「非常心」について~再び~
南郷氏曰く~
「『思う』とは、認識・映像を止める事」・「『考える』とは、止めた認識・映像を動かす事」。
これを合わせた「『思考』とは、認識・映像を止めたり・動かしたりする事」?かな…
認識・映像を止める事は、自力で何とか可能でも…
その止めた認識・映像を動かすのは至難…
この場合の「動かす」と?
また、認識・映像を止めるとは?
例えば、録画再生中の映像を一時停止したら、映像は写真となる。
そして、それを動かした時には続きの映像が流れる。
しかし、認識内で、例えば今私が「過去の愛犬マファの事」を思う時、その認識は写真的像ではなく、動いている映像的である。
そう~何かを「思う」時の「認識・映像を止める」とは、写真的静止像ではなく、そのモノコトに関連する映画的な連続的な映像という事になろう(=「集中」by tada氏)
認識を「動かす・止める」とは、弁証法的な「動かす・止める」であり、日常的な「止める・動かす」ではない、のだろう。
南郷氏曰く~思い「止めた認識・映像」を動かすには、ショック・衝撃を与える必要あり…と。
さて、今さっきまでの私が思っていた・私の認識内の「私的な非常心」が…今はショック・衝撃で動き出し、以前より鮮明化した。
その動いた結果を書く前に、そのショック・衝撃から始めよう。
思う事あって、今朝の食後に以下のコピーを読んだ。
<「わざ」から知る> 生田 久美子 東京大学出版会
P67 4章 「わざ」世界への潜入
4.1 南郷継正の「武道論」
………前略……
P69 11行目
彼の論を本稿での論に従って解釈すると次のようになるであろうか.私たちは一日朝起きて,夜床につくまで,様々な身体動作を繰り返しながら生活している.しかし,実際にはその身体動作のほとんどに意識を介在させていない.このように,私たちの日常の生活は無意識の動作の連鎖から成り立っていると言えよう.こうした動作の無意識性が南郷氏の言うところの平常心であると解釈できる。
それに対して,非常心というものは,日常の動きとは異なる学習者の意識の介入が必要とされる状態,言い換えるならば,「形」をハビトス化するプロセスの途上にある状態であると言えよう.例えば,各種武道に特有の動きを師匠の範にしたがってなぞっていくためには,学習者は師匠の示す動きの一つ一つを見逃さず模倣していかなければならない.
………以下省略………
上記の記述を読んで、以下の部分違和感を覚えた…
(上)>平常心というのは、日常生活のなかで無意識の行動の背後にある人間の認識の状態と考えてよいであろう.
(下)>こうした動作の無意識性が南郷氏の言うところの平常心であると解釈できる。
(上)から(下)への解釈に違和感を覚えた…
日頃の動作が無意識に出来るのが「平常心」。
日頃の動作に意識性が必要なのが「非常心」。
私は、これが以下のように逆だと痛感した。
「非常心」だから普通(平常心状態)なら無意識にできる動作に意識性が必要。
ココロの状態である「平常心or非常心」の土台の上に、動作の意識性・無意識性がある筈なのに…
この記述では、無意識性が土台で、その上にココロが…
確かに、技習得過程での無意識に出来な状態があろう。
しかし、それは、その動作が無意識レベルで不能だから、
そこに意識性が求められるのであり、
技熟達後・技の駆使時の「平常心・非常心」とは異なっている…
「水泳」で例えれば、
プールで、普通に無意識的に泳げる人は「平常心」。
プールで、普通に意識性が必要なのが「非常心」?。
底深い海の荒波の中でも、無意識に泳げるのは「平常心」。
底深い海の荒波では、無意識では泳げないのが「非常心」。
これらの比較・検討「対立物の統一」から言えるのは、
自分の足が底に付くプールでは、平常心で泳げる者でも、
足が届かない荒れた海では、非常心と言える…。
技・水泳技の未熟な者の意識性(非常心)と技・水練の熟達者の意識性(非常心)は、別物である。
以下が「非常心」の二重性~
環境から恐怖的・非常事態から生じる「非常心」。
己の未熟な技・技術から生じる「非常心」。
そうそう、上記の論理は、南郷氏が高所の丸太歩きの例で既に書いていた。(今思い出した!)
