★2年前までは、海外販社は殆どが大赤字、特に主力のアメリカ市場が100億を超す赤字で、それらが決算では川重本体との連結決算になるものだから、本社財務も頭が痛かったのである。
本社のエリートたちも販売と言う未経験の分野の経営がどうすれば黒字になるのか、その辺が解らなくて困っていたようである。
『こんなの人災だから、大丈夫黒字になる』などとと言っていたら、『それならお前やってみろ』と企画を任されたようなものである。
昭和57年の10月からの1年半で、いろいろあったが、販売会社の損益は全社黒字に転換したのである。
3年目を迎えるこの年は、単車再建第2期と言うことで、為替も円安に振れるなど大いに周囲の情勢も追い風で、問題事業部であった単車事業本部は、翌年の事業計画では本社あたりから全社で一番の収益を期待されるなど、様変わりの状況になったのである。
別に忍術を使ったわけでもなく、現状をちゃんと分析して、常識で考えられるようなことを、『大きな仕組みに取りこんで対策』しただけのことである。
『仕組み』をちゃんと造れば、そんなに努力などしなくても、『自然に』上手くいくようになっているのである。 その時々の、事業環境を分析して、『常識で考えた対策』をすればいいのだと、常にそう思っている。
『2輪業界は』とか、『この国では』、とかあまり特殊に考え過ぎるとかえってダメなような気がする。 『この業界では』、などと言うのは、自分たちがやれないときの『言いわけ』に使われていることが、結構多いものである
●大体、販売と言う形態は、どんな規模でも成り立って当たり前なのである。 売り上げを伸ばさなければ儲からないなどと言うのは『錯覚である』 小売りでも、大きな店でも、大企業でも、どんな規模でも優良企業は、世の中にいっぱい存在する。売り上げの大小ではないのである。
●販社が、赤字を出すのは、欲をを出して頑張った時が一番危ないのである。二輪事業などは、誰も注文などない時点から開発し、生産し、仕入れをし、在庫を持って、ユーザーに届けていくシステムである。その商品の『いい悪い』は、あくまでも他社の商品との優劣関係の上に成り立っているのである。昨日までよかった商品もホンダさんがそれ以上のモノを出したら、その時点でダメに変わってしまうのである。
●長年やっているのだから、大体のカンは働くのだが、『上がちょっと頑張れ』と言い、サラリーマンの部下が『ちょっと頑張りすぎたら』それは大体大怪我をするのである。二輪事業で業績悪化は、その殆どが「頑張り過ぎ」で、大概その「原因はトップ」が作っているのである。 それに気がついていないだけで、「善意の人災」なのである。
●仮に1台10万円の粗利があったら、1000台で1億円、1万台で10億円である。ちょっと売れると10億円の利益ぐらい、まさに簡単なのだが、ちょっと余ったりすると、それ以上の金利や値引きが発生して、折角工場で作った商品が利益を生むどころか、どんどん赤字を生み出すモノに変身してしまう。
●ただ、商品が不足して売り損ったら、「めちゃめちゃ損した」気分になるのも、その通りなのである。 商品はある意味『麻薬』だと思った方がいい。 誰も注文などしていないものを見込み生産しているのである。売り先が他人資本ならまだリスクは少ないのだが、直販会社は身内そのものなのである。
●その辺の、ところが難しいところで、目標台数を売れと言われると、販売会社の経営は難しいのだが、「販社を黒字にせよ」などと言うのはそんなに難しいことではないのである。元々営業外の金利や、値引きで赤字だったので、1年あったら完全に大丈夫と思っていたのだが、その通りになっただけの話なのである。
●そのための対策資金を本社財務が何100億円も手当してくれたので、非常に簡単だったのである。 ただその前の年も同じように手当てをしたのだが、機能しなかったのは、全体の仕組みを中央でコントロールすることなく、末端の個別改善の積み上げで、頑張って赤字を減らそうとしたからだと思っている。
★この年、振り返って見ると、いろいろやっている。
本社が再建屋として送りこまれた大庭本部長だったので、社長以下本社幹部も、単車事業に関心もお持ちであったので、逆に単車の言うことも結構聞いて頂いたのである。
KMCも100億ほどの期間損益を1年目で黒字転換を果たしたのだが、人員整理や、在庫処分などの対策が主なので、、少しは前向きな希望のある対策をと、当時3か所に分かれていた社屋を、新たに土地を購入し新天地に新社屋を建てようと言う提案を、田崎さんと組んで起案しているのである。
大庭さんが派手なことはお好きな性格も幸いしたし、この2年間の実績で本社幹部からもそれなりの信用は得ていたので、確か総額20億円ほどの新社屋プロジェクトも、GOが掛ったのである。現在のあの立派な社屋がこの危機と言われた時期に建てられたのは、1年で得た本社の信用と旧い街なかの旧社屋が結構高く売れたからである。
田崎さんも、台数については、コンサバテイブで、開発部門の技術屋さんたちは、折角作ったのに台数を売らぬと不満げだったし、大庭さんも高橋さんもどちらかと言えばお元気で、頑張るのがお好きなのである。 私はかって初めての営業の東北で、頑張り過ぎて翌年困り果てた経験もあって、この数年間は元気なことを言っても、実際の台数は絞っていたのである。
大庭さんに、お前らは『軍歌を歌うけど足踏みばかりで、一向に前に進まない』などとオコラレタが、頑として言うことを聞かなかったからよかったのである。でも、基本的に大庭さんからも結構信用はあって、何となくそれで収まっていたのである。
川重の社長になってからの田崎さんも、『質主量従』のコンセプトで川重の全体経営をされていたようで、それが財務体質の改善に繋がったのだと思っている。
★この年の4月、企画室の組織改正で、企画部と生産企画部を分離している。 企画部は世界全体をコントロールする本社機能だけに集中したのである。
ホンダ、ヤマハ、スズキさんが競争企業なのだが、それぞれ本社がある。 この事業に「本社機能」が要るのか要らないのか?という命題なのである。
私は、「絶対に要る 」と思ったのである。 だから一番先に組織に作ったのは、関連事業課だった。私自身は、常に本社機能のことだけを考えていて、その機能だけを果たしてきたのだが、この年の4月には、生産企画部を分離して、川重本社の工場に対するヒヤリングや、設備予算、開発費関係は、みんな大前さんにやって貰っていたのである。翌年には法務班も作ったりしたが、何時の間にか今はまた、元の企画室に戻ってしまったような気がする。
逆に言うと、直販会社を相手に「営業部」などなぜ要るのか? と思ったりしている。
事業の性格がどんどん、世界展開になってきて、日本での「メーカー」機能はどんどん縮小する傾向にある。事業のヘッドクオーターとしての『本社機能』はますます、その重要度は増すのではなかろうか?
