満員電車の悲痛

2010年03月22日 | 社会 -

大都会には、多くの人が住んでいる。

ストレスは、健康には大敵だと思うが・・・・
実は「満員電車に乗ること」自体が、ものすごく苦痛なものだと思う。
想像を絶する混雑時間が、日々続くのである。


この二週間ちょっとぐらいだが、毎日のように、凄く混んだ電車に乗った。
朝の貴重な時間を、あれだけの苦痛と、精神的な負担をかけられるのは、
現代人にとって、非常に悲哀に満ちている。
協調的に物事を考えない人ではないかと思うぐらい、自己中心的な“乗り方”で
強く押して入ってくるお客さんが、(現実として)たくさんいる。
この時間帯には、3~6分待てば、次の電車が来るというのに・・・である。


混んでいる「満員電車」の中には、いろいろな人が乗り込んでくる。
背中にバックを背負っている人、昨夜のお酒が抜けないで臭い息をはきかける人、
音楽を大音量で聴きながら周囲の迷惑は考えない人、新聞を開いて読んでいる人、
杖を突いた老人がいるのに無視する人、もう乗れないのに無理して乗ってくる人、
ものすごい量の香水をふりかけている人、足を踏んでも知らんぷりをする人・・・・・
ごった返す車中には、本当に、たくさんの人がいる。

満員の電車なのだから、乗っている人同士、身体を密着させなければならない隣の人に、
ほんの少しだけ“ちょっとした配慮”が、できれば良いのに・・・・
そういう相手に対する“気持ちの余裕のようなもの”は、全く感じられない。


率直に言ってしまうと・・・・・
環境がつくりあげた人々のすさんだ「心の状態」を、まざまざと見せ付けられた感じだ。
周囲への“気遣い”はしない。できないのかもしれないが、実際できる人は少ない。
自分がこの時間を我慢するために、音楽や新聞(スポーツ紙ばかり)に逃げている。
そうすれば・・・「聞こえないふり」、「見ないふり」ができる。
シルバーシートや、それ以外のシートでもそうだが、座った人は、ほとんど寝ている。
寝ているというよりも、目をつぶっている。
そうすれば、何かあっても、しばらくは「気がつかないふり」ができる。
無関心でいられるのだ。
本当に疲れた人もいるだろうが・・・・・早朝から「疲れている」というのは、
(それはそれで)かなり厳しいものである。
とにかく、ある一定の満員電車の乗車中の時間に限っては、「自分を守ること」が、
何よりも大切なことのように考えているようにも感じられた。


毎日、満員電車に乗っていると、いじわるしたくなる人が増えるような気がする。
優しい気持ちに、なれないからだ。
陰険に押されたら、“押し返したい”という気持ちが湧いてくる、哀しいことに・・・。

そうして、すさんでいく「心」の変化に焦点をあてることなく、仕方がないから、
また満員電車に乗って帰宅して・・・・また満員電車に乗って会社へ行く・・・・。



私は、冷静に観察をしながら、「満員電車」に乗っていたが・・・・
日ごとに、どんどん「心が冷えていく」のを感じた。
すさんでいく自分自身を感じた。

日々の生活のスタートが“あれ”では、本当に“やる気”を削がれてしまう。
切ないことである。


有識者の方々も、あのような満員電車通勤を、毎日経験してみるべきではないだろうか。
一般国民の日常の暮らしが、どのようなものなのか。
具体的には、如何なる影響を与えているのか・・・・体験して、考えてほしいものだ。
フレックスタイム制導入と言いながら、やはり、満員電車はなくならない。



どうにかならないのだろうか。
時差通勤も、自宅労働も、ある規定とルールができれば可能なシステムだと思うが、
なかなか変わっていかないのは「仕方がない」のだろうか。
本当に、どうしようもないことなのだろうか。
あのストレスを、どうにか軽減する方法は、ないものだろうか。


1~2日ならまだしも、毎日だとしたら、精神が麻痺してしまう。
取り返しのつかない心情の変化を、確実に引き起こしてしまう「苦痛」がある。
毎日のことだと、当然のように決め付けてしまわないで、もっと人々の心持ちを優先的に
考えてみたら、違う観点からの「会社の労働規約」も可能だと思うのだが・・・・・。
これは、夢物語なのだろうか。

とにかく、「満員電車は、空気も悪く、人々の心がすさんだ空間であった」。
まさに、都会の社会が抱える悲哀である。