黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

足利紀行総集編・(樺崎寺から移転)光得寺五輪塔群

2019-10-26 21:15:51 | 足利紀行

今朝は、冷たい雨がやんで晴れました

ひめちゃんは獅子丸と、堀之内を北に出てお散歩してきました。

赤城山は、はっきりと姿を現しています

いつもの2本西の道を帰りました。

使われなくなった牛舎の傍らに、大きな石がいくつもあります。

古墳の石かな?

 

堀之内に入ろうとしたとき、見たような3名がやって来ます

小次郎パパは、すっかり体調が回復したようです。

みんなで一緒に帰りました

 

 

 

樺崎八幡宮(樺崎寺)から、五輪塔群が移された光得寺(こうとくじ)に回りました。

わりとシンプルな山門で、奥に本堂が見えます。

 

山門脇に説明板がありました。

要するに、開山は足利義兼、開基は足利義氏と伝わるということです。

「逗子入り大日如来座像・五輪塔群・外墓地地蔵堂の黒衣地蔵は樺崎八幡宮・樺崎寺(法界寺)から明治時代に移されたものである。」ともあります。

 

そうすると、山門脇においでのこの方が黒衣地蔵でしょうか?

 

 


山門をくぐると、左手に古い石造物の山です。

なんとなく孔子のように見える石像もあります。

 

奥の覆屋の中に、五輪塔群があります。

覆屋は、新しそうです。

覆屋の中の五輪塔は、大きい、新田氏歴代の墓よりずーっと大きいです

新田氏と足利氏の実力の差といったら語弊がありそうですけど

説明板です。

この五輪塔群は、「その特徴から鎌倉時代から室町時代委作られた足利氏歴代と重臣の供養塔である」とあります。

後ろの大型のものは、群馬県みどり市笠懸の天神山産の凝灰岩からできているともあります。

天神山産の凝灰岩は新田氏の財源のひとつだったと言いますけど

 

 

庫裏に寄って御朱印をいただきました。

 

 

大黒さんは、「青空の下の五輪塔群も味わいのあるものでそれなりに良かった。」と話してくれました。

いただいた光得寺のパンフレットに、かつての青空の下の五輪塔群がありました。

それなりの味わいですね

 

なにげなくいただいた1枚の絵はがきも、帰宅後いろいろ検索してびっくりです。

これが樺崎寺から移された逗子入り大日如来座像でした

大仏師運慶の作という話もあるようです

光得寺の所有であるけれども、現在は東京国立博物館にあるということです。

 

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駆け足で二宮尊徳資料館&桜町陣屋跡

2019-10-25 21:15:57 | 親鸞ゆかりの旅

冷たい雨の一日です

ひめちゃんたちは、レインコートを着てのお散歩です。

七海ママのレインコートも、基本的には貫頭衣(かんとうい)で、両サイドをお腹で併せてマジックテープで止めています。

ママのだけ、ちょっとかわいいデザインです

 

 

 

10月5日、最後の訪問地は二宮尊徳資料館と桜町陣屋跡でした。

実は、先に訪問した専修寺も二宮尊徳資料館も、旧二宮町にあります。

ウィキペディアによれば、二宮町は昭和29年(1954)に誕生し、平成21年(2009)に真岡市に合併し消滅しました。

町名は、二宮尊徳にちなむとあります


資料館の入り口に、二宮尊徳の像があります。

ちょっと小さめです。

資料館の中に大きな尊徳像があります。

人々を受け入れてくれそうな、大きなおだやかそうな人でした

この像の前で、二宮尊徳についてのビデオをみました。

館内はカメラ禁止でした

 

二宮尊徳というと、薪をしょって読書をしている像のイメージしかありませんでした。

疲弊した農村を立て直し、現在の農協のもとになる思想も持っていたとは、すごいことです

資料館を見学して、この町が彼にちなむ町名を選択したというのも納得です

 

慌ただしく見学して、桜町陣屋跡跡に足を延ばします。

土塁に囲まれている感じです。

 

