以下のコメントは、久しぶりに我ながら納得のゆくモノだったので…
ここにアップする事にした。
もっとも…この「納得がゆく」とは段階のモノであり変化し得るが…
矛盾律とは?
>自由びとさんの言う「相手の特定」というのには私は同意しないわけです。
↑
「言葉」は社会的であると同時に個人的でもあります。
なので、貴君が「同意」しようがしまいが勝手です。
ただ、私と御自分の相違だけは確りと意識いていて下さい。
で…なければ、貴君は私の言葉を自分勝手に変形して、
その変形したモノを私の言い分だと主張しかねません。
それは、それで、とてもとても迷惑な事なのです。
>自由びとさんの言う「一貫性」なるものにも信頼感を感じられませんし、何故なら「指導の一貫性」ならば「無門さんと無門慧開さんとは同じ人ですよね?」と、「コテハンを変えたのが非礼」から「指導の一貫性のため」なんてのに一貫性は無いと判断できるからです。
↑~
貴君は、ここでも、また!やらかしています。
「一貫性」とは、私の一貫性であって、貴君の一貫性ではありません。
「非礼」も然り、私の「非礼」であり、貴君の「非礼」ではありません。
貴君は、自分の知り得る・考える「一貫性」・「非礼」でもって、
私の「一貫性」・「非礼」を否定しています。
更に、君の認識から私の認識を否定しています。
それは「確認すれば済む話ですから…」に表れています。
そもそも「確認」とは、迷ったり・疑ったり・確信がない場合の行為です。
しかし、何度も書いたように、(今は違いますが)あの時の私にとって
「無門」と「無門慧開」全くの別物だったのです。
別物だと信じ切っている私に「確認」という思いは浮かびません。
>一貫性なるものを求めるならば自分のブログで同じコテハンで投稿している論客のコメントの一貫性を問題にすれば済むだけで、他のブログで違ったコテハンで投稿している論客との同一人物性を問題として一貫性なるものを考える必要は無いと私は考えますね。
↑
これって、「質問者」と「ソクラテス」の事かな?
へ~そんな…どうでもいい事を気にしているんだ!
一貫性を考える上で、必要なのは、一貫性に見えなモノの一貫性です。
質問者とソクラテスと無門慧開とが同一なら、それらの中の一貫性とは?
を問い続けるの事も重要なのです(私の認識論の学びにとっては…)。
こんな事も分からないから…以下のようコメントなのです。
↓
>人間なんて一貫性は無いのが正常だとも言えるわけですから、学校の教師が児童の指導に責任を持つために自分が関わっていない塾や部活、校外での活動の情報を当人に確認することなく入手しようとするなんて不自然だと考えるからですよ。
↑
こんな風に思っているから、貴君は永遠に貴君のまま、進歩ないのね!
本来は、ソクラテス的からプラトン的、そしてアリストテレス的へと進化しないとね…
「郊外での活動の情報」なんて、当人に聞くか、親に聞けば、即答ですよ。
だって、学校教育の目標は全人的な教育…
その事を理解・納得してもらえれば問題なしです。
ほらほら…ここでも、貴君の知識から現実を否定しているでしょう。
それって、知っているだけで、分かったつもり認識ですよ!
そもそも全てのモノに、そのモノなりの一貫性があります。
それは、そのモノの誕生から消滅までの過程です。
生々→生成(誕生)→発展→衰退→消滅→(新たな生成)
人間にとって求められるのは「己を識る」事であり、
この場合は、己の自然成長的な一貫性を自覚し、
それを目的意識的に己の目的に即した意識性へと改革・構築…していくのです。
何故なら、「人間は認識的実在」ですから…
>そんなのは必要ならば本人に「どう?」と尋ねれば済む話で何が個人特定か?と失笑してしまうわけです。
↑
貴君は「失笑」ですか?
