★ 前回までカワサキが単車事業をスタートしての単車営業課時代の話を書いたが、
最初に発売した125B7が散々な出来であったこともあって単車事業は大赤字だったのである。
川崎航空機の本社は「この事業を続けるべきか否か」を日本能率協会に調査を依頼していたのである。
その時期に「青野ヶ原のモトクロスの圧勝」があって事業部内の意気は上がっていて、それを観た能率協会は「この事業を続けるべし」という結論を出すのだが、
その条件の中に「広告宣伝課を創るべし」と言うのがあって、当時の本社は3年間1億2000万円の広告宣伝費を準備し「広告宣伝課」を創ることを決めたのである。
それは昭和39年(1961)1月のことだが、この「広告宣伝課」を担当するように指示があったのである。
入社以来ずっと新しいことばかりをやって来た実績から「古谷なら出来るだろう」と思われたに違いないのである。
まだ係長にもなっていない時期だったのだが、
私はそんな1億2000万円と言う予算の付いた広告宣伝課とを担当することになったのである。
★1億2000万円と言う予算は、当時のサラリーマンの年収が50万円という時代だから、今のカネに直すと「10億円」に相当する膨大な額だったのである。
当時のカワサキは「実用車のカワサキ」の時代で大都会では全く売れておらず主力市場は東北・九州などの田舎だったから、所謂「マスコミ」を使う必要はなくて1億もの広告宣伝費をなかなか使い切れないのである。
そんなことで、結構な金が要る「レース」をスタートさせたのである。
先ずはモトクロスから初めて関東にはカワサキコンバット、関西では神戸木の実クラブと契約して、こんなメンバーでのスタートだった。
左から岡部能夫、歳森康師、山本隆、三橋実、梅津次郎の五人だが、
この中で三橋実は鈴鹿サーキットで日本で初めて行われた日本ロードレース選手権の250ccクラスの優勝者で彼はカワサキコンバットを関東厚木に立ち上げたのである。
関西では350cc優勝者の片山義美の神戸木の実クラブから歳森康師・山本隆のライダーと契約することになったのである。
こんな状況だったから、
若し、本田宗一郎さんが鈴鹿サーキットを造っていなかったら、
カワサキの二輪事業は全然違った道を歩いたであろうし、
ひょっとしたら存続できなかったかも知れないと思ったりする。
★その後、鈴鹿サーキットのロードレースにも1965年にはモトクロスライダーの山本隆が出場して当日雨になったものだから、
全体のタイムが落ちて運よく3位入賞を果たすのである。
「ヤマ3、シオ8、セイコウ、カワ」
とは当日現場にいた川合寿一さんが我が家に送ってくれた電報で
山本3位、塩本8位と言う、カワサキの初めてのロードレースは大成功だったのである。
そう言う意味では青野ヶ原モトクロスも当日雨になって勝てたので
いずれもカワサキにとっては恵みの雨だったのである。
この鈴鹿のロードレースの「3位入賞」でカワサキも本格的にロードレースの世界に進出することになり、神戸木の実クラブの金谷秀夫と契約することになったのである。
★ この時代カワサキは販売の分野では全然ダメな最下位の時代が続くのだが、レースの世界ではモトクロスの日本選手権を制したり、
結構派手な活動だったのだが、それらはすべて「広告宣伝課の活動」だったのである。
そんな時代が約10年続いたのだが、
私はその間広告宣伝と言うか「レース担当」だったのである。
昭和41年にようやくレースは技術部の担当になるのだが、
私の広告宣伝課担当もその時期までで、それ以降は販売の分野に転向することになるのである。