お宅は、私の考え方を、お宅的に理解して、
それを、私の考え方だと、確信している…
▼ コメント ────
・コメントが届いた記事
存在自体の価値とは?
・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/8e29978748a1661dc484407e2bcb8092
・コメントを書いた人
一村隆滝
・コメント
>お宅にはお宅の考えがあることは理解できます。おそらくは私とは永遠に交わることのない、互いに理解し合う必要もないお宅個人の考えでしかないでしょうけどね。
お宅は、
私の考えをお宅の考え方的に理解して、
「私の考え方」だと思い込んでいるようですね!
でも…それは、
お宅の「お宅の考え方」の中の私なのです。
ですから~
お宅が「私には私の考えがあることは理解できます」と思えても、
結局は「私の考え方」を理解している事にはなりません。
「人間は己の理解できる能力の範囲で対象を理解している」モノなのでしょう
お宅が、私と「永遠に交わることのない」と確信するなら、
なんで、このブログ記事を読み、コメントを書き込むのですか?
それって~私からすれば、矛盾ですね。
もっとも…私は矛盾が嫌いではありませんが…
>お宅が唐突に「学校で私の知らないゲームの話しをする児童」の事例を取り出したのは意表を突かれましたね。お宅には私とお宅との関係が学校の教員と児童との関係と同じだと映るのですかね?それはビックリですよ。
↑~
ヤッパリ誤解していて…
全く私の記述の真意が分かっていない。
教員と児童の関係が問題ではなく、
先生の話を聞きながら、先生の話の内容とは全く無関係な自分勝手な事を思い、
それを近くにいた私に話してきた児童の話を、私は、なかなか理解できなかった…という事例です。
その理解できなかった理由は、
私が、先生の話に関連付けて、その児童の話の内容を理解しようとしていたから…。
人間は「問い掛け的な反映」をするモノです。
先生の話的に問い掛けた私には、
児童の自分勝手な想起(私の知らないゲームキャラ)は理解不能でした。
この児童がお宅の姿なのです。
ブログ記事読後であるお宅の自分勝手な想起の記述。
それが以下のコメント内容ですよ!
>未成年者でも人権というものがありますよね。でも未成年であるがゆえに「必然性の洞察」が為し得ない、だからお宅が何でも自由にできるかといったら違うでしょ。児童の保護者の許可や同意を得なければならないことは沢山あります。
↑
私の授業中の仕事は、「児童達が先生の授業を正しく理解できる」為のお手伝いです。
子供が、先生の話の無関係な事を想起しても、そのような話に関わる事はできません。
もっとも…休み時間なら別ですが…
私の仕事の範囲内であれば、特に保護者の許可は不要です。
また…私が、ついつい児童の話に引き込まれてしまうと…
先生は、話を聞いている私ではなく、関係ない話をしている児童を注意します。
「必然性の洞察」=児童は授業中の先生の話は真面目に聞くのが勉強(必然性)です。
>お宅が自分の学校の児童との間で「先生と児童」との関係になっていられるのは保護者の同意があるからで、保護者がそれを認めなければ別の学校へ転校することも学校に抗議することも可能なはずですよ。
↑~
私と児童の関係は「(先に生まれた)先生と児童」であっても、「(教員)先生と児童」の関係ではありません。
その違いは、補助員先生は、学校内で児童に注意はできても、叱る事は禁じられています。
注意を聞かない児童を叱るのは、教員の仕事なのです。
>その場合の自由権は未成年の児童にあるのではなく保護者たる親にあるんでしょうから。
成る程…お宅は「学校内での自由権」について書いているのですか…
これが、お宅の「自分勝手な想起」の内容ですね。
こんなような理解で、私の「考え方」を理解できる…
ヤッパリ!全く誤解しているじゃ~ないですか?
>ところがお宅は立派な成人である私の自由権を認めようとせずに侵害し封建時代の農奴にでもできるかに錯覚してるんです。
↑~
ここは、自由びとブログです。
ここのブログ主は自由びとなのです。
確かに、自由びと記事を自分勝手に理解して、コメントするのはお宅の自由権。
でも、主である自由びとが、お宅に「書くな!うるさい!」…書くのは私の自由権。
ここでは、主の私の自由権が優先されます。
学校には、校則があります。
児童・保護者が校則を違反する自由はあっても…
その自由には注意・処罰がともないます。
ここでの、規則の決定権、主の私にあります。。
私の話に関係ないコメントを寄越す自由は認めても、
その内容が、余りには、記事内容を遺脱・無関係だった場合は、
このブログ私的な規則で対処しています。
お宅には、お宅の自由権があるように、
ここでの私にも、私の自由権があります。
お宅が「…自由権を認めようとせずに侵害し…」と思っているなら、
ここにコメントを寄越さなければ、いいだけです。
お宅のコメント
>…でも未成年であるがゆえに「必然性の洞察」が為し得ない<…
この通りです。
学校では、未成年で児童だから、私に注意され、先生から叱られる…のです。
お宅は、このブログ内での自由びとルール「必然性の洞察」ができない、ようですね。
それは、ここでの、お宅が「未成年・児童」レベルである証ですよ。
今後は、お宅の成人レベルの
「必然性の洞察」への向上を期待していますよ♪♪♪
>私はお宅が何処の誰だか分からないけれど、若い頃に一生懸命に空手をやった代償として義務教育の教員補助をしているような人間に誰がなりたいと思うでしょうか?どうして私がお宅の言うことに従う必要があるか、それも説明できない無能な人間が、読んでる側の二重化の能力を要求するなど失笑ものですよ。
↑~
「結果が全てではなく、そこへ至る過程と合わせて、初めて全て。」
「人生とは、今が全てではなく、今に至る道と今後の進む道、合わせて全て。」
因みに、私の教員免許が失効していなかったならば講師でした。
そして、私の一年上の教員免許は、無期限・一生有効なのですよ。
現役教員は、何年か毎に、研修を受けて、免許有効期限を延ばしています。
…でも…この制度なくなる…ようでが…
私も、研修を受けたら、教員免許復活で、講師には(年齢的に教員は無理)なれたのですが…
その時間数・種類が多いので…めげました。
講師と補助員の違いは、講師の時給は五百円多く、
直接に児童の指導・教育・授業…が許されています。
退職後の教員の多くは、地元の学校の講師をしている…ようですね。
教員・講師・補助員の違いは、実力・能力ではなく教員免許有無ですよ。
何事も表面・現象的にしか見て取れないお宅に、
このような考え方を理解できますか?