「激痛」は、まだ続いている。 ずっとである。 久しぶりの「激痛」だ!
これだけ続くと、本当に嫌になる・・・。 「神頼み」の域に突入だ。
そして、「何故なのか」と、違う疑問が頭をもたげてくる。
全く意味のない想いなのに・・・。
今日は自宅作業にした。
鎮静剤を飲み、呼吸を整え、PCに向かい、“まるで何事もなかったかのように”
仕事相手とメールして、次のアポを取ったり、スケジュール確認をしたりしている。
こういう時、人は「どのような心理状態に陥るのか」と、いつも思う。
私は、電話では仮面をかぶって元気なふりをするので、余計に気分が疲れる時がある。
休めれば、それに越したことはないが・・・・不幸にも、今日は無理のようである。
心も身体も、「元気で仕方がない!」「この元気を分け与えたい」という人は少ない。
誰もが何かしら、悩みを持っていたり、過去に病歴があったり、最近発病したりして
自分の個人的状態を抱えながら、一生懸命に生きているはずである。
昨夜の打合せ相手も、「最近、糖尿病を発病した」とカミングアウトされた。
そういうとき、誰かに聴いてほしいものなのかもしれない・・・・。
私は、ずっと鎮静剤を飲んでいたので、どうしても「胃」の具合が人よりも弱い。
父は若い頃、「胃」の手術をしているし、もともと元気な胃をもっているわけではない。
そこにきて、毎月の過剰な鎮痛剤摂取は、かなりの負担を課しているのだろう。
そのためだろうか・・・
若い頃は、「胃痙攣」をたびたび起こしては、地べたにうずくまる日々だった。
人肌の牛乳をちびりちびりと飲みながら、胃壁を守り、医者への道を急ぐ・・・。
今はもう、「激痛」も軽くなったし、「胃痙攣」も無くなったが・・・きっと、
若い頃の無理が、身体のいたるところに(何かしら)残っているだろう。
頑張り屋さんの私は、徹夜など問題にせず、仕事にも熱中してきた。
何をするにも、没頭して、我を忘れたように、頑張ってきた。
貧しかったが・・・素晴しい青春時代だったと、しみじみ思う。
そういう学生生活と会社や人との出会いを、与えてくださったことにも感謝している。
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しかし、人の「幸福」と「不幸」は、誰もが同じだと思っている私は・・・
何らかのバランスをとる必要がでてくるときが、きっとくるだろうと思っている。
私は、今は孤独だけれど、“素晴しい人に出会いすぎてきた”と思っているからだ。
しかし、その反面、人よりも「不幸」な状況もかなり背負ってきたとも思う。
毎月の「激痛に耐えること」だって、本当だったら無意味なことかもしれない。
しかし、そういう体質というか、病気というか(?)を与えられて、これまで生きてきた。
それこそが、私の「人生」なのだ。
そして、「そこから得たものや、学んだものもまた、多いんだよね」とも感じる。
今も、また追加で薬を服用して「今月はキツイなぁ。またかぁ」「辛いよ」「痛い」と
正直、嘆いている。 私は、そんなに強い人間ではない・・・。
食べ物が食べられず、朝食:りんご一個・・・・あとは胃壁を守る牛乳だけである。
白湯は、何杯も、浴びるほど飲んでいる。
内臓を守りながら、薬の効き目の効果をあげる方法を、数十年の間に学んだのだ。
切ない情報ではあるが・・・これもまた、「一つの学びだろうか(笑)」。
絶食は身体の再生をもたらすので抵抗感はないが、「激痛」には耐え難い。
悶絶するわが身を久しぶりに経験した。 齢をとっても、こういうことってあるんだなぁ。
安易に考えていた自分を、ひとしきり反省した。
さすが我が「持病」だ・・・主張してくれるよ!全く・・・・。
明日は、普通の状態に戻っていることを切に願う・・・・。