例えば、今、目の前で、A君とB君が取っ組み合いの喧嘩を始めた、とする。
ここには、三つの弁証法性が見て取れる(だろう)。
一つ、互いが喧嘩に至った、その気質・性格・精神の弁証法性。
二つ、それらを創り上げた家庭・学校・社会の弁証法性。
三つ、取っ組み合いで発生する物理的打撃による傷・怪我…の自然の弁証法性。
それら三つの弁証法性は混然一体的に働いているモノ。
それを一つ一つ分離して自覚・認識するのは至難であろう。
眼前の事実だけから弁証法性を見て取る事は不可能。
弁証法性は過去・現在・将来へと続いている・いく「性質」だから、
眼前の現在の事実から弁証法性を見て取るには、
その事実に関連する過去の事実想起が不可欠。
しかし、
現在の、その三位一体的事実に関連する
過去の事実があり得るだろうか?
上記の例なら、
違った二人同士の取っ組み合いの喧嘩ならあり得る。
同じ二人同士の口論ならあり得る。
しかし、
その二人が、過去に同じような取っ組み合いの喧嘩をしただろうか?
したとして、その時も、現代と同じように目撃出来ているだろうか?
また、いつもいつも取っ組み合いの喧嘩をしている者同士なら、
それは、それで、
初めての取っ組み合いの三位一体的な弁証法性と
取っ組み合いが日常化した後の三位一体的な弁証法性とでは、
それら三つのバランスに相違があるのだろう…
本当に、「三つのバランス」の問題だろうか?
AとBが、親しくない当時の取っ組み合いと
親しくなった現在の取っ組み合い、とでは、
個々の弁証法性は同じであっても、
二人の相手への思い・感情に相違があり、
現象する事実は同じであっても、
その心理・感情・認識…に大きな相違があり得る。
その時、
そこに精神と社会の弁証法性の相互浸透が見て取れる…かも?
喧嘩を通して、親しくなった者同士か…
減加ょ通して、憎しみを強くした者同士か…
そう~同じような状況で、同じような喧嘩をしているのなら、
そこに、精神・認識の弁証法性による量質転化化が起こり得ている。
「弁証法」とは、
見て取った過去の事実と現在の事実から、
それら事実同士の区別と連関から法則性を導き出し、
弁証法性を法則化いたモノであろう。