説明板があります。

桜町陣屋は二宮尊徳(金次郎)が活躍した場としてしられています。文政6年(1823)、二宮尊徳は小田原藩主大久保忠真の命により、疲弊していた桜町領を復興するために、相模国栢山村(神奈川県小田原市)からやってきました。尊徳は、この地で報徳仕法と呼ばれる独自の農村経営法と思想哲学を編み出し、26年もの間ここを拠点に、桜町をはじめ近隣の村々の復興につくしました。

あの茅葺きの建物は、二宮尊徳の活動の拠点だったのです

左をみると、案山子(かかし)がいっぱいです。

収穫した稲が干してあるようです。

振り返ると、確かに土塁です。

中世の葛塚城も、もしかしたらこんな雰囲気だったかもしれません

 

 

陣屋の間取り図があります。

 

一番左は確かに土間です。

奥に進みます。

だいたいの人は、ここから引き返して行きました。

でも、隣に神社が見えます

あれが、二宮神社ですね

気になる石造物があります。

 

こちらに足を向けたのは、顔見知りのRさんと2人だけでした。

集合時間が迫っていたのです。

二宮尊徳のイメージの社殿です

いつもだったら、後ろに回ったり一周したりするんですけど、ここで退却です。

心の中で、2礼2拍1例礼で参拝です

ダッシュで、集合場所に戻ります

 

 

 

 

 

 


 

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足利紀行総集編・続紅葉の樺崎八幡宮

2019-10-24 20:42:22 | 足利紀行

夕方、ひめちゃんは、小次郎パパとお散歩にでました。

南の方を歩いて、堀之内近くに帰ってきました。

「あ、ケンくんだ

ひめちゃんが大好きなケンくんがやって来ます。

でも、パパが一緒です

パパのリードは短く持って後ろにいてもらいます。

ひめちゃんは大喜びで、ケンくんにご挨拶です

パパは、後ろで「ウー、ウー」と、小声でうなってます。

 

 

 

樺崎八幡宮(かばさきはちまんぐう)で、御朱印と一緒にパンフレットをもらいました

 

樺崎寺跡(国史跡)

樺崎寺は義兼公が文治五年奥州征伐の際、戦勝祈願のために創建しました。~中略~晩年出家した義兼公は樺崎寺で念仏三昧の日々を送り、現在の本殿床下に生入定したと伝えられています。その後、樺崎寺は樺崎八幡宮とともに鎌倉・室町時代を通じて足利氏の保護を受け、繁栄しました。戦国時代以降は衰退し、江戸時代は神宮寺として命脈を保っておりましたが、明治の神仏分離令によって廃寺となりました。

 

付近の略図があり、位置関係もわかります。

確かに鑁阿寺(ばんなじ)の鬼門の方角にあります

 

社殿の南側を池を見ながら散策です

社殿を振り返ったところです。

 

少し行くと、供養塔覆屋跡と説明板があります。

 

足利氏御廟跡ですね

「鎌倉公方・足利持氏によって先祖の廟所が整備されたと考えられる」とあります

ここにあった五輪塔群は廃寺になったとき、近くの光得寺に運ばれたということです。

ぜひ行ってみなくてはなりません

 

対岸を見下ろすと、水面に向こうの山が映っています

池の周りを歩きます。

 

黄色のもみじがきれいです

 

向こうの山の紅葉がきれいに、きれいすぎるほど映っています

 

燃えるような赤紅葉です

 

一周してきました。

もう一度浄土式庭園を眺めわたします。

いい雰囲気です

 

ジャストタイミングでいただいた御朱印です。

 

これからもっと整備がすすむことでしょう。

この次は、お弁当でも持って行って、もっとゆっくり散策しましょう

 

 

 

 

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足利紀行総集編・紅葉の樺崎八幡宮

2019-10-23 20:47:10 | 足利紀行

やっと晴れました

ひめちゃんは獅子丸と、堀之内を北に出ました。

堀切跡から岩神沼に出ようとしたとき、ひめちゃんは何かを見付けました

小学生が2人、集合場所に向かうようです。

じっと通り過ぎるのを待ちます。

行ってしまってから、岩神沼(いわがみぬま)の方に上ります。

沼は静かでした。

赤城山もきれいに見えます

おかあさんは、今日はあの赤城山に行ってきました。

記事は後日に

 

 

 

