、★昨日の朝のツイッターで次の様に呟いた。
『rfuruya1 昭和58年、(1983)私は50歳だった。カワサキの二輪事業は危機だったが、全社の協働で乗り切った。トップも若手も頑張った。自分史。http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1 政府も協働体制をとホントにそう思う。 』
このとき、ほんとに大変だったのである。単車再建委員長をされていた山田専務は、ホンネで50%以上この事業は続けられないと思っておられたようである。もう後はないと思っておられた。だから当時まだなりたての新米部長の私に本部企画を、アメリカのKMCの社長に私よりまだ若い田崎さんを、普通では考えられないような体制を敷かれたし、本社財務も何百億と言う金を半ば賭けのような形で二輪事業に投じてくれたのである。
実際にこのスキームを動かしたのは、本社の財務の若手だったが、社長以下トップが本当にその気になって、若手の意見に乗ってくれたのである。
今の東日本大震災に対する政府の対応に『協働』する姿勢が、与党にも野党にも、どこにも見られない。未経験の分野に対応するには、個別努力の積み上げでは絶対に解決しないのである。日本の縦割り体制が対応のブレーキになってしまっている。
朝から、そんなことを思っている。
私は、自分ではそんなに知識もないのだが、ちゃんと知識を持っている人や、周囲の人たち、特に上の人たちを上手に繋いで動かすことには結構自信がある。
リーダーシップなど下に対して権限の範囲内で発揮するなど誰でもできて当然である。上に対して発揮出来たらホンモノだと思っている。
昨日のexciteのブログの前半の文章である。 78歳の今も、50歳であった当時もそう思っていた。
★この時代カワサキの二輪事業の再建は、ほんとに川崎重工業全社の総力を挙げてのものだった。
この年の6月には全社の体制も変わって、委員長の山田さんも副社長に昇格されて、財務の松本新取締役が実質KMCの管理担当として、毎月の取締役会でKMC報告をされていたのである。そのために私は毎月松本さんにKMCの状況を報告し、経営会議や取締役会に陪席していたのである。
7月からは社内で再建屋と呼ばれていた大庭本部長が単車に来られるなど、全社総力体制であった。危機対策として取られた本社トップの判断は非常に的確であったと思われる。
そんなトップマネージメントの意思を受けて、KMCの実務を展開したメンバーは次表のとおりである。
私が50歳になった年だから、この大問題に対応したメンバーは、すべて、30代40代の若手だったのである。 もう28年も前の話だから、当時若手だったメンバーたちも今現役で頑張っているのは、鉄道部門の責任者をしている松岡君だけでみんなOBになってしまった。
当時KMCの社長をしている田崎さんも48歳の若さだったのである。
*印が付いているのが、この年から新しく送りこまれたメンバーであり、特徴的なのは本社財務や国内販売会社からの財務、やマーケッテング、販社管理の専門家など、若いけれどそれなりのノウハウを持つプロ集団だったのである。資料の中にも書かれているようにその動きの中心になったのは、国内の販社から逆出向した富永、日野君だったのである。販売会社の第一線を経験したノウハウ、ソフトが大いに役に立ったのである。
この後、突如起こったPL問題対応には、本社法務班から小里君が出向したり日本の保険会社がビビってしまって保険を引き受けなかったときは、現地に保険会社を立ち上げて独自に対応したり、非常にダイナミックな対応が出来たのは、みんな若くて、発想が新鮮だったからである。
日本側の受け皿も、小川、前田君以下独特のソフトノウハウを持っていたし、この表には載っていないが、営業面は繁治君、生産面のリンカーン問題は大前―佐伯ラインで直結していたし、総力を挙げてと言う体制は出来ていた。
そして川重本社は、そんな若手の発想や対応に本当に柔軟に対応してくれたのである。
当時のKMC問題の対応や、単車事業の経営方針は単車企画と本社財務で連携していたが、財務担当の横山さんが私と同期だったこともあり、上手く繋がっていたし、かっての同僚の田中―小川ラインもほんとに具体的に動いてくれたのである。
みんな私よりは若かったので、40代や30代だったのである。、経験などなくても仕事が出来るのは、年などには関係ないと信じるようになったのは、もっと昔からそう思っていたが、この年でそれは確信に変わっている。
