きさに現れているのだと思う。
そんな有名人の中に私の名前も真ん中あたりにあるのは嬉しい限りなのだが、
赤線を敷いた人物は「私が直接お会いしたことのある」方々で、
親しく言葉を交わしているのだが、
その中でただお一人「本田宗一郎さん」だけが何度も同じ会議でご一緒しているのだが、
当時は「恐れ多くて」名刺交換すら出来なかったのである。
その他の方とはホントに親しくして頂いて、
「谷口尚己」さんもそんな中のお一人なのである。
★谷口尚己さんは、1954年にホンダに入社、1955年の第一回浅間火山レース250ccクラスで、ライラックの伊藤史郎選手に僅差で届かず2位。
その後もワークスライダーとして活躍をされたのだが、優勝することないままに1966年を最後にホンダを退社されたのだが、
それはWGPで優勝を獲得するための決断だったのだという。
その谷口さんは昨年末にお亡くなりになったとか。
松島さんはこのように語られているが、
その話の中に「カワサキ」は登場したのだろうか?
1966年と言えばカワサキがGPレースに初めて出場した年なのだが、
その当時のライダー契約担当が私で、
その年の1月に藤井敏雄と契約するのだが、彼はマン島のプラクテイスで転倒亡くなってしまうのである。
外人ライダーとしては、デグナー・シモンズとも契約をしたのだが、
日本人ライダーとしては安良岡健と、
新たに契約したのが「谷口尚己」さんだったのである。
初めてお会いしたのがその年の9月9日だったのだが、
その時の「谷口尚己さん」は従来私が接してきたライダーたちとは、全然違った「紳士然」とされていてびっくりしたのが印象に残っている。
その年の日本GPでは結果は出なかったのだが、
翌1967年のシンガポールGPの350ccクラスに出場し、
カワサキのマシンで見事念願の優勝をされて、
それを機にレースの世界から引退されたのである。
★ 谷口尚己さんは有名ライダーだが、
彼がカワサキに乗ったということはご存じない方が多いのだろうと思う。
谷口さん引退後は、一度だけ電話でお話をしたことはあるのだが、
昨年末にお亡くなりになったとは、
松島さんの「二輪文化を伝える会 」の記事の中で知ったのである。
みんな若くして亡くなってしまう。
上記の表の中の私と面識のあるライダーたちも
安良岡健・金谷秀夫・野口種晴・金子豊・岡部能夫なども逝ってしまわれて、もうこの世にはいないのである。
こんな著名なライダーたちと懇意にさせて頂いたのは、
私の人生の宝物で、本当にいい想い出として残っているのである。