《2》弁証法の基礎的概念を俯瞰する
3)弁証法の体系とは
最後に『弁証法はどういう科学か』では
6矛盾とはどういうものか
でまとめとなっているが、それは矛盾こそが弁証法の本質レベルの定義とされるからである。例えば量質転化といった場合、量と質は違う概念であるのに、それが一つのものとして扱われるのは矛盾している、というようにである。
弁証法は本質論レベルが矛盾、構造論レベルが「対立(物)の統一」で、3法則が現象論となっている。体系的になっている。
学問は、南郷学派では本質論もしくは一般論、そして構造論、現象論に体系化されると主張している。というよりも、体系化すなわち学問化したのは南郷学派なのである。弁証法も三浦さんがこの本を書いたころまでは「法」つまり「人間の頭脳活動のための一つの使い方(方法)として明治時代に訳されたということと、エンゲルスが世界を捉える法則と考えたので、「法」となっている。詳しい事は『“夢”講義』第4巻の200ページを読むように。
なぜ学問が体系化するのかは、今回は長くなるから割愛するが、端的には対象の反映であると同時に学問の発展の歴史性でもあるからである。人類が本能から離脱して認識を獲得していき、やがて古代ギリシアで哲学が誕生する過程がすなわち体系化の必然的歴史性なのである。
本質論ないし一般論とは、対象の全体像を論じたものである。
ここで「矛盾」が弁証法の本質論だと言ったのは、本質論とは構造論を踏まえてのことであり、一般論とは構造をふまえずただ一般的に論じている場合を指す。だから「矛盾」が本質だという場合は、弁証法はどういう構造かを踏まえて言っているわけである。
弁証法で言うと、運動とか変化とかと捉えることが一般論になる。
構造論とは、対象の対象たるゆえんの骨組みを論じたものである。医学で言うなら、瀬江先生が説かれているように、常態論、病態論、治療論が骨組み、すなわち構造論になる。弁証法では、「対立(物)の統一」が構造論である。
現象論は対象の現象している(形として現れているものの)ありかたを論じたものである。医学でいえば発熱とか下痢とか言う現象を単に記述しているのではなく、論じたものが現象論になる。弁証法でいえば、三つの法則が現象論であるが、『武道と弁証法の理論』では「対立物の統一の構造の具体性の一般性として弁証法としての三法則が存在する」と述べられている(212ページ)。
ここで論、論と言っているが、論理とは易しくいえば、対象の性質である。
論理とは、外界を見ていろいろあるものを、ある一つの筋(スジ)で説明することである。例えばいろいろ川はあるが、
その性質は流れることと物を流す(運ぶ)がある、それを共通するスジという。
それをさらに体系的に説明することが理論である。こういうきちんとした概念規定をされたのが南郷継正先生であった。
事実からその性質を取り出したものが論理であり、事実を研究して導き出したのが論理である。研究は事実のみを扱って、知識にするまでであって、そこに体系性はなくていい。論理の体系がなくていい。
事実とは、易しくはそこにあるもの、あること、である。間違いやすいのは、事実と解釈の違いである。解釈とはその人の主観だ。
だから例えば「ここに心臓病の患者がいる」というのは事実ではなく、解釈である。「スリッパがある」「ボールペンがある」は事実だが、「履きふるしたスリッパ」とか「新しいボールペン」は解釈である。
ところがいくら事実から論理を導きだすのだと言われても、例えば相対性原理もそうだが、光はまっすぐ等速度で進むというのが事実だと思って、そこから論理を導いたとアインシュタインが勘違いしたのだ。光がまっすぐ等速度で進むとは、解釈である。
放射能もそうで、10ミリシーベルトだと人に癌を生じさせるが1ミリシーベルトなら安全という場合もこれは事実ではなく解釈である。
これほど事実と解釈の問題は理解がむずかしい。
光をスペクトルで分析するのは、研究である。その研究を踏まえて、論理の体系のなかにスペクトル分析を使うのが、あるいは一部とするのが学問だ。
弁証法は例えば三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』を読めば、だいたいどういう考えをいうのかを理解することはできるが、それは譬えれば自動車の外観が分かったレベルでしかない。自動車が運転できるため、つまり弁証法が使えるようになるには、長年の汗と涙の修練が必須である。
学問とは世界を論理的に体系化した認識である。これを世界そのものではなく、物理学や社会学といったように専門分野に焦点をあてて体系化すれば個別科学になる。
