《2》弁証法の基礎的概念を俯瞰する
1)『弁証法はどういう科学か』1章2章の大事性
さて、では最初に弁証法の基礎的な概念を講義してみよう。
『弁証法はどういう科学か』の目次をひらいてほしい。
三浦さんは弁証法のやさしい教科書を書くにあたって、なぜこのような目次立てをしたのであろうか?
三浦さんは弁証法の定義を23ページの最後の2行で述べている。「弁証法とは自然・社会・精神をつらぬく世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学である」とまとめた文言を、弁証法の定義として諸君は覚えなければならない。
この定義を、さらに端的にすれば、「世界という物質の機能を法則性レベルで扱う科学」である。さらに弁証法とは短く定義するなら、それは対象の運動を扱う科学である。
ところが三浦さんは、この短い文言のなかにもさらに定義されなければならない言葉が並んでいるのにそれを説こうとしなかった。たとえば「世界」とは何か、「物質」とは何か、「機能」とは何か、「法則」とはなにか、また「法則性レベル」とは何か、そして「科学」とは何か…である。
それは仕方がないから、われわれで答えを出さなければならない。
さて、弁証法は運動を扱う科学なのだと言ったとき、なぜ運動を扱うのかというならば、世界という物質の機能とは何かを、一言でいえば「運動」だからである。物質は必ず運動しているもの、と言い切れる。
しかし三浦さんは、物質の機能たる運動を扱うのが弁証法だとは定義仕切れなかった。仕切れはしなかったが、気持ち的にはわかっていたので、この目次の最初に、まずは「世界のありかたをどう見るか」としたのであろう。
世界のありかたを、本当は機能で見ることが弁証法の理解の第一歩ですよと言っている、とここは捉えるのである。
これを医師の諸君の例で言うなら、患者を扱う(救う)のが医学だと言うのではなく、本当は患者という実体の機能を扱うのが弁証法で捉えた医学なのだということである。
この定義からわからねばならないことは、弁証法という学問は医学とか物理とかの個別科学と違って、世界すなわち物質そのものを対象としていることである。
だから、世界とは何か、物質とは何かをわかることがすなわち、弁証法がわかることとなる。
それゆえ、『弁証法はどういう科学か』の第1章「世界のありかたをどう見るか」の中で、「世界という物質の機能」を詳しく構造に分け入って説くには、まずは「世界とは何か」「物質とは何か」から説いていかなければならない。
だから三浦さんは唯物論的ものの見方と、観念論的なものに見方を詳しく解説しているのである。
世界とは、この世のありとあらゆる存在ではあるが、それらをざっくりとまとめて世界と総称するだけではなく、肝心なところは「一つに」まとめて世界と呼ぶということである。
世界のありとあらゆるものは同じものから出来ていると捉える。この同じものを、一般性で捉えて、あるいは共通性で捉えて物質と呼び、そのすべてを「一つ」として、全体として「運動しているもの」としての「世界」というのである。
弁証法では、私たち自身を含めての森羅万象、さまざまなものを物質という根本的には同じものが、変化し運動している、と捉えるのである。
私たちの身の回りのものに、どんなものがあろうとも、すべては、永遠の過去から永遠の未来まで、物質の変化、発展である。どんなに変化しようとも、物質という本質的なあり方に変わりはない。そう捉えるのが、唯物論的弁証法なのである。
わかりやすい例でいうなら、太陽も、星も、宇宙空間も、そして地球上の植物も動物も、物質のあり方が違うだけなのである。現在ある宇宙が誕生する以前であっても、ありとあらゆるものは物質である。その物資が、変化発展して、さまざまに現象するだけのことだ。
だからここで大事なことは、単に世界の見方には観念論と唯物論があるとわかるだけではなく、まさに「弁証法とは弁証法魂である」と言われるごとくに、唯物論はわれわれにとっては堅持すべき概念なのであり、「唯物論魂」として堅持されなければならないのである。
こうした弁証法の捉え方にも歴史があり、その発展史すなわち哲学史を解説したのが、
2弁証法はどのように発展してきたか
である。
古代ギリシアから始まった哲学史および人間の認識の発展史をひもといている。弁証法自体も、形而上学的捉え方から弁証法的な捉え方へ、観念論的捉え方から唯物論的捉え方へと発展してきていて、弁証法的な発展を遂げてきているのだと三浦さんは解説している。