人数は少ないのだろうが、事務屋諸君が頑張らねばならない時期に来ていると思っている。昭和59年、もう30年近くも前の話だが、このあたりの年次、結構事務屋も頑張ったのである。
技術屋さんたちも、勿論頑張って、この苦しい時期にNinjaなど生まれているのである。 ただこんな技術屋さんの頑張りを事業展開の中で、効率化する仕組みの構築は、事務屋の仕事なのである。
動かす金も、売上高も何千億円、川崎重工業の中でダントツトップなのである。みんな力を合わせて頑張ろう式の個別最適値の合算ではダメで、全体最適値をトータルシステムで創りだすのは、『事務屋の仕事=本社機能』だと思っていたのである。
★この年の秋、国内のジェットスキーのレース組織のJJSBAを立ち上げるべく、かっての私や、田崎さんの上司の苧野豊秋さんと一緒にアメリカに行っている。
この年あたりから、国内でも西武自動車などが輸入して、ぼつぼつとジェットスキービジネスもスタートしたのだが、明石の単車事業部の中には、ジェットスキー関係の部門は皆無だったのである。 当時の企画課長の武本一郎さんなどが、これを事業部の新しいビジネスにしようと動き出したのである。
それまでは、アメリカ人の発案のJSは、その特許をカワサキが買って、発動機事業部がそのエンジンを生産し、リンカーン工場で作って、アメリカのKMCだけがアメリカで販売していたのである。
苦しい時期だったが、アメリカの新社屋も、ジェットスキーの事業部としての世界展開も、この年に動き出しているのである。
★そのころ、家庭は、息子が大学3年、娘が大学1年生、二人といも私立で下宿の生活。家内は専業主婦であり、私の収入だけでの生活であった。
日記を見ると、この年初めてボーナスが手取り100万円を超えたりしているが、生活は多分一番苦しかったのだと思う。
でも、娘は50ccの免許を取ってバイクを買えと言うものだから、スズキの50ccを買っている。妹が免許を取ったものだから、兄貴も何の勉強もせずに、明石の試験場に免許を受けに行ったら見事学科試験不合格である。 50ccの学科試験など落ちた人など聞いたことのない試験なのに、やはり常識だけでは通らないのかもしれない。
そんなことでみんなが冷やかすものだから、よほど息子も、気になったのだろう。 それから、黙ってアルバイトして自分で金貯めて、何処かの自動車学校で4輪の免許を取ってきたのである。誇らしげに『俺は、4輪免許を取った』と威張っていた。
息子はサッカーで春秋、2部で優勝して、めでたく1部昇格で最終学年を迎えることになたった。
娘はどちらかと言うと、私に似ていい加減なところがあって、大学の入試の発表をわざわざ見に行っているのに、自分の番号を見おとして『落ちた』と言って、滑り止めに受けていた私学の入学金22万円を払ったりしているのである。そのあと合格通知が来て、丸損である。一緒に行っていた自分よりよく出来る子が落ちていたので、通っているはずがないと、よく見なかったとか言っていた。でも、このこと、娘と話したりしたこともない。家内に聞いた話である。
確かこのころ、家のローンとは別に、銀行に幾らか借りていて、返済など出来ないので、毎月手形の期日書き換えで金利だけ払っていた、そんな時期だったと思う。
51歳、息子が卒業して就職するまで、そんな我が家の家計だったのだと思う。
ただ、私は100%家内任せで、一切家計には関係していない。車などの高額なものも、ガソリン代、衣服代など、煙草を吸っていた時は煙草代も、一切自分で払ったことはないが、その代わり結婚以来小遣いなど、貰ったこともない。大体、出張旅費の残りぐらいで十分だったし、特に欲しいものは、家からの金で払うのが当たり前のことになっている。
そう言えば、子供の頃から、定額の小遣いなど一切貰った経験もない。お年玉も貰わなかったような気がする。
欲しいものがあったら、家の誰かに言ったら買ってくれる、子供のころはそれが親だったリ、結婚してからはそれは家内である。自分独りで決めて自分で買ったのは、三木の土地と家ぐらいで、その増築を勝手に決めて進めたのは、家内である。私は殆ど任せて口など出していない。
世に言う、小遣いが、『上がった、下がった』などは、全く経験もないし、関係もないのである。
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