私は大爆笑!ですよ。
私は、貴君をソクラテスだと確信しています。
これは私の確信ですので悪しからず…
過去辛い体験から学びました。
奴・ソクラテスは、こちらが尋ねたからと言って、ちゃんと答えるとは限りません。
奴・ソクラテスは、自分の興味関心のない質問や都合の悪い質問は全てスルーです。
そんなソクラテスに尋ねるなんて…私のブライドがゆるしません。
というか、バカバカしくて、ソクラテスに尋ねる…なんて思いもしません。
別の角度から説くなら、
ここはネットです。
学校の教師や親、道行く人に尋ねたらちゃんと答えてくれます。
「尋ね」たら正直に答えてくれる相手かどうかの判断が不可欠です。
尋ねるなら相手を選びます。
>むしろ、それは「お前はあすこでああ言ってるのにここでこう言ってるのはオカシイだろう」といったイワユル「論理的強制」として他者を非難・批判するための材料の幅を広げるためだろうとタマゴ氏の婆さんのブログでの言動から推察できるでしょうね。
ここは私のブログです。
私の考えと異なっていれば、ここでは可笑しいのです。
だって、私との違いを分かって遠慮がちコメントしてくるなら兎も角…
遠慮の「え」の字もなく、堂々のコメントです。
これ等も私が非礼と感じる行為です。
私のブログで、コメント欄で、堂々と自分勝手な主張!なんて…
私にとっては可笑しい・非礼ですね。
だから、この「オカシイ」は、私の認識・持論・思い…と比べてのモノで、
ほかのブログで書けば、その「オカシイ」に同意が得られるかも?です。
最後~
本来の「禅問答」、「禅」の求める「かいとう」は、
「回答」・即答であり、解答・解説・説明ではありません。
もっとも…ここでは解説・説明・推論…ですが…
禅問答の解答は、己の五体で表現する即答・モノです。
それは、言葉にならない・できない、感情・感覚・認識の即時的な体現・表現なのです。
それを長々と自信ダップリに言葉を駆使して、言葉的な解説なんて…!
しかも…
>ここでは「描かれない<まる>」と「描かれる<まる>」とは違っており、
>その意味では矛盾律は正しく成立していることになります。
矛盾律の成立とは言葉です。
それでは、「禅」ではありません。
む…まてよ!
ソクラテスは多重人格という都市伝説が…
多重人格のソクラテスなら、「矛盾律は正しく成立している」事になる。
という事は、
ソクラテスは禅的生き方が出来ている者=悟り人なのかも…
しかし、待てよ!
禅の教えに、「己に仏性がある」という確信・自覚ない者は悟れない。
さすれば、己を知らないソクラテスは、悟り人ならぬ。悟り獣なのでは?
それでも、多重人格の一つ一つを己の人格だと自覚する者なら、
悟りびと、なりえるかも…
それでも、一つ一つの認識を「人格」と言っていいのだろか?
ここで言えるのは、多重に思える・見える個々の人格を視て取り、
そして総括・統括可能なその人格こそ、その多重人格的な人の中の人格なのでしょう。
それは、「多重人格」という一つの人格です。
事実的には、例え多重人格的人物でも、社会で日常生活で普通に問題なく生活できていれば、
それが「多重人格」という人格、普通に一つの人格を持つ者、という事です。
言葉で解説するから、以上が多重人格者における「矛盾律の成立」でしょうね…
最後の最後に、
真面目に書くなら、以下の部分の記述は興味深いモノがあります。
禅問答というより、認識論的な解題として、取り上げてみたい、と思っています。
自由びとさんが言う「事実は小説よりも奇なり」というのは私も同意しますけれど、そこから連想するのはこの「禅問答の続編」本記事の「まるを描かずに、まるを描かく」の実際の観念なんですよ。人間は、この言語表現されたことがらを如何に実際に考えているのか?という事実的な経験上話なんです。
そこを、自由びとさんのように「まるを描かずに、まるを描く」というのだから「まるというのは描かずに描けるものだ」なんて考えて外堀から埋めていこうとする方法論と違って、「プディングの味は食べてみないと分からない」とする私の解法だと「まるを描かずに、まるを描く」という文は「まるを描かない」+「まるを描く」であって、もっと詳しく述べると「まるを描く像の否定」+「まるを描く像」であり、最初の「まるを描く」像と次の「まるを描く」像とは違ってると理解できるわけです。
ですから、この認識は「最初の像」→「次の像」という像の変転として理解でき、「まる」という言語で表現された指示対象だけ比較するならば「まる」≠「まる」なわけで、時系列で思い浮かべた違う像を同じ「まる」という言語で表現したということになります。
ここでは「描かれない<まる>」と「描かれる<まる>」とは違っており、その意味では矛盾律は正しく成立していることになります。
