『カワサキの想い出、そして未来』 で、
昼の部、『カワサキのレース創成期、1960年代 』のトークショーで、大槻幸雄さん、山本隆、歳森康師、金谷秀夫、星野一義と一緒に出ることとなった。
そのころの、資料として解る範囲で纏めてみる。
(60おじさん、記録違っていたり、写真などあればご提供下さい。 どんどん修正したいと思います。)
★昭和35年(1960年)
4月に単車準備室が出来て、10月にモペットの生産が始まった。まだレースはやっていない。
★昭和36年(1961年)
B7の時代、販売はカワサキ自動車販売が担当、メーカーのレースはまだ始まっていない。
★昭和37年(1962年)
B8の発売準備が8月に始まった。カワサキ自販で、レースに参加したことがあるかもしれない。
★昭和38年(1963年)
● 5月19日、兵庫県青野ケ原モトクロス。 生産サイドの中村治道さんをを中心に高橋鉄郎さんなどが、B8のモトクロッサ―を製作し、社内ライダーを中心に、非公式に大会に出場した。会社としての正式出場ではない。結果は1~6位を独占。雨デ水たまりがいっぱい、カワサキは防水対策が完ぺきだったためみんな完走。他メーカーのマシンは止まってしまった。マシン製作の中心は、兵庫メグロから、異動した故松尾勇さんが中心に纏めた。チームマネージャーは故川合寿一さん。ライダーは加藤、飯原、秋山などの社内ライダー中心。山本隆もヤマハのマシンで出ていたとか。その時の写真はカワサキワールドに飾ってあります。私は、営業でこっそりお金を都合させられました。ちょっとだけですが。
● この年には、東京のほうで故小野田滋郎さん(フィリッピン小野田中尉の実弟)などが三橋実などと厚木にカワサキコンバットを創り、岡部能夫、梅津次郎、加藤清丸などがいたが、彼らが明石に出入りするようになったのも、青野ケ原以降のことである。
● 一方関西では、兵庫メグロの故西海義治さん、片山義美さんの関係で、神戸木の実から歳森康師、山本隆がカワサキに乗るようになった。
● この年には、地方草レースに参戦し、成績としては殆ど優勝を重ねていた。マネージャーは故川合寿一さん、ライダーの契約金があったかどうかは不明。専ら営業対策で、強いチームの来るところは避けての参戦だったので連戦連勝だった。モトクロスの実情などみんな知らない時代で、カワサキはホントに強いのだとみんな思っていた。
★昭和39年(1964年)
●この年、単車事業部、発動機より分離独立、本社より開発費で年1億2000万円の広告予算を計上、この予算の中でライダー契約もレース運営も実施、予算は潤沢にあった。
●ライダー契約としては、関西は神戸木の実の歳森康師、山本隆の個人契約。関東は厚木のカワサキコンバットの三橋実、岡部能夫、梅津次郎の個人契約のほか、カワサキコンバットに対しライダー育成費、練習、宿舎費などを含めて一括1月20万円を支給し、ライダー育成を委託した。全国より有望ライダーが多数集まった。
● この年の春、相馬が原で、MFJ第1回日本グランプリモトクロスが開催されている。 当時のMFJの記録にも詳しくは載っていない。 このレースに出かける前に、マネージャーの川合さんが、『困った、困った』と言っていたのを思い出す。当時はよく解らなかったが、城北ライダースなど強いチームが来るので、勝てないということだったように思う。確か6位か7位が最高だった。
●6月14日、 MCFAJ 全日本モトクロス オープンに山本隆優勝、これがカワサキの全日本での初めての優勝。
●9月には、安良岡健もカワサキコンバットに参加。
