ひめちゃんちの近所で、早くも稲刈りが始まりました。
後ろ姿は、ますます茶髪(ちゃぱつ)になる七海ママです。
でも、体調はいいようです
ジャンプが復活しています。
案山子が移動しています。
稲刈りといっても、実だけ収穫してあとは刻んでしまうようです。
米沢薬師を目指す途中で、おや、宇都宮神社だ
駐車場が見当たらず、ちょっと路上で失礼します。
額には宇都宮大明神とあります。
社殿と社務所が一緒のようです。
サルスベリの季節です。
社殿の東には、川が流れます。
おや、向こうに見えるお堂は、見たことがあります。
米沢薬師です
やはりサルスベリが見えます。
菱カルタがあります。
1丁目の米沢にある宇都宮神社は、細川丹後守が宇都宮二荒山神社から分祀して米沢地区で一休みしたという場所に、元文元年(1736)に創立したものといわれる。
細川氏ですか
「細川丹後守が宇都宮二荒山神社から分祀して米沢地区で一休みした」、そこには分祀してきた神様は、置いて行かなかったのですね。
どこか、他の場所で鎮座したのですね。
後にその場所に、元文元年(1736)に、米沢の宇都宮神社は創立されたのですね。
では、細川丹後守は、どこに宇都宮二荒山神社から分祀した神様を持って行ったのでしょう。
実は、菱にはもう一社、宇都宮神社があります。
応永19年(1412)菱領主細川丹後守の勧請で、宇都宮二荒山神社から分神して祀ったと伝えられる。
こちらに持ってくる途中、一休みしたのが米沢の宇都宮神社の所だったのです
ヒイラギはわかりませんでした。
そんな大木あったかな?
大きな切り株がありました、もしかしたら?
菱領主細川氏については、史料がほとんどありません。
『桐生老談記』によれば、
細川内膳家は摂津国細川分流で、京都にいた細川丹後という者が初代である。
細川丹後は、野州小俣の渋川氏に跡継ぎとして迎えられる約束で応永19年(1412)に小俣に下った。
ところが、家中は外腹の隠し子を取り立て、細川丹後に従わなかった。
細川は関東公方足利持氏に訴え、少しの領地をもらい、その秋から下菱に住んだ。
其の子修理祐、其の子丹後、其の子主膳、其の子内膳と5代にわたり繁栄した。
内膳の時、都の八条殿から小雀という名馬を拝領した。
その名馬小雀を桐生氏から何度も所望されたけれど、渡さなかった。
桐生氏は天文十三年(1544)三月二日、津布子常陸之介を大将として襲い名馬を奪い去った。
内膳夫妻は自害した。
内膳の妻は膳城主因幡守の妹であった。
老談記は歴史的事実をそれなりに表現したものでしょうけど、あくまでも物語です。
菱領主細川氏が登場するのは『桐生老談記』だけのようです
その細川内膳の妻は、山上城のおとなり膳城主・膳因幡守の妹だったといいます
さあ、米沢薬師に行きましょう
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