黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

足利紀行総集編・葛塚の要害経由で勧農城攻撃(?)

2019-10-06 21:52:32 | 足利紀行

夕方、ひめちゃんは七海ママとお散歩に出掛けました。

途中、ひめちゃんちの畑に、コスモスが咲いています。

コスモスひめちゃんです

でも、ひめちゃんたちにとっては、興味の湧かない草のようです。

ママをおうちにおいて、次は小次郎パパとお散歩です。

泣き出しそうな空でしたけど、みんなのお散歩が終わるまで、泣かずに待っててくれました

 

 


昨年の秋は、足利によく行きました。

少し古い記事ですけど、再編集して残しておきたいと思います

時折、新着記事も混ぜながら、足利紀行総集編スタートです

 

 

 

先日(2018年9月20日)足利の勧農城に行ってきました。

長享元年(1487)閏11月、関東管領上杉顕正の兄・上杉定昌によって足利勧農城が攻撃され、長享の乱が勃発したといいます。

それから約1ヶ月後、今度は関東管領方の善・山上が攻撃されるのです。

 

善・山上つまり葛塚が攻撃されるには、それなりの理由があったはずです。

どこでもいいから攻撃するという訳ではないでしょう。

上杉定昌は当時白井城にいて、家臣の宇佐美新兵衛尉を派遣したといいます。

葛塚は関東管領方の前線基地の位置にあります。

白井城から勧農城までの道の、ほぼ半ばになります。

勧農城攻撃の一団が通った可能性が高いです。

もしかしたら、一休みしたり、人材調達していったかも知れません。

 

今回は桐生市の錦町のロータリーからひたすら東を目指します。

足利の町をぬけ、目印の信号を右折すると土手にぶつかりそうになります。

よけて直進すると橋を渡ります。

川のはずですが水はなく、広い河川敷になってます。

 

 

あの橋を渡ってきました。

渡良瀬川の旧流でしょうか?

 

岩井山城跡(勧農城城跡)の説明板があります。

文正元年(1466)に足利長尾氏の初代長尾景人が足利庄代官としてここに居城を構えた歴史的城跡

とあります。

余計なことですが、だったら勧農城を前面に出した方がいいのでは

駐車場がないけど、駐車スペースはあります

ここに駐車です。

 

説明板の脇に階段があり手すりもついてます。

階段に手すりはありがたいです

 

おや、鳥居があります

 

あの手すりをつたって上ってきました。

さほどの長さでもありませんけど、助かりました

参道がまっすぐ上に伸びずに、直角に曲がっているのは不思議です。

 

少し見晴らしのよいところに出ました。

白井からやってくる軍勢見えますね

 

神社は赤城神社でした

でも、赤城神社がなぜここにあるのでしょう?

ここの脇に、岩井山城跡の白い(?)ポールがあります。

 

この脇の道を登ります。

それなりにクマザサ等が生い茂った山の中を、しばらく歩きました。

 

あれ、建物があります

乳房地蔵堂とあります。

失礼します

お地蔵様のようです。

合掌

 

手水鉢に「勧農村」の文字がありました

勧農城がなくなっても勧農村はあったのです

 

本堂(?)のそばにかつての庫裏でしょうか、廃屋がありました。

かつてはちゃんと住職のいるお寺だったようです。

僧侶独特の形の墓石があります。

かつてはもっと大きな境内をもつ寺だったのでしょう。

 

勧農城跡は、まあ柄杓山城(ひしゃくやまじょう・桐生市)跡よりは歩きやすいかな?

 

 

駐車した鳥居の下まで戻る途中、見付けた石造物です

月と日があるので、庚申塔でしょうか?

 

三面の青面金剛です

 

 

葛塚(善・山上)から、白井へも勧農城へも、車で1時間弱くらいです。

上杉定昌は、白井から葛塚に来て一休みというか準備を整えてから、勧農城へ向かったかも知れません

 

 

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ホワイトタイガーのいる山門(不老山観音寺)

2019-10-06 15:27:33 | 群馬県・旧桐生市

今朝の赤城山には、重く雲が立ちこめていました。

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ました。

向こうから見かけないグレーの小さな子がやって来ます。

ひめちゃんと獅子丸は、臨戦態勢です

「おはようございます。男の子ですか?。」

「女の子です。」

その子はシッポを振ってます。

獅子丸は警戒を解きません。

「バイバイ、またね

異性でも、即ご挨拶ということにはならない時もあるようです。

 

 

 

少し前になりますけど、桐生市川内で、偶然「観音寺」という表示が眼に入りました。

まったく予備知識のないお寺でした。

駐車場から見回すと、茅葺き(かやぶき)のクラシックな門が見えます。

桐生市のHPで見たことがあります

わー、ここだったんだ

左右のお地蔵様も、首はご無事のようです

 

見上げると、龍がいます。

門をくぐって見上げると、ホワイトタイガーです

聖獣白虎というより、ホワイトタイガーです。

微笑みのホワイトタイガーです

 

山門の説明板があります。

寛永四年(1627)近江国比叡山延暦寺の僧実呼が下仁田山村に錫を留め、荒廃した古寺を再興し、翌寛永五年武蔵国寛永寺一世天海から不老山薬師院観音寺の寺号を給わったという補任状が残されている。この山門はその頃に建立されたものであろう。

そうなんですか

 

鐘楼堂です。

 

本堂を目指します。

弁財天があります

 

本堂の右の高台にも、説明板があります。

観音寺石幢、永正9年(1512)の銘があるそうです。

肉眼ではちょっとわかりません

享徳の乱、長享の乱、永正の乱と続いて、世は戦国時代に向かってます

逆修で、生きているうちに自分の冥福を祈った功徳主は、どんな人だったのでしょう?

 

さて、御朱印を頂いて帰りましょう。

庫裏を尋ねます。

「本日は、住職不在のため御朱印はお出しできません。」

「では、またの機会に。」

残念、また来ましょう

 

すぐ後ろに川が流れます。

山田川の山田橋です。

もうじき渡良瀬川と合流します。

 

 

後日、また尋ねました。

あいにく、この日も住職は不在でした。

まだ、御朱印はいただけていません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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