水泳ならば、子供の時から、近所の大海・荒海で年中泳いでいた者なら、
技の未熟から生じる非常心の克服と同時に深み・荒波の恐怖を克服していただろう…
子供時代から海で泳ぎ慣れていた水泳の達人とプール以外では泳ぐ事なかった水泳の達人…
彼らの実力は、プールでの競泳なら…どっちもどっちであろうが…
荒波の大海での競泳だと…勝負はどのように展開するだろう…
技能・技術力+精神力+体力=能力
さてさて…以上のような<思考>過程⇒思惟・思索・思弁
私の「非常心」の思い」を動かすのに、生田氏の言語・認識を使わせて頂いた。
思惟とは、私の体験・経験した事実を元に…
思索とは、師範・書籍から学んだ数々の事から探して…
思弁とは、このブログの記事で…
非常心の設定⇔(A)「平常心」⇒(B)「非常心」⇒(C)平常心」とは、
上記の水泳で例えるなら~
底が届き・荒波日々プールでの水泳が「平常心」化している者が、
初めて底なし・荒波の大海に飛び込んだ時が「非常心」状態になろう。
上記
(A)が、プールだけで無意識水泳可能な「平常心」。
(C)は、プールも大海でも無意識水泳可能な「平常心」。
水泳の大海での「平常心」に必要なのは、荒海・底なしを恐れないココロ。
それは、言うなれば「怪我・死の恐怖」の克服なのだろう。
怪我・死亡の回避には、怪我・死亡しないような高度で巧は水泳力…
ただ、突然に狂暴な海の生き物から襲われた時の恐怖…
予想不能・推測不能な「死への恐怖」の克服可能なココロが、万能的な「平常心」であろう。
その為には、そのような恐怖が体感可能な「非常心」の設定が必要であろう。
そこには、
「ローマは一日にして成らず」、
「ローマに続く千里の道も一歩から」、
「千里の道も一歩から」 のような心意気が~
亀の歩みのように遅くても、一歩一歩確実に前(時に右左後ろを)向いて歩み続ける事て~
(C)「平常心」とは、
荒海の如く荒れるココロの平安・平静…を求めるモノではなく、
そんな荒れ狂ったココロを無視して自己の意志で思う存分に技の駆使を可能にする「ココロ」なのだろう。
それは、言うなれば、恐怖に荒れ狂っている自己のココロ冷静に見ている自我の意識なのだろう。
この技を失敗したら、死なのだろうが゛…それでも、ここはやってやる・行くしかない!的瞬間・瞬時的な感情なのだろう。
それが、師範の「死即生」ココロなのだろうか…
南郷氏曰く~
「『思う』とは、認識・映像を止める事」・「『考える』とは、止めた認識・映像を動かす事」。
これを合わせた「『思考』とは、認識・映像を止めたり・動かしたりする事」?かな…
認識・映像を止める事は、自力で何とか可能でも…
その止めた認識・映像を動かすのは至難…
この場合の「動かす」と?
また、認識・映像を止めるとは?
例えば、録画再生中の映像を一時停止したら、映像は写真となる。
そして、それを動かした時には続きの映像が流れる。
しかし、認識内で、例えば今私が「過去の愛犬マファの事」を思う時、その認識は写真的像ではなく、動いている映像的である。
そう~何かを「思う」時の「認識・映像を止める」とは、写真的静止像ではなく、そのモノコトに関連する映画的な連続的な映像という事になろう(=「集中」by tada氏)
認識を「動かす・止める」とは、弁証法的な「動かす・止める」であり、日常的な「止める・動かす」ではない、のだろう。
南郷氏曰く~思い「止めた認識・映像」を動かすには、ショック・衝撃を与える必要あり…と。
さて、今さっきまでの私が思っていた・私の認識内の「私的な非常心」が…今はショック・衝撃で動き出し、以前より鮮明化した。
その動いた結果を書く前に、そのショック・衝撃から始めよう。
思う事あって、今朝の食後に以下のコピーを読んだ。
<「わざ」から知る> 生田 久美子 東京大学出版会
P67 4章 「わざ」世界への潜入
4.1 南郷継正の「武道論」
………前略……
P69 11行目
彼の論を本稿での論に従って解釈すると次のようになるであろうか.私たちは一日朝起きて,夜床につくまで,様々な身体動作を繰り返しながら生活している.しかし,実際にはその身体動作のほとんどに意識を介在させていない.このように,私たちの日常の生活は無意識の動作の連鎖から成り立っていると言えよう.こうした動作の無意識性が南郷氏の言うところの平常心であると解釈できる。
それに対して,非常心というものは,日常の動きとは異なる学習者の意識の介入が必要とされる状態,言い換えるならば,「形」をハビトス化するプロセスの途上にある状態であると言えよう.例えば,各種武道に特有の動きを師匠の範にしたがってなぞっていくためには,学習者は師匠の示す動きの一つ一つを見逃さず模倣していかなければならない.