弁証法はだから個別科学ではない。学問である。あるいは理論である。対象を全体的に論理的に捉えようとするからである。
やさしく言うなら、直接目に見えない構造を解いてこそ学問というのであり、弁証法も、対象の直接は見えない「運動」の論理を捉えるのである。
以上、三浦さんの『弁証法はどういう科学か』の目次にそって、これから諸君が学ぶ弁証法の基礎的概念の解説を簡単に展開してみた。
ただしこれはかなり南郷学派がなしてきた弁証法の体系的捉え方を下敷きにしているのであって、三浦さん自身はあまり弁証法の体系を意識して説かれてはいないのである。弁証法を体系的にととのえたのは南郷先生である。
『弁証法はどういう科学か』で用語や概念を学びながらわれわれはそれを体系的なものとして把握していく作業が必要となる。
三浦さんは「弁証法とは自然・社会・精神をつらぬく世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学である」と言っているが、これは先にも触れたが弁証法とはの定義としては不十分である。なぜなら弁証法が学問、すなわち体系(対象の本質、構造、現象をきちんと位置づける)を説いていないからである。
「世界という物質の機能を法則性レベルで扱う科学」を、体系的に、内容を説かなければ弁証法の定義を説いたことにはならない。
『弁証法はどういう科学か』は、弁証法をもっともやさしく説いた教科書とされるが、再三いうように、三浦さんは世界のあらゆるもの=森羅万象が弁証法性を有していると説くだけである。むろん、当時としては画期的な啓蒙書であったが。本来的には、物質そのものの機能(=運動性)が弁証法性だとは、三浦さんは説いていない。三浦さんは、弁証法の構造を説いたのではなく、ただ3つの法則だと言っただけなのである。
しかし南郷学派はその三浦さんの志を受け継いで、3法則すら学問的体系にととのえ直したのであった。その意味で3法則を学ぶ必要がないどころか、しっかりと学んで欲しいと思う。
運動というのは、量質転化の繰り返しである。脳細胞という物質も、弁証法性を持っているのだから、その繰り返しの量質転化によって、脳細胞自体が弁証法になる、弁証法性をおびるのである。
3)弁証法の体系とは
最後に『弁証法はどういう科学か』では
6矛盾とはどういうものか
でまとめとなっているが、それは矛盾こそが弁証法の本質レベルの定義とされるからである。例えば量質転化といった場合、量と質は違う概念であるのに、それが一つのものとして扱われるのは矛盾している、というようにである。
弁証法は本質論レベルが矛盾、構造論レベルが「対立(物)の統一」で、3法則が現象論となっている。体系的になっている。
学問は、南郷学派では本質論もしくは一般論、そして構造論、現象論に体系化されると主張している。というよりも、体系化すなわち学問化したのは南郷学派なのである。弁証法も三浦さんがこの本を書いたころまでは「法」つまり「人間の頭脳活動のための一つの使い方(方法)として明治時代に訳されたということと、エンゲルスが世界を捉える法則と考えたので、「法」となっている。詳しい事は『“夢”講義』第4巻の200ページを読むように。
なぜ学問が体系化するのかは、今回は長くなるから割愛するが、端的には対象の反映であると同時に学問の発展の歴史性でもあるからである。人類が本能から離脱して認識を獲得していき、やがて古代ギリシアで哲学が誕生する過程がすなわち体系化の必然的歴史性なのである。
本質論ないし一般論とは、対象の全体像を論じたものである。
ここで「矛盾」が弁証法の本質論だと言ったのは、本質論とは構造論を踏まえてのことであり、一般論とは構造をふまえずただ一般的に論じている場合を指す。だから「矛盾」が本質だという場合は、弁証法はどういう構造かを踏まえて言っているわけである。
弁証法で言うと、運動とか変化とかと捉えることが一般論になる。
構造論とは、対象の対象たるゆえんの骨組みを論じたものである。医学で言うなら、瀬江先生が説かれているように、常態論、病態論、治療論が骨組み、すなわち構造論になる。弁証法では、「対立(物)の統一」が構造論である。
現象論は対象の現象している(形として現れているものの)ありかたを論じたものである。医学でいえば発熱とか下痢とか言う現象を単に記述しているのではなく、論じたものが現象論になる。弁証法でいえば、三つの法則が現象論であるが、『武道と弁証法の理論』では「対立物の統一の構造の具体性の一般性として弁証法としての三法則が存在する」と述べられている(212ページ)。
