新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

一村コメントへの私コメント

2022-06-14 10:23:09 | 滅ぼし合う対立物の統一


▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
「音・光」と「変化・運動」について…



・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント
>自由びとさんが唐突に「音とは何か?」と問うている、この「問いかけ」自体も問題になりますが、


↑~
うん…これは、失礼!
もう少し細かく書きましょう。


因みは、私の問い記述・言葉は
<『「音」って、何だろう?』>ですが…


問い⇒「音」って、何だろう?
答え⇒「音」とは文字・言葉。

問い⇒この単語「音」の意味は?
答え⇒辞書によると…以下です。


「例解新国語辞典」 [第四版]三省堂
<音>空気の振動が耳に入り、鼓膜を振るわせる事によっておこる感覚。
「大きい」「小さい」「高い」「低い」などの区別がなされる。
①  耳に聞こえる響き。 ➁ 世間に聞こえている評判。③ たより。通信。

 「岩波 国語辞典」[第八版]
<音>①物の動き、こすれ、また、ぶつかって出る空気の震え(=疎密波)が耳に届いて聞こえるもの。…物理的性質は同じでも普通は声も含めない。<音(オン)>・ひびき・こえ
➁ 「―に聞く」の形で。鳴り響くうわさ・評判で多くの人に知れ渡っている。「―に聞く桜の名所」

いや~失敗でしたね…ネットではなく、

「例解新国語辞典」なら一発でしたで
<音>空気の振動が耳に入り、鼓膜を振るわせる事によっておこる感覚。
<音>空気の振動が耳に入り、鼓膜を振るわせる事によっておこる感覚。
<音>空気の振動が耳に入り、鼓膜を振るわせる事によっておこる感覚。


…またまた失礼…
間違っているお宅へは、「三度目の正直」で<音>三発のプレゼントです。




>>何て事はない、ネットで検索すれば「音」と「耳」に関する事実的なことは一発で終了

>というネットで得られる情報へのある種の蔑視というか軽視の感情が私から見たら「お粗末」というか、軽蔑されるべきはネットで得られる詳細な情報ではなく「自由びと」という己れの存在のちっぽけさだろうに、と嘆息しますね。


他人の説明・発言は一発で知り得ますが…
それを見て知るだけでは知識ですよ。

知り得た知識を自分の事実的経験・体験で再確認が必要です。




>「思考過程としては、まあまあかな」なんてところは私の発言を形式的に模倣したようですが、ネットの引用だけで自分の思考がほとんどない記述に「思考過程」なんぞ無いでしょう。私は、私のコメントをこのように使われることに侮辱され冒涜されたような軽い怒りを感じますね。





お宅は以下のような二を区別できない馬鹿者ですよ。

一つ、自己の思考結果の「音の概念」とネットでの他人の概念の比較。
二つ、私の思考結果の「音の概念」と私の知識としての「音は概念」の相違。


「私が何を言語化したいか」が読み取れないのに…
読み取ったと確信してコメント寄越す馬鹿者。



>私は自由びとさんが「ここは私の精神世界」だと逃げを打ったことで、ある種の軽蔑感を抱いたというか、この人物は義務教育で人を指導するような人間じゃないと明確に理解しました。



>「逃げを打った…」
ヤッパリ私の言葉が分かっていないのに確信して書いている大馬鹿者。

私の思う「精神世界」とは、他人の目を気にしないで、
他人に迷惑かける事無く、思いっきり自由に
空想・幻想・思考・思惟・思索…可能な世界…という意味合いです。




>「ここ」って何処だ?と私は一瞬当惑したんですが、「ここ」というのは自由びとさんの精神世界の中ではなく「スマホで閲覧できるインターネット上のgooブログ」というコンピュータのプラットフォームの上での話しで、
それは「ソーシャル・ネット」という「社会性」を共有する場所で、
「日記」にしろ「評論」にしろ私的な考えを私的な場所で隠しておくのではなく、他者に公開することによって他者からの感想やらコメントやらを期待する場所なんだと思いますね。