●9月10日、山梨モトクロスには、85J1が90ccにデビュー、このレースには三吉一行もカワサキからエントリ―し90,125ccに優勝。このレースに初めて私は責任者として帯同参加した。メカニックを纏めて援けてくれたのは、田崎雅元さん(元川重社長)である。そのころはレース監督はカワサキコンバットの三橋実がやっていた。
●10月10日、伊豆丸の山で行われたMCFAJ 全日本モトクロスには、90cc三橋実、125cc山本隆、オープン梅津次郎と4種目中3種目に優勝。ちなみに東京オリンピック開会式当日であった。当時は、広告宣伝課にヘリを所有していて現地に帯同、負傷者の空輸、花束贈呈など活躍した。
●関西でのモトクロスの普及と一般への広報を意図して、スポニチ主催のモトクロスの実現を図った。11月8日の紀ノ川モトクロスがその第1回である。カワサキは90cc、125ccで優勝しているが、当日岡部が朝の練習で荒井市次と接触小指骨折のため出場できなかったため、地方レースと言うことでもあり、黙って岡部の名前で、当時はまだ未契約の育成選手であった星野一義が代わりに出場した。朝のレースで転倒、脳しんとうで救急車で病院に運ばれたが、午後戻ってきてオープンに出場、確か6位ぐらいに入っている。これが星野のカワサキでのデビュー戦ではあった。
昭和40年(1965年)
●2月に、歳森、山本のBSとの仮契約事件が発生、この解決のために私は片山義美さんと話すことになり、無事二人のカワサキの残留が決まったが、レースチームの運営、契約など、私が直接担当することになった。
●3月231日のMFJ第2回日本モトクロスグランプリが名古屋、東山開催されで、90ccではアマチュア星野、125ccでは歳森がぶっちぎりで、走っていたがパンクとプラグミスで優勝を逸している。
●4月18日の朝霧でのMCFAJの全日本では、星野が90ccに優勝、デビュー数カ月で全国優勝を果たしている。
●この年の5月、鈴鹿で行われたジュニアロードレースに、山本隆がどうしても出場したいと言い出して、車が造れるか聞いたところ故松尾勇さんが大丈夫と言うので、当時は、会社からはロードレースの許可は貰っていなかったが、鈴鹿のモトクロスに出るということでスタートした。車は山本が自分で買うというのを、何とか2台都合してくれたのは、当時工場にいた田崎雅元さんである。モトクロスの山本だけではと、ロード経験のある北陸の故塩本との二人にした。塩本を派遣してくれたのは当時は北陸を担当していた、後UKでケン鈴木さんなどと、レースチームを運営した、故内田UK社長である。
練習タイムは3分40秒ほどと振るわなかったが5月3日、当日の鈴鹿は雨になってモトクロスの山本には有利なコンデイションになったのである。ホンダに次いで3位入賞で、バカでかい優勝カップを持ち帰ったのである。5月の連休中の我が家には現場にいた川合さんから『ヤマ3、シオ8セイコカワ』の電文が届いたのである。ずっとスリップストり―ムでBS滋野の後ろについて走っていて、ゴール直前に抜いての3位だそうである。スリップストり―ムと言う言葉初めてこのとき覚えた。
ホンダに次いでカワサキと言うこともあって、一挙にロードレース熱は燃え上がり、翌月のアマチュア6時間耐久レースに、3台のマシンで出場することが決まったのである。
●1台は加藤、飯原のテストライダー、1台はカワサキコンバットの岡部、梅津、もう1台を神戸木の実の歳森とということだったが、前月に山本はジュニアの資格を取っていたので、出場出来ずに、歳森が連れてきたのが金谷秀夫であった。契約などなにもなく、タダで走った金谷だが、流石にタイムは一番早かった。このレースはスズキもヤマハもみんなモトクロスのライダーたち菅家や鈴木忠さんなどが走ったのではなかったか?