ここで論、論と言っているが、論理とは易しくいえば、対象の性質である。
論理とは、外界を見ていろいろあるものを、ある一つの筋(スジ)で説明することである。例えばいろいろ川はあるが、
その性質は流れることと物を流す(運ぶ)がある、それを共通するスジという。
それをさらに体系的に説明することが理論である。こういうきちんとした概念規定をされたのが南郷継正先生であった。
事実からその性質を取り出したものが論理であり、事実を研究して導き出したのが論理である。研究は事実のみを扱って、知識にするまでであって、そこに体系性はなくていい。論理の体系がなくていい。
事実とは、易しくはそこにあるもの、あること、である。間違いやすいのは、事実と解釈の違いである。解釈とはその人の主観だ。
だから例えば「ここに心臓病の患者がいる」というのは事実ではなく、解釈である。「スリッパがある」「ボールペンがある」は事実だが、「履きふるしたスリッパ」とか「新しいボールペン」は解釈である。
ところがいくら事実から論理を導きだすのだと言われても、例えば相対性原理もそうだが、光はまっすぐ等速度で進むというのが事実だと思って、そこから論理を導いたとアインシュタインが勘違いしたのだ。光がまっすぐ等速度で進むとは、解釈である。
放射能もそうで、10ミリシーベルトだと人に癌を生じさせるが1ミリシーベルトなら安全という場合もこれは事実ではなく解釈である。
これほど事実と解釈の問題は理解がむずかしい。
光をスペクトルで分析するのは、研究である。その研究を踏まえて、論理の体系のなかにスペクトル分析を使うのが、あるいは一部とするのが学問だ。
弁証法は例えば三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』を読めば、だいたいどういう考えをいうのかを理解することはできるが、それは譬えれば自動車の外観が分かったレベルでしかない。自動車が運転できるため、つまり弁証法が使えるようになるには、長年の汗と涙の修練が必須である。
学問とは世界を論理的に体系化した認識である。これを世界そのものではなく、物理学や社会学といったように専門分野に焦点をあてて体系化すれば個別科学になる。
弁証法はだから個別科学ではない。学問である。あるいは理論である。対象を全体的に論理的に捉えようとするからである。
やさしく言うなら、直接目に見えない構造を解いてこそ学問というのであり、弁証法も、対象の直接は見えない「運動」の論理を捉えるのである。
以上、三浦さんの『弁証法はどういう科学か』の目次にそって、これから諸君が学ぶ弁証法の基礎的概念の解説を簡単に展開してみた。
ただしこれはかなり南郷学派がなしてきた弁証法の体系的捉え方を下敷きにしているのであって、三浦さん自身はあまり弁証法の体系を意識して説かれてはいないのである。弁証法を体系的にととのえたのは南郷先生である。
『弁証法はどういう科学か』で用語や概念を学びながらわれわれはそれを体系的なものとして把握していく作業が必要となる。
三浦さんは「弁証法とは自然・社会・精神をつらぬく世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学である」と言っているが、これは先にも触れたが弁証法とはの定義としては不十分である。なぜなら弁証法が学問、すなわち体系(対象の本質、構造、現象をきちんと位置づける)を説いていないからである。
「世界という物質の機能を法則性レベルで扱う科学」を、体系的に、内容を説かなければ弁証法の定義を説いたことにはならない。
『弁証法はどういう科学か』は、弁証法をもっともやさしく説いた教科書とされるが、再三いうように、三浦さんは世界のあらゆるもの=森羅万象が弁証法性を有していると説くだけである。むろん、当時としては画期的な啓蒙書であったが。本来的には、物質そのものの機能(=運動性)が弁証法性だとは、三浦さんは説いていない。三浦さんは、弁証法の構造を説いたのではなく、ただ3つの法則だと言っただけなのである。
しかし南郷学派はその三浦さんの志を受け継いで、3法則すら学問的体系にととのえ直したのであった。その意味で3法則を学ぶ必要がないどころか、しっかりと学んで欲しいと思う。
運動というのは、量質転化の繰り返しである。脳細胞という物質も、弁証法性を持っているのだから、その繰り返しの量質転化によって、脳細胞自体が弁証法になる、弁証法性をおびるのである。