3)なぜゼミなのか
この弁証法講座はゼミ形式である。
だからまず諸君にはなぜゼミなのかをわかってもらい、ゼミでやるメリットを最大限活用してほしいものと思う。
なぜゼミかという意味は、普通の学校で行なわれている授業のように、先生が一方的に講義していく形式ではないということであり、基本的にはゼミ員同士が討論し合って勉強を進めていくのであり、チューターはその討論全体がある目的、つまりみんなのアタマが弁証法化するよう指導する役割を担っている。
そもそもということで言えば、弁証法とは弁証術として古代ギリシアで始まったことは諸君も『弁証法はどういう科学か』をあらかじめ読んでくれているから承知していると思うが、弁じて証しだてる、すなわち真理というものを討論を闘わせることで明らかにしていく手法であった。
その原基形態をゼミという形で踏襲するのである。世の中ではよくブレーンストーミングと言っているものに近いといえば近いが、本当は中身がかなり違う。
このゼミはある結論、正解を出すというブレストのありかたよりは、あくまで諸君のアタマを弁証法化することであり、もっと言えばいかにして事実から論理を引き出せるアタマになるかである。
一般的に、大きく言うなら、人間は社会的存在であり共働しなければ発展できない存在であるからである。それゆえ自分一人で部屋にこもって本を読んでもあまり発展はなく、ゼミで共働、すなわち討論してこそ発展が図られるということなのだ。
その共働の中身であるが、人類にとってまともな討論が行なわれるようになった古代ギリシア時代にさかのぼる必要がある。
ソクラテスやプラトンの本を読むと、最初は討論になっておらず、話がかみあっていない。せいぜい「対話」である。ところが時代が下ってアリストテレスくらいになると、しだいに討論らしくなり話がかみあっていくようになる。逍遥学派と言って、散歩しながら意見を闘わせることが可能になったのだ。これはどうしたことなのか。
人間は、動物のように外界を本能で反映するのではなく、問いかけ的に反映する。おそらくは古代ギリシア時代の人たちは、自分が対象を問いかけ的に反映しているとは意識していなかったであろう。自分の見たまま、感じたままが「事実」だと思っていたにちがいない。だから「星はなぜ夜に見えるのだろう?」とか「川はなぜ流れるのか?」というような疑問が生じるようになった時代に、それぞれが問いかけ的に反映して得た認識を正しいと思っていたから、他人は他人で問いかけ的に反映していると思わずに、その人なりに対象を解釈して反映し、それを事実だと思って議論するので、相手はその事実が分からなかったのである。だから、かみ合わなかった。ソクラテスやプラトンの対話とはそういうものだ。
しかし彼らが討論を積み重ねていくうちに、次第に相手がどう対象を捉えたかが分かっていって、自分が反映した事実だと思ったことは必ずしも事実ではないと気づくようになっていったのであろう。そこから自分なりの解釈の部分を意識的に切り離さないと、相手と共通の認識になれないとわかってきて、解釈ではない事実を提示するようになって、誰もが分かる事実が確定できるようになってはじめて議論がかみ合うようになったのだというのである。
稲村先生は、「この問いかけもろとも反映した事実の解釈から、主観的な解釈を切り離すことによって、事実が事実として確定するようになったことが学問の出発点であり、それ故このギリシア哲学における討論が学問力の基礎の養成となった」と説かれている。
このように、我々人間は放っておけばどうしても問いかけ的反映をすることが技化してしまう。子どものころは母親のものの見方で対象を反映する訓練をされ、さらに学校時代を通じて受験勉強的かつ丸暗記的に対象に問いかけるすべを学習してきている。
例えば「老人がいる」は解釈である。事実としては「どうみても老人らしい人がいる」である。
だから、そうした問いかけ的反映で創ってしまう脳細胞の働き方をブチ壊して、事実とは何か、事実から論理をたぐり寄せるにはどうしたらいいかを、わかって新たな脳細胞の機能の技化をはかるには、どうしてもゼミでの討論が必要なのである。
ゼミでの討論は、古代ギリシアのソクラテスやプラトンがやったような、事実の解釈でものごとを判断する癖を壊して、共働によって事実を事実として反映できるようにしていく過程なのである。