(2018年)12月4日、前日の雨で地面が乾かず、草むしり予定が不可能になりました

そうだ、樺崎(かばさき)に行こう

足利鑁阿寺(ばんなじ)の北門を出てすぐに、鶉の鳴かぬ里・樺崎の話がありました。

気になっていたのです。

 

足利の町を抜けて「北の郷農産物直売所」を目指します。

直売所を過ぎると、途端に道が狭くなります。

少し行くと、鳥居が見えてきました

樺崎八幡宮(かばさきはちまんぐう)、りっぱな神社です

 

銀杏が散ってます。

なんだか、ツツジが咲いているようです。

 

社務所からおじさんが2人出てきました。

「こんにちは

「こんにちは。御朱印は入らないだろうね。」

「え、御朱印いただけるんですか 御朱印ください 」

おじさんたちは地区のお当番さんでしょうか、帰る所だったようです。

ジャストタイミングでした

御朱印と一緒に「銀杏を拾っていいよ。」と、ビニール袋もいただきました。

 

社殿の階段脇には銀杏の実がいっぱいです。

 

「ツツジが咲いていますけど、毎年今頃咲くんですか

「いや、今年だけだよ。何か狂ってしまったらしよ。」

 

階段脇に樺崎八幡宮の説明板があります。

いくつか説明板がありましたが、これが一番わかりやすいかな。

鑁阿寺(ばんなじ)の鑁阿とは、足利義兼の号だったのですか

彼は晩年ここに住み、ここで入寂したのです

 

社殿への階段を上り振り返ると、浄土式庭園がいい感じです。

ツツジの花は少し小ぶりのようです。


浄土という言葉に似つかわしい雰囲気がただよってます

足利義兼が奥州征伐に行って、平泉の浄土式庭園に感動して作ったと言います。

平泉を蹂躙してきた結果とは、ちょっと悲しいです

 

さて、拝殿で参拝です。

拝殿で参拝した後、裏に回ります。

壮麗な建造物です

 

脇に説明板がありました。

足利義兼が祀られた赤御堂への石段跡が発見されたとあります。

石段の向こうに本殿が映ってます。

現在の壮麗な本殿とは違う、うらさびれた色のない建物です

貴重な遺跡として復元されたのですね

 

(続く)

 

 

 

 

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親鸞聖人ゆかりの寺・高田山専修寺(後編)

2019-10-22 19:01:06 | 親鸞ゆかりの旅

雨の朝でした。

ひめちゃんと獅子丸は、レインコートを着てのお散歩になりました。

何故か今朝はよくマジックテープが外れました

まあ、古いので仕方ないことですけど、同じような犬用のレインコートを最近見かけません。

ひめちゃんたちが使っているのは、貫頭衣の様に、かぶって両サイドをお腹でぺったんするという簡単な形です。

獅子丸は、一昨年の夏17歳の天寿を全うした、三四郎のお古を使ってます

 

 

 

専修寺(せんじゅじ)境内の散策が続きます。

鐘楼です。

よそでは見かけない、鎌倉時代を彷彿させる力強い鐘楼です。

嘉永二年(1849)は、黒船が浦賀にやって来た年ですね

激動の時代を見守ってきたんですね

 

 

境内の散策を続けます。

クラシックな境内です

右の建物だけ、ちょっと新しいような

 

 

鐘楼の向こうに見えた御影堂(みえいどう)に向かいます。

説明板があります。

親鸞聖人を祀った建物なのですね。

靴を脱いで、参拝です。

中には椅子があって、腰掛けてガイドさんの説明を聞いたと思います。

「見真」って、なんだろう?

帰宅後検索してみると、「見真」とは親鸞聖人の諡(おくりな)で、「明治9年(1876)明治天皇より見真大師(けんしんだいし)の諡号を追贈された」のだということです

聖人の入滅から、600年も経ってます

 

 

御影堂で参拝を済ませて、庫裏の方に行きます。

御朱印がありそうです

「ただいま、混み合ってますので、お時間を頂きます。」

「ええ あのう、書き置きないですか?」

「あります。」

何種類かありましたけど、1枚選んで日付を入れてもらいます

如来堂のご本尊様です

急いでみなさんの後を追います。

 

 

 

 

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