新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

分からないのに、分かるつもり

2020-03-09 17:00:17 | 認識論



以下のコメントこそ、
分かっていなのに、分かったつもりコメントである。


>虚心に考えても真理はいくらでもあるものですから、
>そこを言語表現したならば「真理は無数、無限」でしょうけれど


↑~

無限にあるのは、事実であり、
現象論レベルの真理なのに…

やっぱり、分かっていないね!


構造レベルなら「真理は二つ」
本質論レベルとなると、「『真理は二つ』である」という、「一つの真理」となる、のでしょう。
「二つの真理」を統一した時、そこに「一つの真理」が生じる、のでしょうね。



こう書いても、無論理くんには、理解し難いだろうが…
どうぞ、阿呆な自由びとの戯言だと思って無視して下さいな!


これ以上、阿呆な自由びとブログに、書き込み続けるなら、
無論理くんも自由びとと仲間と思われ、「更なる激しい憤り…」ですよ!








▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
「真理は二つ」とは?

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/2c16a9d2ff060c7544cf79492e79a5f0

・コメントを書いた人


・コメント
「真理が無数」ではなく「真理が二つ」というところがポイントでしょうね。
虚心に考えても真理はいくらでもあるものですから、そこを言語表現したならば「真理は無数、無限」でしょうけれど「2」という数字がポイントです。すなわち「南郷さんにとっての2という数」というのを読み取る必要があると考えますよ。
それで南郷さんに纏わる数で「2」といったなら「カントが世界を二本柱まで収斂させた」という南郷さんの「いわゆる」「構造論」というわけです。
南郷さんの学問体系は武谷三男の三段階論から拝借した「本質論、構造論、現象論」なわけで、そこから演繹したならば「無数、無限」というのは「現象」だという解釈となり、「2」という数字は「本質にあと一歩の「構造」」だという理屈になりますね。
ですから真理を「二つ」と述べたのは持説の「本質論、構造論、現象論」というフレームに呼び込むための「蟻地獄」というか「知的フェイント、知的罠」だと考えますよ。

・コメントの管理


動物の真理は一つ、それは本能のままに…
人間の場合は、本能と認識の二つの真理、となるのでしょう。


今だけを生きている本能主体の動物には、変化・運動を感覚し得ない。
変化も運動も、過去と今の比較から生じるモノだから、


「即自」とは、今だけを生き、今の自分しか認識不能なモノ…
「対自」とは、今を生きつつ、過去との対比が可能なモノ…






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1 コメント

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Unknown ()
2020-03-09 20:13:23
>自由びとと仲間と思われ

さいなら💨
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