ですので「同じ言語で表現された指示対象は同じはず」だという自由びとさんの前提が違っているのであり、頭の中での像の変転というダイナミズムを等閑視した形式論理的な自由びとさんの解法は無意味だと考えますね。
まあ、現代の分析哲学は言語分析から発展したといいますから、こうした禅の言葉をどう扱っているのか興味深いですけどね
(笑)
それにしても、前半なんて、どうでもよい事。
私と貴君の「一貫性」とか「非礼」の相違なんて、
表現・言葉・認識…等の相違であり、特に問題とすべきものではないと私は思っています。
もっとも…それは、ここまで書いたからの感想・思いであり、
書く前の思いとは異なっているでしょうが…ね。
いえね、既述した見解は私の見解なわけですよ。禅の公案を実際に解いてみたときに人間の思考ってどうなってるのか?どうやってるのか?という経験諸学の一つとして扱ったときに、それは盛られた器というか言語の文法をハミ出して内容の関連性として理解していく能力を人間の理解力(脳)は持っているなと私は気づいたわけです。
それは同一の著者の同一の書物の中であっても同じ語彙が違った意味で用いられており、また読み手も前後の脈絡から正しく違った意味として読み取ることが出来ているわけですが、この禅の公案では「まるを描かずに、まるを描く」という短いセンテンスの中で使われた同じ語彙「まる」で違ったモノを見ていること、人間はそうした思考や言語表現が出来るということを自分の問題・関心として披露したわけです。
このことは代数学のy=ax+bの文字式の扱いとは違うわけで、それはこうした人間の観念や表現を扱うに記号論理学をもってするには不都合が生じるのではなかろうか?との私の自分自身に対する問題提起なんですね。
この私の課題は哲学教授なり仏教学教授なりの指導教官のもとで論文として仕上げるべきものですから、自由びとさんとしては私の仕事の完成を楽しみに待っていていただきたい。
いつの日か風の噂で私の仕事の成就を耳にすることもあるでしょう。
自由びとさんの見解は既にこの公案を禅問答としては扱わないとして「まる」を「わからないもの」として「描かずに描けるもの」なんて方針を立てているわけですから、この方向性で首尾一貫して思考されて下さい。
ただ、私としてはエジソンの「99%の汗と1%の閃き」を想起いたしました。自由びとさんって、本当に「閃き」の無い人ですよね(笑)
自己満足満帆コメントありがた迷惑です。
能書きなら、
その課題とやらが完成してから
垂れなさいな!
それも、お宅自身のブログにね!
私の以下の言葉は
「禅問答というより、認識論的な解題として、取り上げてみたい、と思っています。」
これって…
お宅の禅に対する認識を認識論的に解題したい、
という意味なのですが…
なんか…お宅を有頂天に舞い上げてしまい…
悪かったですね。
今後は、このような
「豚をおだてて木に登らせる」ような事は、
心して慎みます。
ウンチをウンチと正しく認識できた時、
初めてウンチの有用・有効性に気付けます。
お宅の言説をダメ言説として正しく評価し得た時、
そこから、私の深化・発展が始まります。
それはダメ部分の特定です。
もっとも…時に全てダメ!もありえますが…
過去の私は、ただただ怒り・悲しみ・傷つくだけでした。
現在の私は、ウンチはウンチと正しく認識できるようになりました。
猫のウンチに、犬のウンチ、親父のウンチ…
数多く垂れるウンチの中で、お宅のウンチが、
ウンチとして一番です。
一番立派に超臭いウンチです。
ウンチは臭いが一番!です。
しまった…いつの間にか~
ソクラテスの持病に感染していた。
超悪性のウンチ病に感染していた。
良い子の皆さんは、
今の自由びとのようにならないよう…
感染のないよう十分に気を付けてね。
ソクラテスを見かけたら、避けて大きく回り道を~
ソクラテスの近くには、決して近づかないように~
目隠しにマスク、そして耳栓も御忘れなくしましょうね。
今さら自由びとさんの性格の貴賤を問うたりは致しません。還暦すぎて改善することも無いでしょうし品性の高低は自己責任でご自由に。
私は私のコメントをいじくらないでいただければ結構ですから。
自由びとさんの余計ないじくりは折角の私の覚書が穢れるだけですので、息をするときは私のコメントにかからない方向を向いて吐いて下さい。
それにしても、いつまでも変わっていけない自由びとさんは老害の典型でしょうね(苦笑)
まあ~
暇つぶしの時間つぶしには、ピッタリでしようね♬♫
私にイジくられた方が、立派なモノになるでしょうが…
ウンチ好きお宅そっくりのクソ臭いのにしてあげよう!