▼ コメント ────
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絶対矛盾コメント
・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/6e1f2a7ea5296e1c861793f68c459e13
・コメントを書いた人
雲海
・コメント
>まあ、また自由びとさんお得意のご持論が始まったわけですね(笑)。
↑
自分のブログで「持論を書いて」何が悪い!
最も…悪いとは書かれていないが…
それでも(笑)と馬鹿にしているようである…
自由びとの自分のブログでの持論展開する事への(笑)か?
それとも、その持論の内容への(笑)か?
その両方への(笑)か?
いずれにしても…他人の個人ブログ記述・内容への
(笑)コメントとは…なんと礼儀知らず者なのだろうか…
社会的な礼儀作法を知らない無知者だろう。
このお宅は、礼儀の知識なんかより、
お宅が、役立つている信じ込んでいる「知識」の方が、大切なのだろう。
>私は記述したように自由びとさんが独りよがりに考えていることを否定してなどいませんから。
↑
このお宅には分かっていない…
己が数々の否定的なコメントを書き込んでいるのに、
その記述行為が、その内容が、「否定的である」事を分かっていない…
それとも、分かっていながら~
わざわざ「否定してなどいません」と書いているのだろうか?
>ただ私とは住む世界が違うだけの話しで、私は南郷氏独自のヘーゲル論だとか空手論だとかを非公開にしているのに世に出させて知りたいとも思いませんから、自由びとさんが「どんどん変化して昔発表したものとは比べ物にならないくらい進んでいるから追いつけない」なんて言って安堵しようとしても全然気にならないんですよ。
↑
「バカか?」こいつ!
「住む世界が違う」なら、価値観・考え方・思い認識…が異なって当たり前!
従って、こいつの、ここへの書き込みの全てが、否定的になってしまう…
そんな簡単な道理に事に気付けていない…
>「どんどん変化して昔発表したものとは比べ物にならないくらい進んでいるから追いつけない」なんて安堵しよう…<
↑
これって…どうやら「絶対矛盾」の事のようである。
この理解も「絶対的に違う」=絶対的矛盾であろう。
現実と認識の「絶対矛盾」とは、人間が現実を頭脳内で認識した瞬間、その現実は変化・運動している。
だから、「人間は現実を正確に認識できない」のは変えられない現実であろう。
確かに、「自分は正確に認識できない事実」には安堵できるだろうが…
しかし、その現実を正確に認識していない自分には不安であろう。
自分の認識は、自分的・個人的には・的確な認識。
でも、社会的・事実的には、不的確なモノ。
>『学城』だとか『全集』だとかをパラパラ眺めて「ふーん」ぐらいの感想しかなく、「つまらんこと書いてるな」ぐらいなんですね。
↑
ここでお宅のそんなクダラナイ事実の披露なんて…
こんな、どうでもよいお宅の個人的な事実を書き綴って…
それは、場違いな内容でありであり、
それは、私の読み方への「否定」でもある。
>ただ、私は自由びとさんが言うのとは反対に南郷学派はもう思考が枯渇していて今後の発展は無いだろうと予想してますね。その根拠は論者たちの問いかけ方なんですが、まあ自由びとさんは腹を立てずに「素人のヤブ睨みだね」ぐらいに笑ってくれれば宜しいかと思います。
↑
分かっていないね…
「城学」は、学術雑誌であり、理論・論理…の展開の場である。
その理論・論理の実証は、現実の社会である。
社会で実践的に実証された理論な、個別的な書物で展開されてゆく、だろうに…
試しに「現代看護教育に求められるもの」 神庭 純子著 現代社」を読んでみると分かる。
そこでは、実際の看護の事例を使って、
その正解・不正解を「弁証法的」に、「認識論的」に、「弁証法認識論的」に説いている…
>自由びとさんの珍奇な屁理屈とは裏腹にココは自由びとさんの個人宅ではなくグーのブログですから、そこに存在するのは単なる書き手と読み手という人間関係ですよ。自由びとさんの「私(雲海)の思考を自由びとさん色に染めろ」という要求は何ら守る必然性は無い自由意志に任されたもので、互いに気にいらなければコミュニケーションを取るのをやめれば良いだけのこと。その方法が自由びとさんのほうは投稿されたものを削除する機能を持っていることで、私のほうは投稿を拒否する権利をもっている、ただそれだけですよ。
↑~
だから!
何度書けば理解できるのだろう?
私からすれば理屈でも、お宅からすれば屁理屈の展開は、
この自由びと記事・記述の内容であり、それは、自由びと精神の世界である。
その私の精神的な理屈を、この「グーブログ」とい現実の世界へ当てはめているお宅だから「屁理屈」となっているのに…
私の理屈は私の精神界の理屈であり、これをそこままストレートに現実界へ出すのでありません。
それの現実界への出し方は、私の理屈に沿って、私にも周囲にも矛盾なきように私の行為・言動を駆使して発現・行動…するのが正解です。
分かりますか?分からないだろうね!
