「私的非常心」からの解脱そして自由への道
昨日までの数日間「私的非常心」を自由に思考し続けていた。
しかし…昨日、急に、それらが堂々巡り的な自由・思考である事に気付いた。
言うなれば、「井の中の蛙」的な、井戸の中(自分的な思考運動内)の自由…といったモノ。
確かに、そこには、井戸の中・自己の能力の範囲内での自由はあり得ても…
その自由は、大海を泳ぎまわり・切る自由ではない事~
ならば…私的非常からの脱却・解脱した、大海レベル自由な非常心への道は?
それを探すには、私が「私的非常心」の原点・始まり・キッカケの再考から…
その原点とは、私が、今回の「私的非常心」を思考し始めたキッカケである。
それは、南郷氏の「平常心⇒非常心⇒平常心」記述を見て読んだから…であろう。
そこで、再度その記述を確認したら…以下であった。
平常心(=単なる日常的な生活のレベルの認識)
↓
非常心(=常に生命賭けを眼前においた生活レベルの認識)
↓
平常心(=否定の否定の結果、ラセン状に昇った日常生活レベルの認識)
何とビックリ!
私は、( )内の中の説明を失念していた…
南郷氏の「非常心」とは、<(=常に生命賭けを眼前においた生活レベルの認識)>
そして、「平常心」とは、<(=単なる日常的な生活のレベルの認識) >だったのだ!
これらと比べるなら~
私の非常心とは、私が、過去の日常生活で未体験レベル非日常的な出来事に遭遇による、その時の「非常レベルの感情」だった。
それは、日常生活全体ではなく、その出来事に対する感情・気持ち(心の一部的な働き)だろう…
なので、その「私の非常心・感情」は時の経過と共に気持ちが落ち着く事で少しずつ薄れていったのである。
それを私は、「非常心⇒平常心化」だと自分勝手に思い込んでいた。
でも…例えば、眼前に突然ライオンが現れ「恐怖(非常心化)している者」が、ライオンが去って平常心に戻ったとしても…それは「非常心⇒平常心化」ではない事。
南郷氏の上記の図式は、あくまで「非常心の設定」という事の図解であろう。
この事は、南郷氏が「死刑囚の認識・心境」で解説していた。
日々「死刑を恐れてイライラ・ビクビク」している死刑囚も、「自己の死刑・死」」を必然的事実として「覚悟」を決めて生活し始めた時、それまでの「イライラ・ビクビク」が消失して、平穏な心境になり得た境地が「非常心の平常心化」だと…
さて…上記のような事を思考していて…
「自由⇒不自由⇒自由」を想起した。
例えば、思いっきり自由自在に走れる走力を体得したい者が、
先ず、学校の校庭を思い切り走る事で、平地を「自由」に走り回る走力を体得。
↓
次にその自由を否定して、その走力では「不自由」だろう野山・海岸の砂地…を走る。
↓
そして、再度、平地・校庭を走った時、その自由な走りは、同じ自由でも中身走力・中身が違っている、だろう。
平常心は、日常生活の場である「家庭・環境」で…
↓
非常心の設定は、学校=学びの場で…
↓
平常心=レベルアップした「平常心」…
では、学校という学び場で、学ばせ・体得させたい「非常心」とは?
それは、私は「勉強心」だと確信している。
勉強心とは、自分から自己に必要な物事を勉めて強いるココロ。
動物のような本能的でない人類は、文化遺産の習得・学習を通して、人類・人間・自分に必要な事を学び・体得させる・する必要がある。
その学習・体得は、家庭での躾…で場合によっては、
嫌なモノ・好ましくないモノに感じてしまう事もあり得る。
しかし…学校は、そんな好き嫌い・楽勝・面倒…
といった感情に無関係に学習する姿勢・ココロを体得させる必要がある。
それを、私は、ここで「勉強心」と概念規定している。
平常心⇒勉強心⇒平常心
自由心⇒不自由な勉強心⇒自由な勉強心
勉強心がない・しらない児童に、勉強心を学習させる場が学校での集団的な学習。
自由の二重性~、
ある一定・特定の状態・環境内での制限ある「身体的な自由運動」。
如何なる・どんな環境にも無関係な(条件付き・個人的範囲)「認識的な自由活動」。
でも…苦しい環境下での(環境を超越した)自由な思考運動は至難であろう。
それは至難であっても…人類なら決して不可能ではなく、可能であろう。
死刑囚の「死の覚悟」は必要でも…
過去の「アウシュビッツ収容所」では、
日々を楽観的・生への希望を決して捨てなかった(死の覚悟は捨てた)人々は、最後まで生き抜いたらしい…
避けられる「死」への覚悟は不要だ。
でも…避けられない「死」へは、覚悟が必要だろう。
武道の勝負でも、避けられる勝負は避けるべきで…
それでも、避けられない絶対的な「生死を賭けた勝負」が必然なら「死即生」が極意なのだろう。
そう現代社会では「死即生」の極意は、不要だろうが…
それでも、体得したなら、現代でも有効でなのだろう~
昨日までの数日間「私的非常心」を自由に思考し続けていた。
しかし…昨日、急に、それらが堂々巡り的な自由・思考である事に気付いた。
言うなれば、「井の中の蛙」的な、井戸の中(自分的な思考運動内)の自由…といったモノ。
確かに、そこには、井戸の中・自己の能力の範囲内での自由はあり得ても…
その自由は、大海を泳ぎまわり・切る自由ではない事~
ならば…私的非常からの脱却・解脱した、大海レベル自由な非常心への道は?