だからゼミにくるのに予習もしてこないとか、討論に参加しないとか、あるいは質問されてただちに答えないとかがあってはならない。
ただちに答えるとは、即答することであるが、これはただちになにかを発言する事だから、答えがみつからないのなら、「ちょっと考えるから待ってくれ」でもいいのだ。黙っているのは共働の拒否と見なされる。
そして解釈を離れるためには、これまでのアタマの働きを捨てなければならないのだから、ゼミで人から笑われようと、論破されようと、それは自分の問いかけ的反映という宿痾を治療するためだと思って、喜ばなければならない。
決して自分を苛めたなどと人を恨んではいけない。
精神科の医師はよく分かるだろう。精神病の患者は、問いかけ的反映だけが正しいと思い込んでいる人間である。例えばみんなが自分を監視しているなどという反映のしかただ。発端はそのように問いかけで反映した認識をもったほうが、周囲が甘やかしてくれるから都合がいいというズルをするところから始まる。老人が最初はボケたふりをしてズルをするのも同じである。
これは子どものころから親がしっかりと主観ではない事実の反映のありかたを訓練しなかった罰なのである。
私たちがゼミで目指すもの、あるいは弁証法を習得する目的は、ひと言で言えば論理能力である。
論理能力すなわち、対象を反映して頭の中に描く像には、外界をしっかり反映して「事実」の像を創るだけではなく、論理としての像へと転換するプロセスを言うのである。「論理」も「像」として描けるようにしなければならない。
事実から論理を引き出せるような頭にするためには、まず事実とはなにかをしっかりわかる必要があり、それがゼミ形式で互いの討論を通じて、問いかけ的反映、主観的反映を排除していく過程がなされなければならないのである。
論理は目には見えない。対象の構造(性質)を究明したものが論理だ。あるのは事実そのものがある。その性質を主観で見たものが解釈で、主観を排して一般性として捉えられれば論理になっていく。
対象の持つ性質を究明してきたのが人類の歴史である。それを技化させてきたのだ。
3)なぜゼミなのか
この弁証法講座はゼミ形式である。
だからまず諸君にはなぜゼミなのかをわかってもらい、ゼミでやるメリットを最大限活用してほしいものと思う。
なぜゼミかという意味は、普通の学校で行なわれている授業のように、先生が一方的に講義していく形式ではないということであり、基本的にはゼミ員同士が討論し合って勉強を進めていくのであり、チューターはその討論全体がある目的、つまりみんなのアタマが弁証法化するよう指導する役割を担っている。
そもそもということで言えば、弁証法とは弁証術として古代ギリシアで始まったことは諸君も『弁証法はどういう科学か』をあらかじめ読んでくれているから承知していると思うが、弁じて証しだてる、すなわち真理というものを討論を闘わせることで明らかにしていく手法であった。
その原基形態をゼミという形で踏襲するのである。世の中ではよくブレーンストーミングと言っているものに近いといえば近いが、本当は中身がかなり違う。
このゼミはある結論、正解を出すというブレストのありかたよりは、あくまで諸君のアタマを弁証法化することであり、もっと言えばいかにして事実から論理を引き出せるアタマになるかである。
一般的に、大きく言うなら、人間は社会的存在であり共働しなければ発展できない存在であるからである。それゆえ自分一人で部屋にこもって本を読んでもあまり発展はなく、ゼミで共働、すなわち討論してこそ発展が図られるということなのだ。
その共働の中身であるが、人類にとってまともな討論が行なわれるようになった古代ギリシア時代にさかのぼる必要がある。
ソクラテスやプラトンの本を読むと、最初は討論になっておらず、話がかみあっていない。せいぜい「対話」である。ところが時代が下ってアリストテレスくらいになると、しだいに討論らしくなり話がかみあっていくようになる。逍遥学派と言って、散歩しながら意見を闘わせることが可能になったのだ。これはどうしたことなのか。