このレースからカワサキにレース監督が出来た。その初代監督が大槻幸雄さん、助監督が田崎雅元さんなのである。6月13日のレースは雨上がりでスプーンに水が残っていたりして先頭グループのモトクロスライダーたちが次々に転倒したりした。テストライダーチームが3時間あたりで、途中トップを走ったりしたが、最後はダメだった。
私は、故大西健ちゃんと、6時間記録を取り続けた。記録の取り方もよく解らずに6時間、悪戦苦闘疲れ果てた耐久観戦だった。
●7月からは、MFJ の運営委員として会議に出席することとなった。ホンダ前川、スズキ岡野、ヤマハ内藤と言うべテラン委員さんの中で 、BSの西川さんと私だけがやけに若かったのである。
●7月末には、大槻さんがドイツへ、田崎さんがアメリカに行くことが決まって8月初めにレース仲間で送別会をやっている。大槻さんの後任には故安藤吉郎さんが決まった。(吉は人遍があるのだが見つからない)
●7月31日には、日本でタダ1回開催された鈴鹿24時間耐久レースに、故大西健治君とともに、MFJの役員として参加している。夕方の5時スタート。ほとんどがホンダの車であった。
●この年、安良岡がテストライダーで GP125 の開発が進められていたが、10月にレース運営委員会が発足しこの会議で安良岡の個人出場と言うことで決まっている。この委員会の事務局を引き受けている。ようやくレースに事業部トップが関わってきたのである。委員長は工場長の守田さん、以下山田さん、苧野さん、堀江さん、中村さん、など事業部中枢が顔を並べ、高橋、渡辺、大槻、安藤さんなど若手も、その後の単車事業部も川重をも支えた、単車事業部オールスターという顔ぶれだった。田崎さんはレースチームにはいたが、まだメンバーには入れて貰えなかった。そんなに若い頃のことなのである。
10月23日のレースはリタイヤで終わった。
●11月からはライダーの契約が始まっている。11月13日には片山義美さんと金谷の契約、と義弟の従野孝司のカワサキ入社の話をしている。6月以降金谷は何度かレースを走っているが、多分未契約のままで走っていたと思う。片山義美さんは秘蔵っ子金谷のことは気にかかったのだと思う。従野孝司は最初は工場のラインに入ることを条件に、カワサキに入ってきた。
●11月29日に星野と初めての契約。日記には月額23000円とある。今の星野から見たらどう思うのだろう。まあよく出していると思う。私の年収が45~50万円の時代である。
●山本隆は、80万円を要求、一発回答している。 カワサキの契約額はそこそこよかったのではないかと思っている。翌年山本は確か120万円出しているように記憶しているのだが?
★昭和41年(1966年)
●レース担当としては最後の年である。波乱にとんだ1年であった。
●故藤井敏雄君の契約からこの年は始まっている。1月4日、初で初日に藤井君とあって契約の話をしている。
前年の11月10日のMFJ運営委員会で、スズキの岡野さんから、うちの藤井は社員ライダーだから引き抜きなどなさらぬように、との発言がった。その時点ではホントになにも知らなかったのである。ことGPに関しては、技術部の管轄であったから、藤井君の話も、後半のデグナ―の話も、どんな経緯かは全く解っていない。ただ、広告宣伝費を持っていたので契約だけは担当していたのである。
藤井君とは、本人のたっての希望で、マシンだけの貸与契約で、ライダー契約はヨーロッパでの実績を見て、日本GP前に改めてと言うことだったのである。それが8月27日マン島でのプラクティスでの突然の転倒死で、大変なことになった。たまたまマン島に行っていたドイツ留学中の大槻さんが遺体を送ってくれて、私が羽田で迎えたのである。契約内容だけから判断すると、カワサキには何の関係もないと仰る社内の方もいて、GPマシンとはと一から説明が要ったのである。
●その10日後には、FISCOの日本GPの体制が決まった。監督中村治道、現場監督GP 大槻 ジュニア安藤 マネージャ-は私。
●デグナ―の契約の仕方が解らなくて、ホンダの前川さんに、教えて貰いに鈴鹿に訪ねた。そのデグナ―がFISCOの走行中に転倒、脳に出血などあって大変だったのである。
●3月13日にはFISCOで金谷がW1のレーサーに乗って出場。まだチェンジが逆についていたころである。直線ではめちゃ速かったが、カーブでは車体が触れて大変だったようである。350ccクラスと一緒に走って2位、500cc以上では1位だった。