知識は、知識のままでは人生に役立てられません。
その知識を、己の身体で自由自在に使えて初めて役立つモノでしょう…
知識を自分が使えるように工夫できた時、その「知識が智慧に量質転化化」するのです。
私からすれば理屈・お宅すらすると屁理屈は、
私の日々現実の人間関係・動物・モノ関係…で実際に試しているモノ・理屈なのですよ。
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>まあ、また自由びとさんお得意のご持論が始まったわけですね(笑)。
↑
自分のブログで「持論を書いて」何が悪い!
最も…悪いとは書かれていないが…
それでも(笑)と馬鹿にしているようである…
自由びとの自分のブログでの持論展開する事への(笑)か?
それとも、その持論の内容への(笑)か?
その両方への(笑)か?
いずれにしても…他人の個人ブログ記述・内容への
(笑)コメントとは…なんと礼儀知らず者なのだろうか…
社会的な礼儀作法を知らない無知者だろう。
このお宅は、礼儀の知識なんかより、
お宅が、役立つている信じ込んでいる「知識」の方が、大切なのだろう。
>私は記述したように自由びとさんが独りよがりに考えていることを否定してなどいませんから。
↑
このお宅には分かっていない…
己が数々の否定的なコメントを書き込んでいるのに、
その記述行為が、その内容が、「否定的である」事を分かっていない…
それとも、分かっていながら~
わざわざ「否定してなどいません」と書いているのだろうか?
>ただ私とは住む世界が違うだけの話しで、私は南郷氏独自のヘーゲル論だとか空手論だとかを非公開にしているのに世に出させて知りたいとも思いませんから、自由びとさんが「どんどん変化して昔発表したものとは比べ物にならないくらい進んでいるから追いつけない」なんて言って安堵しようとしても全然気にならないんですよ。
↑
「バカか?」こいつ!
「住む世界が違う」なら、価値観・考え方・思い認識…が異なって当たり前!
従って、こいつの、ここへの書き込みの全てが、否定的になってしまう…
そんな簡単な道理に事に気付けていない…
>「どんどん変化して昔発表したものとは比べ物にならないくらい進んでいるから追いつけない」なんて安堵しよう…<
↑
これって…どうやら「絶対矛盾」の事のようである。
この理解も「絶対的に違う」=絶対的矛盾であろう。
現実と認識の「絶対矛盾」とは、人間が現実を頭脳内で認識した瞬間、その現実は変化・運動している。
だから、「人間は現実を正確に認識できない」のは変えられない現実であろう。
確かに、「自分は正確に認識できない事実」には安堵できるだろうが…
しかし、その現実を正確に認識していない自分には不安であろう。
自分の認識は、自分的・個人的には・的確な認識。
でも、社会的・事実的には、不的確なモノ。
>『学城』だとか『全集』だとかをパラパラ眺めて「ふーん」ぐらいの感想しかなく、「つまらんこと書いてるな」ぐらいなんですね。
↑
ここでお宅のそんなクダラナイ事実の披露なんて…
こんな、どうでもよいお宅の個人的な事実を書き綴って…
それは、場違いな内容でありであり、
それは、私の読み方への「否定」でもある。
>ただ、私は自由びとさんが言うのとは反対に南郷学派はもう思考が枯渇していて今後の発展は無いだろうと予想してますね。その根拠は論者たちの問いかけ方なんですが、まあ自由びとさんは腹を立てずに「素人のヤブ睨みだね」ぐらいに笑ってくれれば宜しいかと思います。
↑
分かっていないね…
「城学」は、学術雑誌であり、理論・論理…の展開の場である。
その理論・論理の実証は、現実の社会である。
社会で実践的に実証された理論な、個別的な書物で展開されてゆく、だろうに…
試しに「現代看護教育に求められるもの」 神庭 純子著 現代社」を読んでみると分かる。
そこでは、実際の看護の事例を使って、
その正解・不正解を「弁証法的」に、「認識論的」に、「弁証法認識論的」に説いている…
>自由びとさんの珍奇な屁理屈とは裏腹にココは自由びとさんの個人宅ではなくグーのブログですから、そこに存在するのは単なる書き手と読み手という人間関係ですよ。自由びとさんの「私(雲海)の思考を自由びとさん色に染めろ」という要求は何ら守る必然性は無い自由意志に任されたもので、互いに気にいらなければコミュニケーションを取るのをやめれば良いだけのこと。その方法が自由びとさんのほうは投稿されたものを削除する機能を持っていることで、私のほうは投稿を拒否する権利をもっている、ただそれだけですよ。
↑~
だから!
何度書けば理解できるのだろう?
