★『終戦記念日』ということになっているが、
1945年、8月15日ちょうど正午から『玉音放送は始まった』
私自身は天皇陛下の詔を中学校の暑い校庭で直立不動の姿勢で聞いた。
そのラジオの放送はよく聞こえなかったが、
『日本は戦争に負けたのだな』と感じて、
私は『終戦』というよりは『敗戦の日』という印象が強いのである。
大東亜戦争とよばれていたが、
それは1941年12月8日、あの真珠湾攻撃で幕を開けたのである。
小学校3年生の時だったがよく覚えているし、
シンガポール陥落も1942年2月と最初は連戦連勝だったのである。
日本は勝つと信じていたし、そのように教育されていたのである。
3年生のころまでは、冬・夏の休みに明石に帰省したりもしていたのだが、
だんだん戦況がおかしくなって、
関釜連絡船が潜水艦に撃沈されてからの内地は知らない。
小学生の6年生の頃は、内地の空襲もひどくなったし、
子どもながらに『この戦争は負ける』と思うようになった。
今のソウルは当時は京城と言っていたが、
間違いなく朝鮮も日本の一部だったし、
朝鮮人の人でもみんな日本語が話せたので
私は一切韓国語は話せないのである。
★日本の降伏調印式は8月15日ではなくて、
1945年9月2日、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われ、
トルーマン大統領は、全国民向けのラジオ放送で演説。
その中で9月2日を正式にVJデーとし、第二次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したのである。
アメリカの第二次世界大戦の終了は1945年9月2日ということになっている。
★当時の朝鮮には空襲はあったが、
アメリカの飛行機が飛んでくるだけで、爆撃は一切なかったし、
内地のように疎開もなかったので、
所謂戦時中は『豊かな生活』だったのである。
確か南北朝鮮の境界線38度線は、終戦になってすぐ敷かれたのである。
ソ連がこの戦争に参加したのは8月9日で、
南北朝鮮の分割は8月16日にソ連は同意し8月17日に施行された。
私たちはソウルにいてよかったと思う。
今の北朝鮮にいた日本人たちは大変だったようである。
★ 戦後、ご縁があってカワサキの二輪事業に従事することになるのだが、
世界のいろんなところに行く機会もあったのだが、
一番行ってみたかったのは、京城(今のソウル)である。
それが1988年のソウルオリンピックの時に実現したのである。
ソウルのオリンピック委員会から正式の招待があり、
開会式の当日会場のすぐ前の漢江(ハンガン)で、
JSのデモンストレーションを行ったりしたのだが、
そのチームの団長を引き受けて、
アメリカ・ヨーロッパ・オーストラリア、日本の
世界のトップライダーたちとご一緒したのである。
その時の1日、懐かしい小学校を訪ねて写真を撮ってきた。
小学校から300メートルぐらいのところ我が家はあった。
塀や門構えは昔と違って厳重になっていたが、
家はそのまま残っていた。
JJSBAの苧野会長と一緒に記念撮影をしてきて大満足だったのである。
それから30年が経っているのだが、今はここの辺りもすっかり変わって、
Googleマップで見ても、全く違う繁華街になってしまっているのである。
★戦後、私はその年の12月8日に日本に引き揚げたのだが、
当時の日本人の方たちは家などの処分をどうされたのだろう。
我が家は運よく米軍の空軍大佐の方に売ったのだが、
その金は現金にしても1人1000円しか持って帰れないので、
通訳の方が金塊に変えたら伊丹空港まで運んであげるということで、
金塊1貫500匁、100匁の延べ棒が15本あったのだが、
話だけで伊丹空港に飛行機など来なかったのである。
でも、なかなか金塊1貫500匁など見る機会はないので、
見れただけでもいいかなと思っている。
いずれにしても、当時の韓国人の方たちは上手くいろいろやられた方は
よかったのかなと思っている。
ソウルに日本人が残した資産は公共のモノも、個人資産も
相当なものだったと思うのである。
然しいつも思うのだが、一つの国であった朝鮮半島が、
大国の思惑で、二分されてしまったことが、
南北の人たちにとって不幸な出来事だったと思うのである。