ここではとくに、観念論と唯物論、形而上学的と弁証法という対立概念をしっかり理解する章となっている。
ここまでの1章と2章は大変大事な弁証法の基礎である。
弁証法は何度もいうように「世界という物質の機能を法則性レベルで扱う科学」であるから、世界という物質とはなにかの捉え方が基礎となっている。
物質とは宇宙である。
現今の宇宙の誕生が、単なる物理現象ではなく、誕生の過程で物質が大きく変化した「化学現象」になったことである。宇宙全部が一度に化学変化を起こしたから、いうなれば昔の物質はもう残っていないのである。
なぜそう言えるか? それは宇宙は全体として一つだからである。宇宙は全体として一つなのだから、地球は生命体があるという特殊形態ではあっても、宇宙の一般性に貫かれている。だから地球を見て、そこから導きだした「物質の」一般性は、宇宙全体に当てはまるのである。
われわれはあくまで、われわれの認識が関与できるありとあらゆるすべてのものを、世界という全体で一つであるものとして捉えるのである。この全体で一つのもの、それが物質である。
三浦さんは弁証法とは、「世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学」と言っているが、これはこれで文言を暗記しなければならないけれども、三浦さんは「世界」をきちんと定義しなかったために、いわば漠然とした「万物は流転する」の一般的レベルを世界と称していて、決して「一つにまとめられる物質レベル」と概念規定して説いていない。
物質とはすべて同じものからできていて、その同じものを物質と呼ぶのであり、その物質の機能すなわち運動が弁証法性だとは三浦さんは説いていない。
弁証法は物質の機能だとしっかりと把握するからこそ、弁証法は学問の究明に役立つとされる。だから私たちの専門とする対象の弁証法性を把握しなければ、それを世界の発展のありかたとして位置づけられなくなってしまう。
われわれの対象とするものが、社会であれ、自然であれ、精神であれ、その誕生、運動、変化発展を世界の発展運動のなかに位置付けなければならないし、またそれが出来るのが弁証法なのだ。
世界全体の運動のなかに対象の運動性(弁証法性)を捉えなければならない(捉えられる)からこそ、弁証法は学問の体系化に役立つのである。
1)『弁証法はどういう科学か』1章2章の大事性
さて、では最初に弁証法の基礎的な概念を講義してみよう。
『弁証法はどういう科学か』の目次をひらいてほしい。
三浦さんは弁証法のやさしい教科書を書くにあたって、なぜこのような目次立てをしたのであろうか?
三浦さんは弁証法の定義を23ページの最後の2行で述べている。「弁証法とは自然・社会・精神をつらぬく世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学である」とまとめた文言を、弁証法の定義として諸君は覚えなければならない。
この定義を、さらに端的にすれば、「世界という物質の機能を法則性レベルで扱う科学」である。さらに弁証法とは短く定義するなら、それは対象の運動を扱う科学である。
ところが三浦さんは、この短い文言のなかにもさらに定義されなければならない言葉が並んでいるのにそれを説こうとしなかった。たとえば「世界」とは何か、「物質」とは何か、「機能」とは何か、「法則」とはなにか、また「法則性レベル」とは何か、そして「科学」とは何か…である。
それは仕方がないから、われわれで答えを出さなければならない。
さて、弁証法は運動を扱う科学なのだと言ったとき、なぜ運動を扱うのかというならば、世界という物質の機能とは何かを、一言でいえば「運動」だからである。物質は必ず運動しているもの、と言い切れる。
しかし三浦さんは、物質の機能たる運動を扱うのが弁証法だとは定義仕切れなかった。仕切れはしなかったが、気持ち的にはわかっていたので、この目次の最初に、まずは「世界のありかたをどう見るか」としたのであろう。
世界のありかたを、本当は機能で見ることが弁証法の理解の第一歩ですよと言っている、とここは捉えるのである。
これを医師の諸君の例で言うなら、患者を扱う(救う)のが医学だと言うのではなく、本当は患者という実体の機能を扱うのが弁証法で捉えた医学なのだということである。
この定義からわからねばならないことは、弁証法という学問は医学とか物理とかの個別科学と違って、世界すなわち物質そのものを対象としていることである。
だから、世界とは何か、物質とは何かをわかることがすなわち、弁証法がわかることとなる。