●4月13日のMFJ第3回日本モトクロスGPでは、ファクトリーは優勝はなかったが、125ccノ―ビスで、木村夏也が優勝。大阪赤タンク会からの出場。
●MFJの運営委員会ではFISCOの第1コーナーが危険と、6月にはホンダが日本GP不参加を表明した。
●この年の7月に、モトクロスマシンF21Mが故松尾勇さんのてによって完成している。エンジンは故安藤さんの238ccエンジンだが、フレームは松尾さんの手作りでレース職場で1台づつ完成していった。7月24日の青森岩木山でのデビュー以降、ずっと勝ち続けたマシンであった。F21Mの想い出は多い。 ライダーは山本、歳森、岡部、梅津、星野 と揃って最高の時代であった。そのタンクの色はグリーンではなくて、赤だった。
●FISCOでの日本グランプリでは、ジュニア250で、ガリ―ニクソンと金谷がともに同タイムの最高ラップを記録している。金谷は惜しくも2位だったが、このレースの印象は強烈に覚えている。当時レーサーのつなぎは黒一色の中で、ニクソンの赤いつなぎの色は際立っていた。ニクソンはその後カワサキにも乗ったが、当時既にアメリカでは一流であった。それがなぜジュニアで走れたのか? GPには安良岡、谷口、シモンズなどが出場した。デグナ―とは契約したのだが怪我「で走れなかったのである。
●このFISCOの日本グランプリで、私の4年間のレース担当は、ほぼ終わっている。一言で言えば『赤タンクのカワサキ』の時代であったのである。モトクロスだけでなく、ロードレースも赤タンクで走っていた。誰にも言わなかったが、ロードをやりかけて、鈴鹿でホンダのマシンが赤タンクなので『これはマズイカナ』と自分では秘かに思った。当時はホンダはモトクロスにはファクトリーでは、参戦がなかった時代なのである。
●11月9日の日記に、星野が『車を買いたいのですが』と家まで相談に来たと書いてあるが、全然記憶にない。星野は覚えているのだろうか?
星野の印象で残っているのは、18歳ぐらいで、カワサキに来て、『栗山、星野』と二人コンバットの若手では頭抜けていた。栗山が病気でダメになって、星野は明石に来たが、モトクロス職場でとにかくみんなに可愛がられていた。レースでは同年代、同じ時期のデビューの吉村太一ちゃんとライバルで、二人の何度もあったバトルを鮮明に覚えている。
今回の『カワサキの想い出、そして未来』にも、4輪のシーズンインで、本当に出にくいところを日帰りで出席してくれる義理堅さである。
山本、歳森、岡部、梅津、星野にロードの金谷。 梅津が亡くなってなってしまったが、私の想い出に中に一緒に過ごした仲間たちである。そんな仲間たちと40年以上も経ってあの頃と同じような感覚で会えるのは素晴らしいことである。 当時清原明彦はまだカワサキのテストライダーではあったが、モトクロスにはよく出て走っていた。私いとってはキヨさんはモトクロスライダーの印象の方が強いのである。
このようなレース担当の期間も、この年の11月末で、技術の安藤さんはアメリカに、私は仙台への異動が決まって直接のレース担当の4年間は終わったのである。
★昭和42年~44年(1967~69年)
●昭和42年からの4年間は、仙台で東北を担当していた。まだファクトリ―に顔が効いたことも、東北が非常にモトクロスが盛んだったこともあって、この期間のレースチームとはいろんなことで関係があった。宮城カワサキの工場長の服部謙治君が東北ではそこそこ有名なライダーだったので、余計に関心があったのかも知れない。
●MFJの第4回モトクロス日本グランプリは郡山で、第5回は札幌の手稲で開催されて、いずれのレースも現地で観戦することが出来た。モトクロスについては、山本、歳森、岡部、梅津、星野がまだ健在であったし、西、清原、従野もモトクロスで活躍した時代であった。
●金谷がヤマハに移り、歳森が4輪に転向、星野が4輪に移ったり、梅津、岡部が後半には引退して、カワサキの60年代は終り、70年代に移ってゆく。
●ロードは和田がカワサキに新たに加わり、アメリカでのレースがグリーンでスタートしたのはいつ頃のことか。
●私がレースを担当した時代は、グリーンではなくて『赤タンクのカワサキの60年代』だったのである。