朝日新聞の石川智也記者から記事が送られてきて、びっくり。
今回のしんゆり映画祭での『主戦場』の上映中止・再開騒動についての記事だと思っていたら、15年前の2004年、燐光群がイラク戦争を題材にした『私たちの戦争』を上演したとき、名古屋市の外郭団体・市文化振興事業団に直前になって共催を断られた事件が出てくる。
「緊急アップしました。15年前のことにも触れ、坂手さんのスペクタクル社会論も参考にさせていただきました。」とのことだった。
『私たちの戦争』に含まれる、イラクで拘束されたジャーナリスト安田純平氏とNGO活動家・渡辺修孝氏を描いた『戦場イラクからのメール』が問題とされた。確かにあの時は、「イラク戦争は評価が定まっておらず、公平中立が原則の市の外郭団体にはふさわしくない」というのが表向きの理由だった。もちろんそんな「表向き」じたいが、おかしい。
考えてみれば、私もこの問題の当事者だったことがあるということだ。
当時取材した石川記者は記す。
「が、内情を取材してみると、事業団内部にあったのは「渡辺のような政府に反対する人間を扱う劇は妥当ではない」という判断だった。共催が覆る直前の1カ月ほどの間、渡辺氏は自衛隊のイラク撤退要求のほか、外務省から請求された帰国費用の支払い義務無効を求めて国を提訴していた。
いずれも私自身が取材して記事化したものなのでよく憶えているが、「中立」「公平」を理由にした、その実は苦情や抗議を恐れての事なかれ的な自粛判断だったというところは共通している。
そして、だれがこの共催中止判断を行ったのかよく分からない、という点も同じだ。
(中略)
燐光群の芝居に登場した「スペクタクル社会」(ギー・ドゥボール)とは、人々が受動的な「観客」の位置に押し込められた世界、すなわち情報資本主義の究極の統治形態を指す概念だ。
これは同時に、「観客」が自らを監視することを強制されるというかたちで「動員=主体化」されてしまった「監獄」(ミシェル・フーコー)の社会でもある。ここでの「監視」とは、ジョージ・オーウェルが描いたような悪役の統治者によるそれではなく、相互監視と自己監視によって維持・強化されている人民参加型システムの別名である。
強大な権力の姿が見えない現代のスペクタクル社会の勝者がどこにいるのかは不明だが、敗北した者は計り知れない。
映画は現代のスペクタクル(見せ物)の王様であり続けているが、受動的な「観る者」は、「観られる側」としての矯正を知らず知らずに施されている。今回「監獄」の収容者にされたのは、映画祭だけではない。
映画には、演劇と同様、根源的に「監獄」の強制力を突破する力を秘めている。「観られる者」が視線を超克し「観る者」を揺さぶることで、真の主体性を覚醒させ得る。
作品を観る機会を奪うことの最たる罪は、ここにある。」
→ https://webronza.asahi.com/national/articles/2019110400002.html?page=4
本文中、「渡辺修孝氏の著書」となっているが、本はまだ出ていなくて、というか、小西誠さんと私が渡辺さんをイラクに送り出して、「毎週必ずメールするように」ということにして、送られてきたメールがその短編のみとになっている。だから二人が拘束されたときには責任を感じて青ざめた。そのときは、すぐに解放されたので、解放を求めるための集会が、めでたく帰国報告集会になったのだった。
あの時、名古屋市文化振興事業団は『私たちの戦争』の共催を断ったが、『だるまさんがころんだ』との二本立てだったので、上演は行った。
共催取り消しに抗議して、百人近い名古屋・東海の演劇関係者が集まってくれた。
今回のあいトレもしんゆりもそうだが、やはり直接・間接の支援が大切なのだと思う。
『主戦場』の〈しんゆり映画祭〉での復活上映が決まるまでの騒動は、「表現の自由は守られた」「表現の自由を妨害することは、必ず市民・表現者によって粉砕される」という教訓として、記憶されるべきだ。
今後、表現の自由を守る側が検閲する側に対して「しんゆりと同じことになっていいのですか。表現の自由を守る人たちが黙っていませんよ」と抑止力として言えるだけの成果を、『主戦場』の上映再決定の盛り上がりによって確実に獲得できたら、すばらしいことだ。