私からすれば理屈でも、お宅からすれば屁理屈の展開は、
この自由びと記事・記述の内容であり、それは、自由びと精神の世界である。
その私の精神的な理屈を、この「グーブログ」とい現実の世界へ当てはめているお宅だから「屁理屈」となっているのに…
私の理屈は私の精神界の理屈であり、これをそこままストレートに現実界へ出すのでありません。
それの現実界への出し方は、私の理屈に沿って、私にも周囲にも矛盾なきように私の行為・言動を駆使して発現・行動…するのが正解です。
分かりますか?分からないだろうね!
知識は、知識のままでは人生に役立てられません。
その知識を、己の身体で自由自在に使えて初めて役立つモノでしょう…
知識を自分が使えるように工夫できた時、その「知識が智慧に量質転化化」するのです。
私からすれば理屈・お宅すらすると屁理屈は、
私の日々現実の人間関係・動物・モノ関係…で実際に試しているモノ・理屈なのですよ。
ですが、南郷さんが「大学の哲学科が文学部にあるのはケシからん」と言い、京都の寄筆さんもそれに同調しているのとは裏腹に哲学というのは間違いなく文学とか人文学と呼ばれてきたもので、それには小学生の頃から積み重ねてきた国語の「読解力」が必須のものだと私は考えますけどね。
調べ始めたなら「栄養学では人体を構成する元素のうち炭素、酸素、水素、窒素以外の元素をミネラルと呼び、そのうち極めて量の少ないものを微量元素と呼ぶ」なんてサイトの記事がありました。
そういう考え方からすると「栄養素のうち蛋白質、糖質、脂質、ビタミンから区別されたものがミネラル」だという体系性とは別になりますね。
人体を元素の集まりだと考えるから栄養だとか毒だとかの区別はなくなって。
元素のうちから人体の健康に必要だということで他の元素から区別されたのがミネラルだとしたら、そのうち微量なものは「微量ミネラル」となるのが必然的だと思われるのに、元の「元素」というカテゴリーに戻ってしまって「微量元素」だなんてねぇ。
ただ「微量元素」という言い方が栄養学で広く使われているのなら、それを踏襲するのもある意味では当然だとも言えますけどね。
しかし、そうすると「人体を構成する元素」のうち「炭素、酸素、水素、窒素を除く」という除外する論理性が問われるわけで、栄養素としての分子構造での区別ではなく、どういう理由なんでしょうかね?
こういうことにもオリジンというか原点というものが必要だとも思われますけどね。
それでも論旨というか、論文の方向性は掴んで、これは言わば栄養学と臨床検査学との融合のような発想なのだと考える。
生活習慣病=メタボリック・シンドロームの研究はメタボ先進国だったアメリカを中心に1960年代だか70年代から為されてきて、運動・食事・睡眠の健康3大要素の観点から「如何なる食生活をするべきか」は明らかにされてきたが、
生活習慣病の代表格たる糖尿病の「高脂質・高蛋白質の食事+運動不足」を「血液中や尿中の微量元素、具体的には亜鉛・銅・鉛・カドミウム」の含有量から早期発見できないか?というわけで、
おそらくは現在までに確立されてきた「臨床検査学」としての血液検査や尿検査で血漿中・尿中の標的物質としてミネラルは無いのではないかと想像されるのだが、
現在までに確立されている糖尿病(代謝性疾患)の臨床検査(血液検査や尿検査)の知見を超えて体内の微量元素の動向を追うことが疾患の早期発見に繋がるのか?である。
こうした血液中や尿中の物質の測定は一般人の日常生活的には行うことが出来ず、高価な測定機器が必要となり、神庭さんは筑波大学の本田氏の研究生として名前が記載されていた時期があり、本田さんのところの機器を使って実験したのだと思われる。
だが、例えば健康者と糖尿病患者(代謝性疾患者)との血液を比較して糖尿病患者の血液が鉛の含有量が多くても「糖尿病性腎疾患」というのもあるように「糖代謝が悪くなったことにより腎機能が悪くなり、そのために鉛の排泄能力が落ちた」のだとしたならば、血液中の鉛の動向を追うことは糖尿病の検査としては合併症を追うようなもので、まったくの後追いで従来の検査を超えた早期発見には繋がらないとも想像される。
神庭さんは本田克也氏と面識があり、その縁で研究生として論文を受理され、本田氏の筑波大学内の権力で博士号を出してもらった、そのことが大学教員としての箔付けに繋がり准教授から教授への昇進となった、
と考えるなら、確かに自由びとさんの言う「社会的な実用」ではある(笑)。
私は「偽物人間」としか感じないが(笑)
もしかしたなら三浦の『弁証法はどういう科学か』の「誤謬の本質は逸脱である!」そのものなのかも知れない。
私は以前から南郷さんが神庭さんに付けた「弁証法の達人」なる触れ込みを失笑レベルで感じている(笑)