▼ コメント ────
・コメントが届いた記事
ヤッパリ!お宅は分っていない♪
・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/bd93f7848c0e4231c43ca22be902213e
・コメントを書いた人
一村隆滝
・コメント
>長々と私のコメントに反論するために時間を費やしたんですね。
>それだけのエネルギーをこのブログに注ぎ込むことは驚嘆しましたよ。
↑
これは、このお宅の勝手な解釈です。
最近の私は、毎日パソコンを開いている訳ではありません。
この記事も一昨日パソコンを開いて途中まで書いて…時間切れ、
結局、昨日やっと書き終えたのでした。
完成まで二日でも、費やした時間はトータルで数十分ですかね…
その内の殆どが、パソコンの文字入力に使われています。
考え・書くエネルギーは、殆どないのですが…入力エネルギー強。
>お宅が理解している私の考えはお宅が自分の頭の中に作り出した幻影で私自身の考えとは異なっていますね。
↑
このお宅は本当にバカ者ですよ。
私は書き手で、このお宅は読み手、ですよ。
読み手は、書き手の文章から、書き手の思い・考え・感情を…認識するのが「始まり」です。
それに対して、書き手は、書きたい思い・考え・感情を書く事から始まります。
書き手の文章から、始まっても、それを読み手が正しく認識できないから…
読み手の始まりは、まだなのです。
書き手である私の、読み手であるお宅へのコメント・記事は、
読み手であるお宅のスタートライン(誤解・曲解・誤読・間違いの指摘)を示している、のです。
書き手の言葉・文章の内容理解と書き手の認識を理解して共感・同感…するのは別物なのです。
お宅が、私の書いた文章を正確に理解していないのに…
互いの認識が、平行線・交わる…なんて考えられるのは、本来は不可能なの筈です。
子供が、ある諺の意味を理解できても、その諺の真意が出来ない事と同じですね。
>それに私は児童ではありませんし、お宅が私とお宅との関係を「先生と児童」との喩えで考えたことが的外れだというだけのことですから、学校の現場での教員補助と児童との関係を詳細に説いたところで無意味です。的外れなだけで。
確かに、教師と児童は、教育者と学習者の関係です。
でも、授業中の教師の児童の関係は、話してと聞き手の関係でもあります。
話し手は伝えたい事を話し、聞き手はその言葉を正しく理解する関係です。
ここでの、私とお宅の関係は、確かに教育者と学習者ではありません。
その理由は、このお宅が、「このブログ・私から学ぼう」という姿勢がないからです。
それでも、コメントを寄越してくる、このお宅は、読み手である事には変わりありません。
私は書き手でお宅が読み手、書き手は書きたい事を書き、
読み手は、その文章から書き手の文章を正しく理解するのが普通です。
教師と児童⇒話し手と聞き手⇒伝えたい事を話す者と正しく聞き取る者、
私とお宅⇒書き手と読み手⇒伝えたい事を書く者と正しく読み取る者、
どうですか?知識豊富で論理能力皆無なお宅でも、↑みれば分かるでしょう。
>それから教員補助と児童との関係を年齢差があるから先生なんだという考えもお宅の個性的な考えでしょうけれど、現代的ではありませんね。
↑
お宅には「先生」の真意が理解出来ていないようですね。
先生=先に生まれた者の真意とは、先に生まれて経験・体験が豊富な者は、
後から生まれて、今だ未熟な者達を教え指導が可能…という事なのです。
ですから、そのような尊敬の念を持って「先生」なのです。
>儒教の長幼の序じゃあるまいし、お宅が韓国系の儒教の精神でも持っているならともかく、職業として給料を貰ってやる仕事に性別や年齢の差を持ち込むことが滑稽でしょうね。
↑
これがバカ者の見本です。
儒教の精神は、体験・経験からなる体験智・経験智が豊富な年上を尊敬して、その者達から学ぼう!
もっとも…過去の学問・文化遺産…があまり発達していなかった時代の事ですから…
現代では、先に生まれて=先生(教える能力ある)とは言い切れませんが…
お宅には、この「先生」・言葉二重性⇒過去的理解・現代的理解…能力なし…です。
>お宅のような還暦過ぎてる人間だったら校長も教頭ももっと若い可能性がありますけど、お宅は自分の年齢が高いという理由で職業的な関係を度外視して長幼の序を持ち込むのですかね?