それを探すには、私が「私的非常心」の原点・始まり・キッカケの再考から…
その原点とは、私が、今回の「私的非常心」を思考し始めたキッカケである。
それは、南郷氏の「平常心⇒非常心⇒平常心」記述を見て読んだから…であろう。
そこで、再度その記述を確認したら…以下であった。
平常心(=単なる日常的な生活のレベルの認識)
↓
非常心(=常に生命賭けを眼前においた生活レベルの認識)
↓
平常心(=否定の否定の結果、ラセン状に昇った日常生活レベルの認識)
何とビックリ!
私は、( )内の中の説明を失念していた…
南郷氏の「非常心」とは、<(=常に生命賭けを眼前においた生活レベルの認識)>
そして、「平常心」とは、<(=単なる日常的な生活のレベルの認識) >だったのだ!
これらと比べるなら~
私の非常心とは、私が、過去の日常生活で未体験レベル非日常的な出来事に遭遇による、その時の「非常レベルの感情」だった。
それは、日常生活全体ではなく、その出来事に対する感情・気持ち(心の一部的な働き)だろう…
なので、その「私の非常心・感情」は時の経過と共に気持ちが落ち着く事で少しずつ薄れていったのである。
それを私は、「非常心⇒平常心化」だと自分勝手に思い込んでいた。
でも…例えば、眼前に突然ライオンが現れ「恐怖(非常心化)している者」が、ライオンが去って平常心に戻ったとしても…それは「非常心⇒平常心化」ではない事。
南郷氏の上記の図式は、あくまで「非常心の設定」という事の図解であろう。
この事は、南郷氏が「死刑囚の認識・心境」で解説していた。
日々「死刑を恐れてイライラ・ビクビク」している死刑囚も、「自己の死刑・死」」を必然的事実として「覚悟」を決めて生活し始めた時、それまでの「イライラ・ビクビク」が消失して、平穏な心境になり得た境地が「非常心の平常心化」だと…
さて…上記のような事を思考していて…
「自由⇒不自由⇒自由」を想起した。
例えば、思いっきり自由自在に走れる走力を体得したい者が、
先ず、学校の校庭を思い切り走る事で、平地を「自由」に走り回る走力を体得。
↓
次にその自由を否定して、その走力では「不自由」だろう野山・海岸の砂地…を走る。
↓
そして、再度、平地・校庭を走った時、その自由な走りは、同じ自由でも中身走力・中身が違っている、だろう。
平常心は、日常生活の場である「家庭・環境」で…
↓
非常心の設定は、学校=学びの場で…
↓
平常心=レベルアップした「平常心」…
では、学校という学び場で、学ばせ・体得させたい「非常心」とは?
それは、私は「勉強心」だと確信している。
勉強心とは、自分から自己に必要な物事を勉めて強いるココロ。
動物のような本能的でない人類は、文化遺産の習得・学習を通して、人類・人間・自分に必要な事を学び・体得させる・する必要がある。
その学習・体得は、家庭での躾…で場合によっては、
嫌なモノ・好ましくないモノに感じてしまう事もあり得る。
しかし…学校は、そんな好き嫌い・楽勝・面倒…
といった感情に無関係に学習する姿勢・ココロを体得させる必要がある。
それを、私は、ここで「勉強心」と概念規定している。
平常心⇒勉強心⇒平常心
自由心⇒不自由な勉強心⇒自由な勉強心
勉強心がない・しらない児童に、勉強心を学習させる場が学校での集団的な学習。
自由の二重性~、
ある一定・特定の状態・環境内での制限ある「身体的な自由運動」。
如何なる・どんな環境にも無関係な(条件付き・個人的範囲)「認識的な自由活動」。
でも…苦しい環境下での(環境を超越した)自由な思考運動は至難であろう。
それは至難であっても…人類なら決して不可能ではなく、可能であろう。
死刑囚の「死の覚悟」は必要でも…
過去の「アウシュビッツ収容所」では、
日々を楽観的・生への希望を決して捨てなかった(死の覚悟は捨てた)人々は、最後まで生き抜いたらしい…
避けられる「死」への覚悟は不要だ。
でも…避けられない「死」へは、覚悟が必要だろう。
武道の勝負でも、避けられる勝負は避けるべきで…
それでも、避けられない絶対的な「生死を賭けた勝負」が必然なら「死即生」が極意なのだろう。
そう現代社会では「死即生」の極意は、不要だろうが…
それでも、体得したなら、現代でも有効でなのだろう~