「現実のネット界ブログ」と「私の記述記事・内容」の区別と連関が分からない大馬鹿者。

私の書いている「ここは」とは、私の記述の中での「ここ」です。

だから…正確には、
このネット界の、
この個人ブログの中の、
私の記述に書かれた、
その内容が私の世界ですね。

他人の迷惑が掛からない範囲で、好きに自由に書けるのが個人ブログです。
だから、他人に迷惑が掛からない・個人情報の暴露にならない範囲で自由に書いています。
自分自身の事を自分自身で、そこに他人の嫌がる情報を含まず書く、自由です。






>そのことによって自由びとさんは自分だけでは期待できない思考の発展が望み得るのでしょう。

弁証法の「滅ぼし合う統一物の対立」ですね。
私が、ここで望んでいる発展とは、弁証法の発展であり、変化・運動性の発展…
その為なら、「期待できない思考の発展」~「結構毛だらけ、猫はいだらけ」ですよ。


>現に自由びとさんの最初の記述は奥さんが「掛け算は掛け算であって足し算ではない」と言ったのに対して自由びとさんは「掛け算は足し算」だと言ったというだけのことで、
>自由びとさん自身は「その奥に入っていく、構造に立ち入る」ということは出来ない人間なんです。


分かっていないね…
この私の言葉への家内の反論が、またまた私の思考を深めた事が…

私が立ち入りたいのは、弁証法の構造です。
その為に、掛け算を足し算で考えようとしていた私の言葉です。





>私がチョコチョコとコメントしたことで自由びとさんの思索が進んだことは明らかで、その面では私と自由びとさんとの関係は「私が先生で自由びとさんが生徒」であるのは間違いないと自負してますよ。



確かに、お宅は、私の弁証法学習での為の「反面教師」ですね。

「お宅が先生」?!
…お宅は、私に弁証法を教えている…自覚があるのでしょうか?
~私は、お宅の言葉を弁証法の学習として生かしている自覚はありますが…






>「ここは私の精神世界」なんて逃げの発言が、自分の観念の外にコンピュータのハードウェアがあって、そこに自分も書き込めるし他者もコメントできるという現実が把握できていませんし、換言するならここで唯物論的な理解ができていない、自分が「悟りを求めて」を書いているプラットフォームも全てが自分の精神で観念だという観念論だし独我論だとも言える発言ですよ。



相変わらずの馬鹿者よ!

ブログに書かれた文字・記述の内容・世界が私の精神世界で、
それ以外は、外の世界だと私は考えています。


記述の内容が、
他人を気付ける事がなければ、許される合社会的な精神世界。
他人を傷つける個人情報の暴露記述内容なら、反社会的な精神世界。



>まあ、「音とは何か?」という問いかけ自体が問題となりますけど、「音は空気の振動」だというのは言いたいことは理解できますけど正確ではないと思いますね。

>時間をかけて熟考したものではないから後で修正が必要かも知れませんけど、三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』の「直接と媒介」でいったなら「音の直接的な面」は人間の耳から脳に至る感覚でしょうね。
そして「空気の振動」というのは、その直接的な面を媒介する存在で、
「聴覚」という生物の特殊な感覚器官が無ければ空気が振動していても、そこに「音」は無いわけで、生物の感覚器官があってもそれが反応できる「可聴域」と呼ばれる周波数での振動がなければ「音」としては感覚されないわけで。相互規定的だと言うことも可能かも知れませんけど、弁証法でいう「相対的独立」というんですか?「ある範囲で繋がっている、関係性がある」ことを、その関係性で捉えずに人間の聴覚とは切り離して「空気の振動」だと言ってしまうところは「物質科学の対象としての周波数の研究」から来るのかも知れませんけどね。


↑~

「音」があるのではなく、「音」とう文字があるのです。
そして、文字「音」は、ある現象にたいしての言葉です。
その現象もあるのではなく、起こる・発生するモノです。
その現象を人間が感覚したモノを「音」と名付けました。