………以下省略………
上記の記述を読んで、以下の部分違和感を覚えた…
(上)>平常心というのは、日常生活のなかで無意識の行動の背後にある人間の認識の状態と考えてよいであろう.
(下)>こうした動作の無意識性が南郷氏の言うところの平常心であると解釈できる。
(上)から(下)への解釈に違和感を覚えた…
日頃の動作が無意識に出来るのが「平常心」。
日頃の動作に意識性が必要なのが「非常心」。
私は、これが以下のように逆だと痛感した。
「非常心」だから普通(平常心状態)なら無意識にできる動作に意識性が必要。
ココロの状態である「平常心or非常心」の土台の上に、動作の意識性・無意識性がある筈なのに…
この記述では、無意識性が土台で、その上にココロが…
確かに、技習得過程での無意識に出来な状態があろう。
しかし、それは、その動作が無意識レベルで不能だから、
そこに意識性が求められるのであり、
技熟達後・技の駆使時の「平常心・非常心」とは異なっている…
「水泳」で例えれば、
プールで、普通に無意識的に泳げる人は「平常心」。
プールで、普通に意識性が必要なのが「非常心」?。
底深い海の荒波の中でも、無意識に泳げるのは「平常心」。
底深い海の荒波では、無意識では泳げないのが「非常心」。
これらの比較・検討「対立物の統一」から言えるのは、
自分の足が底に付くプールでは、平常心で泳げる者でも、
足が届かない荒れた海では、非常心と言える…。
技・水泳技の未熟な者の意識性(非常心)と技・水練の熟達者の意識性(非常心)は、別物である。
以下が「非常心」の二重性~
環境から恐怖的・非常事態から生じる「非常心」。
己の未熟な技・技術から生じる「非常心」。
そうそう、上記の論理は、南郷氏が高所の丸太歩きの例で既に書いていた。(今思い出した!)
水泳ならば、子供の時から、近所の大海・荒海で年中泳いでいた者なら、
技の未熟から生じる非常心の克服と同時に深み・荒波の恐怖を克服していただろう…
子供時代から海で泳ぎ慣れていた水泳の達人とプール以外では泳ぐ事なかった水泳の達人…
彼らの実力は、プールでの競泳なら…どっちもどっちであろうが…
荒波の大海での競泳だと…勝負はどのように展開するだろう…
技能・技術力+精神力+体力=能力
さてさて…以上のような<思考>過程⇒思惟・思索・思弁
私の「非常心」の思い」を動かすのに、生田氏の言語・認識を使わせて頂いた。
思惟とは、私の体験・経験した事実を元に…
思索とは、師範・書籍から学んだ数々の事から探して…
思弁とは、このブログの記事で…
非常心の設定⇔(A)「平常心」⇒(B)「非常心」⇒(C)平常心」とは、
上記の水泳で例えるなら~
底が届き・荒波日々プールでの水泳が「平常心」化している者が、
初めて底なし・荒波の大海に飛び込んだ時が「非常心」状態になろう。
上記
(A)が、プールだけで無意識水泳可能な「平常心」。
(C)は、プールも大海でも無意識水泳可能な「平常心」。
水泳の大海での「平常心」に必要なのは、荒海・底なしを恐れないココロ。
それは、言うなれば「怪我・死の恐怖」の克服なのだろう。
怪我・死亡の回避には、怪我・死亡しないような高度で巧は水泳力…
ただ、突然に狂暴な海の生き物から襲われた時の恐怖…
予想不能・推測不能な「死への恐怖」の克服可能なココロが、万能的な「平常心」であろう。
その為には、そのような恐怖が体感可能な「非常心」の設定が必要であろう。
そこには、
「ローマは一日にして成らず」、
「ローマに続く千里の道も一歩から」、
「千里の道も一歩から」 のような心意気が~
亀の歩みのように遅くても、一歩一歩確実に前(時に右左後ろを)向いて歩み続ける事て~
(C)「平常心」とは、
荒海の如く荒れるココロの平安・平静…を求めるモノではなく、
そんな荒れ狂ったココロを無視して自己の意志で思う存分に技の駆使を可能にする「ココロ」なのだろう。
それは、言うなれば、恐怖に荒れ狂っている自己のココロ冷静に見ている自我の意識なのだろう。
この技を失敗したら、死なのだろうが゛…それでも、ここはやってやる・行くしかない!的瞬間・瞬時的な感情なのだろう。
それが、師範の「死即生」ココロなのだろうか…