それゆえ、『弁証法はどういう科学か』の第1章「世界のありかたをどう見るか」の中で、「世界という物質の機能」を詳しく構造に分け入って説くには、まずは「世界とは何か」「物質とは何か」から説いていかなければならない。
だから三浦さんは唯物論的ものの見方と、観念論的なものに見方を詳しく解説しているのである。
世界とは、この世のありとあらゆる存在ではあるが、それらをざっくりとまとめて世界と総称するだけではなく、肝心なところは「一つに」まとめて世界と呼ぶということである。
世界のありとあらゆるものは同じものから出来ていると捉える。この同じものを、一般性で捉えて、あるいは共通性で捉えて物質と呼び、そのすべてを「一つ」として、全体として「運動しているもの」としての「世界」というのである。
弁証法では、私たち自身を含めての森羅万象、さまざまなものを物質という根本的には同じものが、変化し運動している、と捉えるのである。
私たちの身の回りのものに、どんなものがあろうとも、すべては、永遠の過去から永遠の未来まで、物質の変化、発展である。どんなに変化しようとも、物質という本質的なあり方に変わりはない。そう捉えるのが、唯物論的弁証法なのである。
わかりやすい例でいうなら、太陽も、星も、宇宙空間も、そして地球上の植物も動物も、物質のあり方が違うだけなのである。現在ある宇宙が誕生する以前であっても、ありとあらゆるものは物質である。その物資が、変化発展して、さまざまに現象するだけのことだ。
だからここで大事なことは、単に世界の見方には観念論と唯物論があるとわかるだけではなく、まさに「弁証法とは弁証法魂である」と言われるごとくに、唯物論はわれわれにとっては堅持すべき概念なのであり、「唯物論魂」として堅持されなければならないのである。
こうした弁証法の捉え方にも歴史があり、その発展史すなわち哲学史を解説したのが、
2弁証法はどのように発展してきたか
である。
古代ギリシアから始まった哲学史および人間の認識の発展史をひもといている。弁証法自体も、形而上学的捉え方から弁証法的な捉え方へ、観念論的捉え方から唯物論的捉え方へと発展してきていて、弁証法的な発展を遂げてきているのだと三浦さんは解説している。
ここではとくに、観念論と唯物論、形而上学的と弁証法という対立概念をしっかり理解する章となっている。
ここまでの1章と2章は大変大事な弁証法の基礎である。
弁証法は何度もいうように「世界という物質の機能を法則性レベルで扱う科学」であるから、世界という物質とはなにかの捉え方が基礎となっている。
物質とは宇宙である。
現今の宇宙の誕生が、単なる物理現象ではなく、誕生の過程で物質が大きく変化した「化学現象」になったことである。宇宙全部が一度に化学変化を起こしたから、いうなれば昔の物質はもう残っていないのである。
なぜそう言えるか? それは宇宙は全体として一つだからである。宇宙は全体として一つなのだから、地球は生命体があるという特殊形態ではあっても、宇宙の一般性に貫かれている。だから地球を見て、そこから導きだした「物質の」一般性は、宇宙全体に当てはまるのである。
われわれはあくまで、われわれの認識が関与できるありとあらゆるすべてのものを、世界という全体で一つであるものとして捉えるのである。この全体で一つのもの、それが物質である。
三浦さんは弁証法とは、「世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学」と言っているが、これはこれで文言を暗記しなければならないけれども、三浦さんは「世界」をきちんと定義しなかったために、いわば漠然とした「万物は流転する」の一般的レベルを世界と称していて、決して「一つにまとめられる物質レベル」と概念規定して説いていない。
物質とはすべて同じものからできていて、その同じものを物質と呼ぶのであり、その物質の機能すなわち運動が弁証法性だとは三浦さんは説いていない。
弁証法は物質の機能だとしっかりと把握するからこそ、弁証法は学問の究明に役立つとされる。だから私たちの専門とする対象の弁証法性を把握しなければ、それを世界の発展のありかたとして位置づけられなくなってしまう。
われわれの対象とするものが、社会であれ、自然であれ、精神であれ、その誕生、運動、変化発展を世界の発展運動のなかに位置付けなければならないし、またそれが出来るのが弁証法なのだ。
世界全体の運動のなかに対象の運動性(弁証法性)を捉えなければならない(捉えられる)からこそ、弁証法は学問の体系化に役立つのである。