>ここで「音」には「感覚(sensation)」と「知覚(perception)」という区別されるべき認識がある、ということは注意が必要でしょうね。


区別と連関で書くなら以下です。

音も感覚も知覚も全て文字・単語・言葉です。
音は自然的・人為的の働きの結果・現象です。
感覚・知覚は生物の脳の働きです。



>ですから「音」というのは耳から入って鼓膜を振動させて聴覚神経を介して脳の聴覚野にいく、という脳で感覚されたものなわけですが、聴覚神経によって聴覚野にいく外的な刺激は「空気の振動による鼓膜の振動」ばかりでなく、鼓膜の奥の蝸牛が骨の振動を聴覚として感覚するということの理解が、感覚器官から切り離して「空気の振動を音だと認識すること」が一面的だったことに気づかせてくれるんでしょう。いわゆる「気導音」と「骨導音」というやつですか?



「空気の振動を音だと認識すること」が音ではなく、
空気の振動を感覚した結果を、人間が「音」と名付け・呼んでいる、のです。


あるはずのない「音」が入ってくるとは…
幽霊が、家に入ってくる…と同じですね。




>さらにいうと「幻聴」というものの理解も「空気の振動」からではなく「聴覚器から脳に至る過去の音の記憶」から考えることができるのかも知れませんね。


幻聴とは、
外界・自分の聞こえる範囲にない筈の音、
それを自分の内界・頭脳内で感覚してしまう。
そのような「外界の変化・感覚」ではなく、その時の外界とは無関係な頭脳内の認識・音感覚。

幻視は、現実には見えていないモノを、
頭脳内で感覚してしまう。
トラウマ、フラッシュバック…とかですね。



>私も、この「音とは何か?」という自由びとさんみたいな問いかけというか、思索を10代後半にしてましたけど、今の年齢まで生きてみて(勉強してみて)感じるのは、「私が知りたいことは国語の教科書には書いてない」という自由びとさんの思考が向かう方向が自然科学の方向だということですよね。



私の記述が、そのように読み取れました…
また~それは私の自己認識の言語化能力不足ですね。

「教書に自分の知りたい事が、必ず書いてある」と思えるお宅は幸せ者ですね。
教科書のない時代の人々は、どのようにモノを知・識って、「教科書」を創っていったのでしょうね…

禅問答・修行で、何故にあれ程に答えの求めて苦しんだのでしょうね…
禅問答で他人の解答が認められないのは、何故でしょうね…



>つまりは「全脳的では無い」というか、教育でいったなら「全面教育的では無い」というか。まあ、だからどうだということじゃありませんけど、自然科学という狭い範囲にしぼっても「それはどういう過程で解ってきたのか?」という歴史性に向かう意識も自由びとさんには有りませんね。


全面教育ではなく、全人教育ですね。

多くの知識で全面的に教育するのではなく、
世界の全てを丸ごと体感・感覚可能な全人にするの教育。

全人だから、全てを自分の頭脳から分かるのです、
外界からの感覚・体感した刺激の全てを、
内界・頭脳内で、それらの外界の五感覚情報を、
頭脳で外界と同じように組み立てる。



>南郷先生の弟子を公称していながら滑稽ですけどね(笑)



お宅が「滑稽」だと確信する理由は、
お宅が、南郷氏の教えを誤解・確信しているつもり…
だからですよ。

南郷氏の教えは、
全てのモノコトを言葉・知識から…ではなく、
その言葉・知識の意味・示すモノの始まりを考えみよ!…

そのモノ・コトを個別・部分的に見るだけではなく、
そのモノ・コト変化・運動として考える。
始まり・過程・結果…全体的に考える。

過程には、過程の構造、構造の過程…

私は、このよう知識的に理解しています。
だから、南郷氏の言葉を人生の中で、再措定・再確認して…いるですね…



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