私は「激痛」には、耐えたくない。
と言うよりも、もう「激痛」は、飽きた・・・。
今日も久しぶりに「激痛」が突然襲ってきて、飛び込んだ喫茶店で長時間動けなかった。
この齢になっても「まだかぁ」と切ない気持ちで、ぼぉ~と“意識が遠のく”のを感じた。
昨夜の会食は23時を過ぎて、疲れ果てていた。そのうえ、今日も打合せが続き、
ランチもPC片手におにぎり一個、夕食もゆっくりとれず、時間に追われる一日の最後に、
やっとの想いで“たどりついた赤坂の喫茶店”で、2時間近くも“うずくまっていた”。
もちろん、コップ1杯の水で、通常の二倍の鎮静剤を自己判断で服用。
(だいたい激痛の具合で、常用鎮痛剤の量がわかるようになったからである)
後は、ただひたすら、激痛が治まり、動けるようになるまで、ただ「待つのみ」・・・。
どれだけ時間がかかろうが、歩けるようになるまで、「待つのみ」なのだ。
私には、初潮を迎えた小学校6年7月17日から・・・ずっと、ずっと・・・
異常な激痛を伴う「生理痛」と闘っている。
尋常ではない激痛が、毎月襲ってくるのである。
子どもの頃は汗をかいて、息もたえだえで、異常に痛がるので、動くことも出来ず、
いつも医務室で寝ているか、担任の先生に自宅に送ってもらうかだった。
翌日は休むことも多かった。 母が汗びっしょりの服を着替えさせてくれていた・・・。
これが毎月、続くのである。
病院に診てもらったら、「子宮後屈病」だと診断されて、母親の内臓の遺伝をそのまま、
引き継いだカタチとなった。 <発育不全の、子供の頃のことである>
そのうち、激痛のために、はぁはぁと呼吸するので「過呼吸」の現象のようになり、
手足がしびれてきて、全く「辛い」としかいえない状態となっていった。
激痛が本当に耐えられなくなり、我慢が限度を超えて、鎮静剤を服用するようになった。
医者からも「無理をせず、飲んでください」と、薬の服用を勧められた。
東京に出てきてからは、2度、周囲に勝手に救急車を呼ばれ、大病を疑われた。
たとえば・・・駅のトイレへ行く通路で座り込んだ朝、隣を行過ぎる誰もが無視!!
「都会は冷たい人ばかりだなぁ」と、しみじみ感じた。
(私自身も、助けを呼ぶほどの勇気もなく、まだシャイだった)
うずくまっている足が疲れて、もう地べたに倒れると思った瞬間、隣を歩いていた女性に
声をかけた。「すみません。駅員さんに伝えてもらえますか? 苦しくて・・・」
駅の事務室に運んでもらって、早朝の駅の慌しさの中、駅員さんに説明をした。
「生理痛ですから、心配要りません。薬を飲んで休んだら問題ありませんから」
息絶え絶えにそう伝えたのに、あまりにも異常に見えたらしく、顔色も悪く・・・
また救急車を呼ばれた・・・・。
(駅員さんも心配するよね・・・何かあると問題になるし。)
担架で運ばれる最中、あの時の「空」が“真っ青で綺麗だった”のを覚えている。
私が20歳になってすぐぐらいの頃のことだ。
救急車を呼ばれた途端に、身体中が脱力するのを感じた・・・。
「もう、どうにでもなれ~~」そう、思った・・・。
そのほかのエピソードとしては、駅のホームで座ったまま、2~3時間とか・・・
会社のトイレに座って、動けなくなって、1時間以上待って、同僚が来るのを待って、
デスクから薬を持ってきてもらったり・・・・。
本当に、この持病には苦労してきた。(笑い話は、本当にたくさんある)
鎮静剤を飲むタイミングを逃すと、すぐ動けなくなってしまって、激痛と闘わなければ
ならないからである。「激痛」がやってくるのは、いつも突然で・・・やってきたら、
ひ弱な私は、なす術がなく、ただ絶えるのみである。
もしも・・・である。
私が、将来、全身「がん細胞」に侵されたとしたら・・・
私は迷わず、「苦痛」や「激痛」を耐え忍ぶことなく、「緩和ケア」を選択するだろう。
再生することができない病魔との闘いは、自分にとって無常である。
また、西洋医学の抗がん治療も、相当の確率と、生還する確率が高くない限り、
私は選ぶことはないだろう。
あえて「癌」と闘い、打ち勝とう・・・というよりも、自分の「生」に訪れた「癌」を
迎えいれて、自分と共生して、残された「生命」を全うすることを選ぶように思う。
これは、私の「死生感」である。
「どのように死んで逝きたいのか」ということも、自分で選んで、最後の最期まで
“自分で我が人生を決めていきたい!”のが、私の生き方である。
どんなに辛くても、哀しくても、毎日泣くしかなくても、それはそれで良いと思っている。
自然に、自分に与えられた人生を、全うできればそれで良い。
小学校の頃からの「激痛」との闘いは、本当に壮絶だったので・・・
「痛みに耐える」ことには、本当に・・・もう飽きてしまった。
生きながらえることは大切で意義あることであるが・・・状況が許されるのであれば、
私は緩和ケアを選んで・・・「24時間、心臓が止まるまで眠っていたい」――という
選択をするだろうと思う。
そして、雪の降る寒い時期に、一際あざやかに美しく咲いて、
どさっと花ごと(首ごと)落ちていく「椿」のように・・・・
最期は、潔く、楽に、苦しむことなく、自然に逝きたいと思う。
それは、まるで日本古来の侍の切腹風景を想像させるような「潔さ」が理想だ。
二人の両親を長時間にわたって介護して、最期の顔も、目をつぶることなく見据えて
送り出した私が選んだ、私自身の最期の理想的な姿である。
「苦痛」のない、穏やかな最期――。
無常なリスクをとることのない人生の終焉を受け容れた「自然な最期」――。
それが、私の理想的な姿である。