つづき
印西道は逆井駅から上の方へ進む道
大津川をどう渡るかが問題
『香取の海』が川まであったとすると
印西道は江戸時代の道だった可能性がある
下の方が『明神社』
伊勢神宮の『御厨』とも言われ伊勢の方向に社殿が向いているほど
でも創建が鎌倉時代末なので微妙ではある
川の向こうは島で『茜津』ぽいけど、
大津とかぶるのでまぎわらしい
ここから船で手賀沼を渡ったのか
定かな情報が無い
東武野田線の『逆井駅』を通過
逆井は『さかサイダー』というのが名物
『かしワニ』に『さかサイ』
柏市は動物大国かっ
後日調べたら
『狢台公園(ムジナだい)』とかがあった
増尾はサザエさんのマスオさんを連想してしまう
と、ツッコミながら進むと『馬頭観音』
ウマ
三猿もいる
古地図によると
駅とここの間に『子神社』があるはずなんだけど
宅地化されていた
子とはネズミで大黒様(大国主)祭る
(子神なので子安神社の誤植の可能性も)
また分岐点
左が印西道
右が官道候補
今回は印西道へ
藤心1ー1
石造には『光明真言』と記されている
ざっり言えば、魔除けのお経みたいなものらしい
ここからやや長い下り坂となる
コンビニの所に出る
意外に交通量はある道
平面の地図とはイメージが違う
字名は『一本松』
裏に川が流れる低地
既にここからもう『海』だった可能性がある
大津川まできた
なんもない、昔と似たような風景なのか
平安時代は海だったのかが不明
貝塚はあるのかな?
川幅は狭い
大津川の名ほどではないが
将門は『大井』に都を創ろうとしていたという伝説が残る
大井津だから大津であり琵琶湖の大津京を模倣したとも
大井には『船戸』と『新船戸』の字名がある
『下橋』
北の方が『権現橋』、南は『芦川橋』
ヒントになるような地名が無い
坂を上がると墓地がある
地蔵らしきものもあるが腐敗している
近くには『白幡』の字名があり『源氏』に関連がある系
ちなみに、平家は赤旗
二又があるが左方向
塚崎の一部は区画整理され道が消える
16号の手前の道まで来た
今回はここまで
中学校の横に『風早村道路元標』
荘園制度時代の風早荘の地名が残る
松戸の上本郷にも『風早神社』の名を持つ元館がある
『惣台』の小字で惣領だったともいわれる
『香取の海』の予想図
陸路だけで常陸国へ行くのは無理
(現在地は手賀沼の手の字の左上の窪み辺り)
茜津とは海を渡る港駅にも思える
個人的には島がいくつもあったと推測する
大島という地名があるから大津川から先は島だった思う
今の手賀沼周辺には平将門に関する神社が多々残る
将門の本拠地は『猿島郡』
市川松戸流山野田坂東と陸で繋がっているので
馬で移動しやすいのは分かる
でも、手賀沼周辺は船が無いと移動できないような
馬も船に積んだのかな
それとも馬で渡れるような浅瀬だったのか
・・・昔の馬はポニーみたいに小さい馬だったし・・・
その辺の想像力はいかに
細長い島のような地形は馬の管理がしやすいという
将門の時代から馬を管理していたのだ
小金牧の前身は将門にある
こっちが現在の地形
印の位置が流山の鰭ヶ崎の東福寺
そこから東の真ん中辺が大津川
そこを越えれば陸(島か)
昔の下総国の地形は今とは違う
家康が江戸時代に利根川を銚子にひいて水の流れが変わり
手賀沼と印旛沼も開拓した
地名の『塚』はお墓の意味があるけど山のような高い土地でもある
亀は『水』に関するが島のように丘のような高い土地のことでもあるという
香取の海をどう渡ったのか?
以後調査
印西道は逆井駅から上の方へ進む道
大津川をどう渡るかが問題
『香取の海』が川まであったとすると
印西道は江戸時代の道だった可能性がある
下の方が『明神社』
伊勢神宮の『御厨』とも言われ伊勢の方向に社殿が向いているほど
でも創建が鎌倉時代末なので微妙ではある
川の向こうは島で『茜津』ぽいけど、
大津とかぶるのでまぎわらしい
ここから船で手賀沼を渡ったのか
定かな情報が無い
東武野田線の『逆井駅』を通過
逆井は『さかサイダー』というのが名物
『かしワニ』に『さかサイ』
柏市は動物大国かっ
後日調べたら
『狢台公園(ムジナだい)』とかがあった
増尾はサザエさんのマスオさんを連想してしまう
と、ツッコミながら進むと『馬頭観音』
ウマ
三猿もいる
古地図によると
駅とここの間に『子神社』があるはずなんだけど
宅地化されていた
子とはネズミで大黒様(大国主)祭る
(子神なので子安神社の誤植の可能性も)
また分岐点
左が印西道
右が官道候補
今回は印西道へ
藤心1ー1
石造には『光明真言』と記されている
ざっり言えば、魔除けのお経みたいなものらしい
ここからやや長い下り坂となる
コンビニの所に出る
意外に交通量はある道
平面の地図とはイメージが違う
字名は『一本松』
裏に川が流れる低地
既にここからもう『海』だった可能性がある
大津川まできた
なんもない、昔と似たような風景なのか
平安時代は海だったのかが不明
貝塚はあるのかな?
川幅は狭い
大津川の名ほどではないが
将門は『大井』に都を創ろうとしていたという伝説が残る
大井津だから大津であり琵琶湖の大津京を模倣したとも
大井には『船戸』と『新船戸』の字名がある
『下橋』
北の方が『権現橋』、南は『芦川橋』
ヒントになるような地名が無い
坂を上がると墓地がある
地蔵らしきものもあるが腐敗している
近くには『白幡』の字名があり『源氏』に関連がある系
ちなみに、平家は赤旗
二又があるが左方向
塚崎の一部は区画整理され道が消える
16号の手前の道まで来た
今回はここまで
中学校の横に『風早村道路元標』
荘園制度時代の風早荘の地名が残る
松戸の上本郷にも『風早神社』の名を持つ元館がある
『惣台』の小字で惣領だったともいわれる
『香取の海』の予想図
陸路だけで常陸国へ行くのは無理
(現在地は手賀沼の手の字の左上の窪み辺り)
茜津とは海を渡る港駅にも思える
個人的には島がいくつもあったと推測する
大島という地名があるから大津川から先は島だった思う
今の手賀沼周辺には平将門に関する神社が多々残る
将門の本拠地は『猿島郡』
市川松戸流山野田坂東と陸で繋がっているので
馬で移動しやすいのは分かる
でも、手賀沼周辺は船が無いと移動できないような
馬も船に積んだのかな
それとも馬で渡れるような浅瀬だったのか
・・・昔の馬はポニーみたいに小さい馬だったし・・・
その辺の想像力はいかに
細長い島のような地形は馬の管理がしやすいという
将門の時代から馬を管理していたのだ
小金牧の前身は将門にある
こっちが現在の地形
印の位置が流山の鰭ヶ崎の東福寺
そこから東の真ん中辺が大津川
そこを越えれば陸(島か)
昔の下総国の地形は今とは違う
家康が江戸時代に利根川を銚子にひいて水の流れが変わり
手賀沼と印旛沼も開拓した
地名の『塚』はお墓の意味があるけど山のような高い土地でもある
亀は『水』に関するが島のように丘のような高い土地のことでもあるという
香取の海をどう渡ったのか?
以後調査
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