黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

その名は善勝寺・その 2 (『上野国志』の記憶)

2021-09-23 14:41:34 | 群馬県・中毛

ひめちゃんちの近所で、稲刈りが始まりました

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出て、新沼&童沢貯水池を目指します。

途中の牧場、乳牛の皆さんは、朝ご飯中でした

新沼には、誰もいません。

隣の童沢貯水池はどうかな?

あれ、ミドリ沼が解消に向かってる

澄んだ水の向こうに、カモさん達がいます。

サギさんたちの姿はありません。

テリトリーのパトロールに行ったかな?

 

 

 

かわいい十二支とお地蔵様にさようならして、奥へ進みます

ここは墓地を整理したようです。

古い石造物の間を通って、山門へ行きます。

 

 

実は、『上野国志』(安永3年1774刊)の著者、世良田の毛呂権蔵(もろごんぞう)もやって来ています

 勢多郡 善勝寺
端気村にあり、天台宗長楽寺の末寺なり、太治四年聖慶法師と云もの、醫王善逝の像をこゝに安置す、當寺未だ寺院あらず、只堂守の僧のみ、正嘉二年天台僧覚心、堂に主たり、曾平時賴この所に来りて談話して、甚だ相諧ふ、便田壹町を寄附す、永享三年僧圓祐再造寺院、得聚山慧雲隠自親寺と號、従此寺主相続す、天文年中厩橋城主長野左衛門尉名を善勝寺と改む、永禄五年、厩橋城代北條高廣艮場山と名づく、堂前に櫻樹二株あり、巨木なり愛すべし、斎田参拾伍石、

世良田・長楽寺の末寺だったのです

「太治四年聖慶法師と云もの、醫王善逝の像をこゝに安置す」、大治4年(1129)聖慶法師が、醫王善逝(いおうせんせい・つまり薬師如来)像を安置した事が、この寺の始まりと書いてます。

鎌倉幕府の執権・平時賴(北条時賴)がやって来たともあります。

天文年中(1532~1555)に、厩橋城主・長野左衛門尉が名を善勝寺と改めたとあります。

そして、永禄五年(1562)、厩橋城代・北條高廣が艮場山と名づけたとあります。

大きな櫻の木が2本あって、「愛すべし」といいました。

まだあるかな?

 

 

古い石造物の間を散策です。

古い石造物は、この一角だけのようです。

毛呂権蔵『上野国志』の記憶は、ここら辺だけのようです

 

 

山門を目指します。

途中は観音様の道です

古くはないけれど、みなさん慈悲深くたたずんでおられます

出口付近には、かわいい六地蔵です

出口には、ドデンと大きな観音様です

蓮の花をお持ちなので、聖観音かな?

 

観音様の道を振り返ります。

合掌

 

さあ、山門です

 

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