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《1》 開始にあたっての挨拶 (二)

2021-03-28 09:08:39 | 弁証法講座

《1》 開始にあたっての挨拶 (二)



2)弁証法魂の堅持

諸君にはぜひとも言っておかねばならないことが、弁証法の学びにはある。それは弁証法の別名である。弁証法はまたの名、弁証法魂というのである。
魂レベルで弁証法を捉え、学ぶ覚悟をしなければ、弁証法は扉をひらいてはくれない。

弁証法を学ぶには旬があって、本当はアタマが固くなっていない18歳から20歳くらいに学ばないと、旬を外してしまう。大人になると形而上学的アタマの働きに固まってしまうからだ。ところが現実は運動している。それを弁証法性という。受験勉強でつくってきた諸君のアタマは形而上学的になっているので、弁証法を受け付けないアタマになっているのである。

30歳すぎたらもう諦めろといわれるほどだ。だからその意味で、ここに参加している諸君は、非常に遅い。しかしその遅さを挽回できるとしたら、諸君の情熱以外にはないだろう。
今、アタマが弁証法的になると言ったが、これは「自分が弁証法になること」であり「自分が弁証法性をおびる」ことである。

この「弁証法性を帯びる」もしくは「アタマが弁証法になる」とはいかなることなのか。弁証法がわかるということは、実体でわかることである。実体が変わる事、脳細胞の働きが変わることだ。そのために事実の積み重ねがなければならない。事実の論理が勉強だから。

その論理は感情が創る。庶民レベルの感情では論理は創れない。学問や科学を友だちとして扱ってはならない。役にたてばいいと思ってやった。
テレビで「世界一受けたい授業」などといって、科学的な実験を見せたりしているが、あんなものでは世界を圧する論理は誕生しまい。私たちの頭を創りかえる本は道具であってはならず、バイブルでなければならない。高みには登らなければならない。
それが弁証法は弁証法魂でなければならない所以なのである。

一般教養的に、弁証法は3法則だと覚えることはできるし、「自然、社会、精神を貫く一般的な連関と運動の法則」と弁証法の定義を丸暗記することも出来る。だが弁証法を学ぶとはそういう学校秀才がやるようなことではない。
さまざまな現象を、これは量質転化だとわかることはできるが、それは実際の自分の専門で役立てられるレベルにはならないのである。自分の身体に量質転化を起こさせることである。

三浦さんは、弁証法を学問や人生に「役立てるレベル」で説いているけれども、諸君にあっては、三浦さんのレベルを超えたところに弁証法のレベルを設定しなければならない。それが第一に「弁証法とは別名『弁証法魂』だ」と言われるゆえんである。
つまり弁証法は、道具のように役立てるものではない。われわれの魂にすることである。この説明は難しいが、ゼミ開始にあたってぜひとも言っておかなければならない。

弁証法の習得も弁証法的でなければならないということを指して、道具のようにではない、と言っている。
諸君は学校で勉強したとき、例えば1次方程式を習ったら、それを使って、つまり公式を道具のように使って出された問題を解いてきただろう。諸君は学習とはそういうものだという観念がしみ込んでいる。出来上がった法則や公式を既に解かれている問題に当てはめて「正解」を得ると思っているはずだ。

しかしそもそも一次方程式はどうやって発明されたのか、何に役立てられたのか。そこには何か具体的な事実があって、その問題を解く過程があったのである。アルキメデスが浮力の原理を発見したときに、風呂から裸で飛び出したエピソードを知っていると思うが、科学者はあのように事実から論理を発見したから、本当に使えたのである。彼はなにかの公式をすでに知っていて、それを当てはめたわけではなかった。

しかし我々は一次方程式を使って現実の問題は解けないだろう。すでに解かれた数字と記号で成り立っているだけの問題を解いているにすぎず、人類がまだ解いた事のない現実の問題を新発見して解く実力は、学校の勉強だけでは不可能なのだ。それを成し遂げるために弁証法が必要なのである。
学校の勉強の中身がたとえ間違っていても、いらないのではなく、その上に弁証法が必要なのだ。

今日、人類が宇宙へ探査機を飛ばせるのは、遠く原始時代からの科学者たちの研鑽、そして数多の失敗の連続があったればこそ、である。医療とて同じく、昔のまじないとか魔術とかを含めて長い長い、事実から論理を引き出す過程があったから、今は例えば風邪なら、はいこの薬と処方できる。

そうした人類が辿ってきた科学の実践の過程を、われわれは短い人生のなかですばやく習得して、さらなる人類の発展を図っていかねばならない。それが学校教育であるが、いかんせん学校教育は先ほどから言うように、すでに解かれた正解のある問題を、これもすでに出来上がった公式を道具として使って解いているだけであり、前人未到の難問を解く実力はつかないのである。

だからこそ、弁証法の習得も、道具として使うのではなく、前人未到の荒野へ踏み込むにあたってのいわば世界地図とか羅針盤のようなものとして自分で創り上げなければならないという問題なのである。

医学・医療の例でいうならば、目の前の患者が風邪をひいているから治してくれという訴えなら、なにも薬を処方すればよく、すでに正解はある。あえて弁証法の分類するようなレベルで言うなら、患者と薬が相互浸透して、つまり薬が作用して患者の病気が量質転化して治すということがわかっている程度である。
これならことさら弁証法はいらない。しかし事は、全人類から風邪を根絶させるというテーマにどう理論的に立ち向かうかのレベルに弁証法が必要になる。

こういう前人未到の領域に踏み込んで、人類史上の新発見をなすには、当然これまでの自分が学校で教わって出来上がっているアタマでは不可能である。下手な鉄砲も数打ちゃ当たる式に、偶然の発見という幸運はあるが、そんなものは理論的に、かつ体系的に攻めて必然的に新発見をなしたのとは違う、あまり本人の栄光にはならないものだ。

だから道具として使うレベルであれば、現在の自分は変わる必要がないが、体系的な理論レベルであると、自分の認識が否応なしに根底的に変わらなければならなくなる。だから、弁証法を魂レベルにしなければならない、と。
この魂レベルの堅持した弁証法は、認識レベルで考えるのではなく、脳細胞の働きが実体レベルでそうなってしまうということである。

しかしながら、弁証法は魂レベルで身につけること、あるいは自分で魂となるほどに創りあげることとは言っても、まずは何事も形から覚えていかねばならない。どんなに金メダルをとったオリンピック選手でも、最初はその競技のやり方、形をとることから始めるように、弁証法も形から、である。
弁証法はまずは形を学んだら、あとは自分で創ることである。みんなそこを失敗する。国語勉強的に学んでしまうから失敗するのだ。

このゼミで大事な学習態度とは、まずは三浦さんのアタマになって、弁証法とはどういう科学なのかを知ることから始めなければならない。と同時に、必ず自分の専門で弁証法を理解することである。専門がない人は家事でもいいし、子育てでもいいし、友だち関係でも良く、仕事に関わることでもいい、なにか具体的な自分が日々格闘している現実の問題を、弁証法でいかに捉えるかを忘れてはならない。また再三言うように、その際に「弁証法とは弁証法魂の謂いである」との金言を忘れてはならず、その格調、情熱の高み、志の高みで捉えようとすることである。
諸君の研鑽に期待したい。


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