戦国時代、細川ガラシャほど数奇な一生を送った女性は少ない。
【以下は長岡京市のHPからの引用=丸写しです】
「細川ガラシャ」は、名前を玉といい、永禄6年(1563)明智光秀の娘として生まれました。
天正6年(1578)旧暦8月(新暦9月)、16歳の時、織田信長のすすめで、
当時乙訓一帯を支配していた戦国大名で勝龍寺城主細川藤孝の長子忠興のもとに輿入れしてきました。
そして、一時期(2年間)ではありましたが、勝龍寺城で幸福な新婚時代を過ごしました。
天正10年(1582)、父明智光秀がむほんを起こし、
全国を平定しようとしていた織田信長を倒すという、日本の歴史上の大事件「本能寺の変」が起こりました。
信長を倒し天下人となった光秀は、以前からの盟友である藤孝・忠興父子に加勢を求めます。
しかし、先見の明のある藤孝・忠興父子は主人織田信長を倒した光秀のさそいをきっぱりとことわります。
その後明智光秀は羽柴秀吉との山崎の合戦で敗れ、一時、勝龍寺城に逃げ込みますが、
結局近江坂本城に帰る途中戦死し、その一族も坂本城とともに滅んでしまいました。
このことにより、玉は生まれたばかりの子供からも引き離され、
丹後の山奥深くの味土野(京丹後市)という山里に約2年間幽閉されました。
それ以後彼女の苦難の生活が始まります。
そんな中にあっても、身分の分け隔てを超えた人間愛、優しさといたわりの心を常に忘れず持ち続けていたと言われています。
その後、幽閉を解かれて大坂城下玉造の細川家屋敷に住むようになってからも、
側室おりょうの存在を知ったり、夫忠興の嫉妬心のため屋敷から外出が許されないなどさまざまな困難があるなかで、
彼女は心の平安をキリスト教に求めて熱心に信仰し、
ついには洗礼を受け、細川ガラシャ(日本語で言えば恵みという意味)と呼ばれるようになります。
しかし、豊臣秀吉の死後、再び天下が乱れ、徳川家康と石田三成の対立が激化してきました。
石田三成は、徳川家康が上杉討伐に兵を起こした際に、
これに従った細川忠興を始めとする大坂城下に屋敷を構える家康方の大名から、人質を取ることを企て、
まず細川家屋敷に軍勢を差し向け、ガラシャに人質になるよう強要しました。
ところが、彼女はこれを敢然と拒否し、屋敷に火をかけて最期を遂げました。
慶長5年(1600)7月17日。38歳の生涯でありました。
辞世の句としては、
"ちりぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ"
が伝えられています。」
(以上、引用終わり)
辞世の句に関しては楽しいエピソードがあります。
それは8日の昼にご馳走になったWさんは大の歴史ファン特に戦国時代という事で
天女に辞世の句を覚えさせておいて、
Wさんに丹後半島に行くのでガラシャの幽閉の地に行くつもりだけど
ガラシャの辞世の句を知ってる?と聞いて
恐らく知らないだろうから辞世の句を披露して感心してもらおうという戦略を立て
見事に天女は披露したのでありました。
(愛妻家の錆鉄人は戦略を立ててから毎日、天女が覚えているかの試験をしました。)
錆鉄人は上記のようなガラシャの歴史の全部は知りませんでしたが、
丹後半島の山中奥深く幽閉されていたという事は知っていたので
いつか尋ねてみたいと考えていたのが、今回の丹後半島遠征になりました。
という事で、10日道の駅を出発し、途中の琴弾浜を観光して山中に分け入ったのでありました。
最後の10km位は1車線の道路となり、その最後の数キロは大平温泉への林道のような隘路でしたが、
月曜日という事で観光の自動車と遭わなかったので良かったです。
1kmほど手前で道路を占拠して材木の積込みをしていたトラックがいて、
その横をギリギリ通過して、遂に山頂のような「味土野」に到着。
車を停めた先は行き止まり、横に使用不能のトイレがありました。
右手には高さ数メートルの土塁があり、そこがガラシャが幽閉されて住んでいた女城(めじろ)です。
天女は、
「こんな凄い所(山奥)に良く連れてきて下さいました。ありがとう」
と言ってくれましたが、大平温泉同様、もう2度と行きたくはありません。
100mほど下った所に記念館のような建物がありましたが、閉鎖されていました。
すれ違い出来ない隘路が延々と続くこんな所に来る変わり者がたくさんいるはずがありませんから!
でもトイレは使用可能でした。しかもウォシュレット!