人間は、動物のように外界を本能で反映するのではなく、問いかけ的に反映する。おそらくは古代ギリシア時代の人たちは、自分が対象を問いかけ的に反映しているとは意識していなかったであろう。自分の見たまま、感じたままが「事実」だと思っていたにちがいない。だから「星はなぜ夜に見えるのだろう?」とか「川はなぜ流れるのか?」というような疑問が生じるようになった時代に、それぞれが問いかけ的に反映して得た認識を正しいと思っていたから、他人は他人で問いかけ的に反映していると思わずに、その人なりに対象を解釈して反映し、それを事実だと思って議論するので、相手はその事実が分からなかったのである。だから、かみ合わなかった。ソクラテスやプラトンの対話とはそういうものだ。
しかし彼らが討論を積み重ねていくうちに、次第に相手がどう対象を捉えたかが分かっていって、自分が反映した事実だと思ったことは必ずしも事実ではないと気づくようになっていったのであろう。そこから自分なりの解釈の部分を意識的に切り離さないと、相手と共通の認識になれないとわかってきて、解釈ではない事実を提示するようになって、誰もが分かる事実が確定できるようになってはじめて議論がかみ合うようになったのだというのである。
稲村先生は、「この問いかけもろとも反映した事実の解釈から、主観的な解釈を切り離すことによって、事実が事実として確定するようになったことが学問の出発点であり、それ故このギリシア哲学における討論が学問力の基礎の養成となった」と説かれている。
このように、我々人間は放っておけばどうしても問いかけ的反映をすることが技化してしまう。子どものころは母親のものの見方で対象を反映する訓練をされ、さらに学校時代を通じて受験勉強的かつ丸暗記的に対象に問いかけるすべを学習してきている。
例えば「老人がいる」は解釈である。事実としては「どうみても老人らしい人がいる」である。
だから、そうした問いかけ的反映で創ってしまう脳細胞の働き方をブチ壊して、事実とは何か、事実から論理をたぐり寄せるにはどうしたらいいかを、わかって新たな脳細胞の機能の技化をはかるには、どうしてもゼミでの討論が必要なのである。
ゼミでの討論は、古代ギリシアのソクラテスやプラトンがやったような、事実の解釈でものごとを判断する癖を壊して、共働によって事実を事実として反映できるようにしていく過程なのである。
だからゼミにくるのに予習もしてこないとか、討論に参加しないとか、あるいは質問されてただちに答えないとかがあってはならない。
ただちに答えるとは、即答することであるが、これはただちになにかを発言する事だから、答えがみつからないのなら、「ちょっと考えるから待ってくれ」でもいいのだ。黙っているのは共働の拒否と見なされる。
そして解釈を離れるためには、これまでのアタマの働きを捨てなければならないのだから、ゼミで人から笑われようと、論破されようと、それは自分の問いかけ的反映という宿痾を治療するためだと思って、喜ばなければならない。
決して自分を苛めたなどと人を恨んではいけない。
精神科の医師はよく分かるだろう。精神病の患者は、問いかけ的反映だけが正しいと思い込んでいる人間である。例えばみんなが自分を監視しているなどという反映のしかただ。発端はそのように問いかけで反映した認識をもったほうが、周囲が甘やかしてくれるから都合がいいというズルをするところから始まる。老人が最初はボケたふりをしてズルをするのも同じである。
これは子どものころから親がしっかりと主観ではない事実の反映のありかたを訓練しなかった罰なのである。
私たちがゼミで目指すもの、あるいは弁証法を習得する目的は、ひと言で言えば論理能力である。
論理能力すなわち、対象を反映して頭の中に描く像には、外界をしっかり反映して「事実」の像を創るだけではなく、論理としての像へと転換するプロセスを言うのである。「論理」も「像」として描けるようにしなければならない。
事実から論理を引き出せるような頭にするためには、まず事実とはなにかをしっかりわかる必要があり、それがゼミ形式で互いの討論を通じて、問いかけ的反映、主観的反映を排除していく過程がなされるなければならないのである。
論理は目には見えない。対象の構造(性質)を究明したものが論理だ。あるのは事実そのものがある。その性質を主観で見たものが解釈で、主観を排して一般性として捉えられれば論理になっていく。
対象の持つ性質を究明してきたのが人類の歴史である。それを技化させてきたのだ。