深雪に包まれた雪国。
大きなバッグに下着を詰め込み、先週、息が凍える早朝に、出かけた・・・。
徐々に変化する車窓は、「心」を「大都会:東京から離れさせてくれる」。
ただ、流れゆく景色を見ているだけで・・・。
視覚の支配は強烈で、雪景色を暖かな電車内で見ているだけで、肌に突き刺す寒さが
想像されて、まるで厳冬の中にいるような感覚になる。
それと同時に、白い雪景色が大自然の中に溶け込んで、その美しさに見とれてもしまう。
滞在中には、しんしんと、途絶えることなく、新雪が降り積もり、
一晩の内に景色が変わって、まさに「一面の銀世界だった」。
そのおかげで、カキ氷よりもやわらかい「美しい雪」に触れることができた。
真っ白で、やわらかくて、綺麗で、冷たくて・・・
手の中でゆっくりと水に変わりゆく新雪!
木々の間には、真っ白な雪が積もり積もって、非常に幻想的な世界だった。
手作りのかんじきを履いて歩いたけれど、やわらかい新雪には埋もれてしまう。
西洋かんじきのスノーシューの方が快適だが、ごつごつしていて私は好きではない。
私が一番好きなのは、何もない真っ白な新雪に、自分の足跡をつけること。
雪国使用の長靴を履いて、ずぼっ、ずぼっ、と・・・・
めり込んでいく感じがたまらない。
犬のように、マーキングしているような印象を受けながら、それでも、
ずぼっ、ずぼっ・・・、夜中に活動した動物の足跡をたどるように・・・。
雪国には、雪国の美しさと楽しみ方がある。
しかし、それにしても「雪かき」は大変なものだと、初体験して改めて思い知った。
高齢化社会になった時、雪国の一人暮らしのお年寄りの“越冬”が気になってしまう。
やはり、今、腰が硬くなって痛いのは、あの雪かきのせいなのだろう・・・と、
背中の痛みが、未来の過疎地帯の痛みに感じられてしまう。
帰ってきたとき、感じたことは、この心地の良い疲れは、遠くへでかけた事実が、
移動時間よりも、「移動距離に反応している」ということ――。
まさに、自分の“思い込み”そのものである。
「離れた場所へいったんだよね・・・」
心の奥でイメージしたことが、表面意識に影響しているのだろう。
わかりやすく言うと・・・自分の印象(意識)としては・・・・
長時間をかけて山梨へ行っても、短時間で青森へ行った方が「遠くへ行った」と
感じてしまうということである。
人間の意識というものは、ケース・バイ・ケースで、面白い体験をさせてくれる。