なお、帰る時、材木を積んでたおじさんにお礼を言ってしばらく話をしましたが、
最初の写真の後ろに見える家は人が住んでいるように見えたので尋ねると
もともと住んでいた人は全部出て行ったけれど、名古屋かどこかから来た人が住んでいて木地師などをしているとの事。
雪もたくさん積もって除雪も出来そうにない山奥ですが、冬も住んでいるそうです。
最後はおじさんに教えてもらった滝です。
【以下は長岡京市のHPからの引用=丸写しです】
「細川ガラシャ」は、名前を玉といい、永禄6年(1563)明智光秀の娘として生まれました。
天正6年(1578)旧暦8月(新暦9月)、16歳の時、織田信長のすすめで、
当時乙訓一帯を支配していた戦国大名で勝龍寺城主細川藤孝の長子忠興のもとに輿入れしてきました。
そして、一時期(2年間)ではありましたが、勝龍寺城で幸福な新婚時代を過ごしました。
天正10年(1582)、父明智光秀がむほんを起こし、
全国を平定しようとしていた織田信長を倒すという、日本の歴史上の大事件「本能寺の変」が起こりました。
信長を倒し天下人となった光秀は、以前からの盟友である藤孝・忠興父子に加勢を求めます。
しかし、先見の明のある藤孝・忠興父子は主人織田信長を倒した光秀のさそいをきっぱりとことわります。
その後明智光秀は羽柴秀吉との山崎の合戦で敗れ、一時、勝龍寺城に逃げ込みますが、
結局近江坂本城に帰る途中戦死し、その一族も坂本城とともに滅んでしまいました。
このことにより、玉は生まれたばかりの子供からも引き離され、
丹後の山奥深くの味土野(京丹後市)という山里に約2年間幽閉されました。
それ以後彼女の苦難の生活が始まります。
そんな中にあっても、身分の分け隔てを超えた人間愛、優しさといたわりの心を常に忘れず持ち続けていたと言われています。
その後、幽閉を解かれて大坂城下玉造の細川家屋敷に住むようになってからも、
側室おりょうの存在を知ったり、夫忠興の嫉妬心のため屋敷から外出が許されないなどさまざまな困難があるなかで、
彼女は心の平安をキリスト教に求めて熱心に信仰し、
ついには洗礼を受け、細川ガラシャ(日本語で言えば恵みという意味)と呼ばれるようになります。
しかし、豊臣秀吉の死後、再び天下が乱れ、徳川家康と石田三成の対立が激化してきました。
石田三成は、徳川家康が上杉討伐に兵を起こした際に、
これに従った細川忠興を始めとする大坂城下に屋敷を構える家康方の大名から、人質を取ることを企て、
まず細川家屋敷に軍勢を差し向け、ガラシャに人質になるよう強要しました。
ところが、彼女はこれを敢然と拒否し、屋敷に火をかけて最期を遂げました。
慶長5年(1600)7月17日。38歳の生涯でありました。
辞世の句としては、
"ちりぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ"
が伝えられています。」
(以上、引用終わり)
辞世の句に関しては楽しいエピソードがあります。
それは8日の昼にご馳走になったWさんは大の歴史ファン特に戦国時代という事で
天女に辞世の句を覚えさせておいて、
Wさんに丹後半島に行くのでガラシャの幽閉の地に行くつもりだけど
ガラシャの辞世の句を知ってる?と聞いて
恐らく知らないだろうから辞世の句を披露して感心してもらおうという戦略を立て
見事に天女は披露したのでありました。
(愛妻家の錆鉄人は戦略を立ててから毎日、天女が覚えているかの試験をしました。)
錆鉄人は上記のようなガラシャの歴史の全部は知りませんでしたが、
丹後半島の山中奥深く幽閉されていたという事は知っていたので
いつか尋ねてみたいと考えていたのが、今回の丹後半島遠征になりました。
という事で、10日道の駅を出発し、途中の琴弾浜を観光して山中に分け入ったのでありました。
最後の10km位は1車線の道路となり、その最後の数キロは大平温泉への林道のような隘路でしたが、
月曜日という事で観光の自動車と遭わなかったので良かったです。
1kmほど手前で道路を占拠して材木の積込みをしていたトラックがいて、
その横をギリギリ通過して、遂に山頂のような「味土野」に到着。
車を停めた先は行き止まり、横に使用不能のトイレがありました。
右手には高さ数メートルの土塁があり、そこがガラシャが幽閉されて住んでいた女城(めじろ)です。
天女は、
「こんな凄い所(山奥)に良く連れてきて下さいました。ありがとう」
と言ってくれましたが、大平温泉同様、もう2度と行きたくはありません。
100mほど下った所に記念館のような建物がありましたが、閉鎖されていました。
すれ違い出来ない隘路が延々と続くこんな所に来る変わり者がたくさんいるはずがありませんから!
でもトイレは使用可能でした。しかもウォシュレット!
なお、帰る時、材木を積んでたおじさんにお礼を言ってしばらく話をしましたが、
最初の写真の後ろに見える家は人が住んでいるように見えたので尋ねると
もともと住んでいた人は全部出て行ったけれど、名古屋かどこかから来た人が住んでいて木地師などをしているとの事。
雪もたくさん積もって除雪も出来そうにない山奥ですが、冬も住んでいるそうです。
最後はおじさんに教えてもらった滝です。