78才になった今も30代や40代の若手と対等に付き合っているのは、私の常識では、『若いほどよく仕事は出来る』と思っているからである。下手に年を取ると自分の職位を守ることだけに汲々とする人も多くて、それがホントの仕事の障害になってしまったりするのである。
★単車事業でこんなに事務屋軍団か機能したのはこの年が一番であったと思うが、
こんな危機的な状況ではあったが、技術部門の開発は休まず続いていて、初代Ninjaが発売されたのもこの年なのである。
当時の技術部は私とレースコンビを組んでいた安藤さんが責任者だったし、昭和35年入社の百合草君らが中心の時代である。企画課長をしてくれていた武本一郎さんも大前さんもみんな35年組で、企画、技術、生産部門との風通しも非常によかったのは幸いであった。
7月から、本部長に就任された大庭さんは、技術、生産分野は、専門で造詣が深く、受注部門の自由に開発の出来ない部門と違って、何を造るのも自由という二輪部門には至極気に入られて、非常に熱心に取り組んで頂いた。
危機的状況ではあったが、溌剌と元気いっぱいの時代だったと思う。
開発費を捻出するために不本意だが、レースを止めたのもこの年だったし、本社の開発費ではなく武本一郎さんが生産部門の金からジェットスキーのボアアップ費用を忍術を使って捻出して、450、550ccのジェットスキーエンジンの開発を独自にやったのもこの年だった。このヒットでジェットスキーは飛躍的な伸びを示したのである。
二輪事業展開の基本システムは、前年の10月から3ヶ月の間に既に組みあげていたので、この年は私自身は現場や本社を飛び回って、いろんな人を繋いでいただけである。
★この年、主力市場のKMCには3回出張しているし、田崎さんは2度ほど明石に来ているので殆どずっと会っていたようなものである。
ヨーロッパにも、4月にフランス、イギリス、ドイツ、オランダと現地を訪れて、当時フランスは伊藤忠の遠藤さんがやっていて、初めて彼と会ったのもこの年だった。この出張は山田専務のお伴だったので、各国で最高級のレストランなど、なかなか普通では経験できないような場所に連れて行ってもらった。
山田さんは副社長になる寸前ではあったが、中学の先輩だし、レース担当していた時代にはデグなナ―の契約を一緒にやったりした仲間のような感覚もあった。何故か伊藤忠の遠藤さん独特の彼の雰囲気がお気に入りで、3人だけの時はホントに仲間の雰囲気で、ルマンのGPレースを見に行ったり、ゴルフをしたり、ヨーロッパはアメリカと違って、結構のんびりとした出張であった。
遠藤さんとは、いまでもZ1会でお付き合いは続いていて、今年も一緒にラウンドしたりしている。
みんな若かったが、ほんとに頑張ったし、実績もちゃんと上げて、前年100億を超える赤字を出したKMCを始め全販社が黒字転換を果たしたのである。この年の終わりごろには、本社の信頼も得て、翌年度は事業本部も黒字、60年は50億円の黒字を期待されるまでになったのである。
私にとっても、事業部も、川崎重工自体も、非常に大きな転機になった、50才を迎えた1年だった。
★この年が50才になった年だとは、今回自分史を纏めてみて初めて気がついた。
個人的には42歳から始めたゴルフだったが、結構熱心にやっていて、この年オフィシャルも10になっている。 80台は普通、たまには30台のスコアも出ると言う時期で、アメリカ出張でも何回もゴルフを楽しんだ。
アメリカのゴルフは日本とは違って、会社が引けてからでもみんなでハーフを回ったり、日本のジョギングのような感覚で、練習場に行く方がかえって金が掛ったりした。
日本でも月例に独りで出かけたりしていた。
息子は大学でもサッカーに熱中していて、2年生だったが、関西学生選抜に選ばれたりして韓国遠征に参加したりしていた。まだ関学は2部で、春は全勝優勝したのに、秋は入れ替え戦で負けて、一部昇格はダメだった。娘は高校3年生バスケットに熱中していた。二人ともサッカーとバスケットで、いまの人生が決まっているようにも思う
休日はゴルフか、サッカー観戦、そうでないときは野池でフナ釣りをしていた時期である。
体重は日記の何処かに72キロの記述があって、何とか60キロ台になどと言っているから今から思うとスマートなのである。ちなみに今は82キロなので何とか70キロ台に戻したいと思っている。
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