★昭和45年、3月14日に大阪万博が開幕している。
東京オリンピックに続いての大きなイベントで、開幕からずっと大入り満員で大変な混みようがニュースになっていた。少し空いたら行ってみようと思っていたのだが、最後までそんなことにはならずに、結局観に行かないうちに終わってしまったのである。
ちょうど今の中国の様な、イケイケどんどんのそんな日本であった。
ただ、3月末には、よど号の赤軍派による乗っ取り事件があったり、11月には三島由紀夫の割腹自殺などもあった年なのである。
バイクの世界でもようやく中大型のスポーツ車への移行もあって、実用車のカワサキからスポーツ大型車への移行が顕著になった年なのである。
★家庭では、息子が小学校に、娘は幼稚園にそれぞれ入って、学校や幼稚園に通う普通の親の環境に入った37才である。
この年の6月に、明石に出張した時に、三木に大和ハウスが売り出した土地があると勧められて、6月13日に現地を見て、6月14日に予約書にサインしている。今住んでいる三木市緑が丘の土地である。現場を見たと言っても、高台から開拓中の土地を見て『あの辺りです』と指さされただけのことである。
勧めてくれた人が、元広告宣伝課時代に出入りしていた印刷屋のセールスの人で、その時は大和のセールスになっていた。『大丈夫か?』と聞いたら『大丈夫、いいですよ』と言うので、その言葉を信じただけのことである。仙台にいたし、いつ家が建てられるかは解らなかったので、『家を立てる時期は自由』と言う条件付きであったが、3日間の明石出張時に決めてしまった。
家内などには一切電話も相談もしなかった。 こんな事は男が決めることだと思っていたのだと思う。70坪強で確か290万円ぐらいだったと思う。金のアテがあったわけではないので、総務部長に聞いてみたら、会社が一定金額は貸してくれるというし、銀行も斡旋してくれると言うので決めたまでである。
この年の年末に大阪に異動するのだが、大阪で車の中古を初めて買って、クルマのオーナーになった。日記には195000円と書いてある。そしてその年末のボーナスが27万円とあるので、ボーナスで車が買えるぐらいの給与水準にはなっていたのである。
★東北の代理店の営業状況は、実用車からスポーツ車への移行もあって、台数的には2年前と比べると半減近くになっていたのに、前年度から損益中心の経営方針への転換もあって黒字転換は出来ていたのだが、かっての累積損失や含み損の消去にはなかなか至らなかったのである。
当時の田中社長は、元々が本社財務の中枢にいた方なので経営的な構造改革を国内全体で考えておられて、東北の1社1社の経営と言うよりも、東、名、阪の大都会とかっての中枢、東北、九州などをどのように、位置づけるかと言う戦略的な発想で東北、北海道を見ておられて、そんな観点からの意見をずっと求められていた。
そんなことで、現地担当として、川重で言えばまだ課長にもなっていない若輩ではあったが、この年には社長と二人きりでの会談をホントに何度も求められた。社長は財務はお解りだけど、営業第一線の現地の反応や市場のことで意見を求められたのである。4月からは、東北6県だけではなしに、北海道を含めての担当となったのである。
東北6県には各県にそれぞれ代理店が存在していたのだが、将来の統合を念頭に仙台に協同組合を設立する方向で8月ごろからは検討が進められ、9月には10月で東北からの異動の内示があったのである。異動の先は解らなかったが、協同組合の設立が最後の仕事になったのである。仙台事務所は自分で作って、自分でつぶすことになった。
そんな中でも、仙台事務所の敷地内にスポーツショップを5月に開設して、直販ショップとカワサキでは初めてのチューニングショップをスタートさせた。東北モトクロスチャンピオンの服部謙治君がサービス長でいたし、この業界の名物メカニック故松尾勇さんに何度も来てもらってチューニング技術を伝授して貰ったのである。仙台市内のオモシロイユーザーがいっぱい集まって、結構楽しいショップに仕上がっていった。
服部君はその後独立して、服部カワサキを立ち上げるのだが、このスポーツショップの経験が大いに役に立ったのだと思う。
私自身としても、その後大阪に移ってから、社員の『のれん分け政策』を展開するときの自信に大いに繋がったのである。
★こんなややこしい状況の中でも、レースには関心があって仙台テクニカルハイランドはいろいろと手伝っているし、6月には福島のモトクロスに当時はまだ安良岡健さんのところにいた、加藤文博君の面倒を見てレースに呼んであげたりしている。
あのトライアルの世界で活躍しチャンピオンになった加藤文博君、まだカワサキとの契約のなかった時代である。
服部謙治君はこの年は、『東北の山本隆』などと言っていたが、ホントに速くて、9月の東北選手権では、90、250の優勝などしているのである。
ただ、カワサキファクトリーの方は、金谷はヤマハに、歳森、星野は4輪に、岡部も引退して、山本一人になって和田、清原のロードの方へ動いた時期でもあった。
私自身もレースはこの年までで、大阪に移ってからは販売網対策などの陣頭指揮で時間がいっぱいで、とてもレースをやっている時間はなくなってしまうのである。
★3年10カ月の東北での初めての営業経験であったが、それは所謂第1線ではなくて、代理店管理と言う第1.5線とも言うべき客観的な立場から、代理店経営と幾つもの形の第1線セールスのやり方を観ることが出来たのは本当によかったと、思っている。
経験豊かな年上の代理店社長さんとの対応ばかりだったので、その後の販売店の社長さんとの対応は、少々うるさいと言われる人でも、全然そのようには思えなかったのである。
3年10カ月の東北の経験全てがその後の仕事の上で役にたったのである。
特に岩手県と言う市場で毎年日本一の販売実績を残された故久保克夫さんは、経営的な手法も、仕組みも、ネットワークも、販売店を引っ張る態度も、全て私の恩師だと思っている。
『戦略的な仕組み』さえあれば、岩手県でも日本一の実績を残せるのである。
個別対策の積み上げではそれは、不可能なのである。なのに、『みんなで力を合わせて頑張れば』が一般的なやり方なのである。
●『みんながやれる』様なレベルのことを幾ら繋いで見ても、大したことにはならないのである。
『みんながやらない』差別化された方法で、
『いい仕組み』を作るから、
『オモシロイことが実現する』のだということを教えてくれたのは、久保さんなのである。
『東北の温かい人情と美しい自然と突き抜けるような青い空を胸に刻んで、新しい任地の大阪に発ちたい。』 と送別会でご挨拶している。
東北で『人間の良さ』を見なおした4年間でもあった。
独特の風習の餞別をいっぱい頂いた。 お返しをどうすればいいのかも解らず、『ひとすじの道』と書かれた額を協同組合にお贈りして、10月24日仙台駅からはつかりで東京に発った。
仙台駅に大勢の方のお見送りを頂いた。
この年、大阪は『たった2カ月なのだが、東北とはまた変わった、会社の生活が『待ち受けていたのである。
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