↑~
可能性の問題ではなく、その個人の目的意識の問題です。
私の知っている教員は、とても有能なのに、管理職は嫌だ!一生現役教員がいい!と言っていました。
え?どこから「職業的な関係」?
今の校長は、教育経験豊富で都庁への出向した経験を持っている凄い教員です。
歳は私より、下かもしれませんが、教育者経験年数・年齢は、私よりずっと上の「先生」なのです。
また…副校長も、人間・教員関係で色々とずいぶんと苦労しているようです。
そんな、人間関係苦労年齢は、私より上なので、やはり「先生」なのです。
確かに過去の未開な経験万能(知識未発達)社会なら、先生=先に生まれた=有能、です。
でも…現代の「先生」は、医者・弁護士・議員…専門的に有能な者への呼び名でもあります。
これは言葉の概念の弁証法~ですかね。
>児童から見てもシルバーシートで席を譲るべきお年寄りで、先生というより「お爺ちゃん」でしょうに。
↑
今の学校の児童なら、外で私にあっても、○○先生ですよ。
でも、私と無関係な児童なら、確かに「お爺ちゃん」ですね。
もっとも…外見見かけは「お爺ちゃん」でも、中身・精神は「若者」ですが…
>兎に角、お宅が述べたように私とお宅とは生まれも育ちも全く違う人間で、理解し合うことはありませんし、理解し合う必要もないでしょう。
↑
それ!それよ!
互いに「理解し合えない事」が問題なのではなく、
読み手のお宅が、書き手の私の文面を「正しく理解できていない」事が問題なのです。
お宅には、この問題点が理解できていませんね。
これぞ! 全く問題外お宅ですよ。
>「同じ時期に同じ道場で稽古した」というだけで理解し合えている仲間もいますけど、お宅は「そこ」を無視して理屈をこねていますからね。
↑
私の理屈は、お宅が、書き手である私の文面を正しく理解していない事を分からせる為です。
「分からせる」理由は、私の記事に異議・反論しているからです。
記事の文面を正しく理解していない異議・反論・異論は、全くの無意味です。
空手では分かり合える同志でも、考え方では分かり合えない者もいました…
その時、分かり合えない理由が分かる事が、互い分かり合えない者同士の分かり合い方ですね。
私の文面を正しく読み取っていないお宅に、「理解し合えない・分かりし合えない」なんて…
そんなの問題化以前の問題なのですよ。
>私からしたなら同じ時期に同じ道場で厳しく苦しい稽古をした仲間ではなく、空手はやらなかったけど本だけ真似してる京都の寄筆一元さんじゃないのか?とも感じますけど、兎に角、お宅は『ドラえもん』のスネ夫か『坊ちゃん』の赤シャツみたいなイヤらしさばかりが際立つ性癖で、魅力に乏しい人間なんですよ。
↑
書き手の文面さえも正しく理解不能な読み手お宅のコメントでは説得力は皆無ですが…。
こんなお宅に、他人の魅力を正しく見て取れる…とは、私には思えませんね。。
>勿論それは私から見てのことですから、別の誰かがお宅に魅力を感じないとも限りませんけど、年齢だとか性別だとかの外側のことばかりで、お宅自身の中身の魅力を示せないで何が玄和空手を学びました、ですか?
↑
私の「魅力」の問題ではなく、お宅の論理能力・読解力、魅力発見能力…の問題ですね。
そもそも「魅力は示す」ものではなく、相手から感じ取るものですよ…
>友だちは選ぶものでしょう?さようなら、赤シャツ。
え?
何でここに「友だち」の話!
互いに分かり合えたら「友達」という事?
分かり合えないは「非友達」?
分かり合えない事が、分かり合えた「友達」もいますよ。
そもそも…
ネットで知り合って、会いもせず即友達なんて…私からすれば可笑しな話ですね。
ネットでの話が合って、実際に会って話して気が合って、一緒に遊んで楽しい…
そんな繰り返しの中から、友達が出来るのでは?
「師は選ぶもの」ですが…
「友達は自然になる・できる」もの、でしょうね。