「馬鹿は死ななきゃ治らない」とは、
普通は、「バカ」は死んだら治る…という事ですが…
以下のコメントお宅の馬鹿は、「死んでも治らない」程の重症のようですね♪♪♪
▼ コメント ────
・コメントが届いた記事
思い込み・誤解の連続!ですね♪
・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/b53b491c52ee5e108c76dd55f4b7f9c6
・コメントを書いた人
一村隆滝
・コメント
>また長々と意味不明なコメントを綴りましたね。
>お宅の欲求不満の現れですよ。お宅が私から先生として扱って欲しい、私と師弟関係を結びたいという欲求の強さばかりが浮き上がっていますね。
↑~
このお宅の書いている通り「長々意味不明コメント=欲求不満の表れ」なら、
過去の「一村コメントの連続長文意味不明コメントは=一村氏の欲求不満の連続」⇒
即ち、このお宅は自己の欲求不満を自由びとブログに書き綴っているお宅ですね。
確かに、私には「己の認識を多くの人々に納得できる表現で書きたい!」という欲求はあります。
その為に、私の認識運動の過程を正しく表現しよう取り組んでいる…
でも、ここで問題は、私の認識運動・過程は個性的で、一般的・知識的ではない部分が多々ある事です。
だから、他人が、私のブログ記述を理解するには、私の認識への二重化(自由びと化)が必要です。
その二重化が未熟または不能な者は、「…意味不明…」と実感する事になります。
このお宅は、知識馬鹿の論理能力不足…
より正確には、論理能力が知識量に負けている⇔知識量が論理能力に勝っている…のです。
論理能力がなくても、使わなくても、知識の駆使で問題解決が出来ている…と思い込んでいるお宅。
私が「お宅と師弟関係を結びたいという欲求」なんて皆無です。
強いて書くなら~私の欲求とは以下のようモノです。
お宅の馬鹿の内実・中身・構造・本質…が、どのようなモノかを
解明し、それを言語化する過程で、それをより鮮明化したい!
「教師と児童」⇒「教育者と学習者」⇒(授業で)「話し手と聞き手」⇒「書き手の私と読み手のお宅」…
これらの共通性が理解できないのは何故?。
理解できない理由のひとつが、お宅には、これらの論理レベルの相違が実感不能な事。
話し手は伝えたい事を話す。
聞き手は、話し手に「賛成・反対・同感・異論・反論」するにしても…
先ずは、「話し手」の伝えたい事を分理解・分かる必要があります。
相手の伝えたい事を理解出来ない・分からないのに…
正確な賛成・反対・反論…ができる筈がない…からです。
なのに…このお宅は、平気でコメントを寄越せています手か
私のお宅の関係が「教育者と学習者」ではある筈ないでしょう。
いいですか?!
人間は他の動物と違っているから、普通「人間」と呼びます。
それでも、人間とは?を考える時には、人間≒動物…として共通点を捉えます。
私は、「話し手の話の途中に、その内容と無関係な事を話し出した児童」の例が、
ここでのお宅の言動・コメントと同じ、だと書いているのです。
今だって「意味不明」と書きながら、お宅の書きたい事をコメントしています。
この事が分からないから、お宅の論理能力が皆無!です。
>要するに「煩悩」ですよ。先生として認めて欲しいというお宅の執着心を払拭できていない、悟れていない人間そのものですからね。
↑~
私が、教育者として、児童と接する時、私が欲する事は、
「その児童が私の言動から何かを学んで成長して欲しい」です。
この「教育者として、学習者を成長させたい」が強烈過ぎるなら「煩悩」ですね…
でも…補助員だと、教員程の強烈さはなくて済みます。
補助員の仕事は、直接に児童・生徒を成長させる事ではなく、その成長の補助・お手伝いだから…
今の私には、教員時代のような強迫観念(お宅の言う煩悩)は、殆どありません。
>そのお宅の煩悩、執着心が発達障害児になら自分も先生として偉そうにできると補助教員にさせたんでしょうね。
↑~
現実を知らない無知者が「発達障害児になら自分も先生として偉そうにできる」とは…よく書けますね!
先日の事、特別支援学級の女性教師が、注意して聞かない児童を叱り終わって数分後に、
その叱られた児童は、その教員が座っていた椅子を後ろから引き抜きました。
結果、その教師は、ドスンと尻もちをついて腰を痛めてしまいました。
その事で、その児童を叱っている男性教員の胸を、その児童は度ドンドン叩いて…
その男性教員は、学生時代にバスケットをやっていたムキムキの29歳です。
児童が叩いてきても、教員が手を出したら体罰で即処罰・注意ですから…
児童に叩かれ続けていました。
そうそう…この男性教員は、以前、その児童が原因で肋骨にひびが入ったそうです…
何でも、その児童をその場所から連れ出そうと手を引いたら、暴れられてバランス崩して何かにぶつかって肋骨にヒビ…だったそうです。
別の児童ですが…以前に私を後ろから蹴ってきて、振り返ったら右中指を立てていた小6男子に、
あまりにもふざけ過ぎなので、力強く「卑怯者!後ろからではなくから来い!弱虫!」と怒鳴ったら…
その児童が、怒って私に向かってくる寸前で近くにいた男性教師に抑えられ…
なかなか収まらずに、男性教員3人で近くのマット真上に抑え続けていました。
こんなそんな現実の中で「先生として偉そうにできる」なんて…
お宅は、知りもしない現実を、自分の思い通りに付く変えられるアホの天才ですね。
>私からすれば諦観できていない人間そのものですよ。
↑
現代の教員・教師は、「諦観」できないと…長く務まりませんよ!
真面目で諦観できない教員は、精神を病んでいますね。
>お宅の「誰にでも良い顔したい」という八方美人の日常が、鬱屈した性格を生じさせて、こんな所で「自分を認めて欲しい」という欲求の爆発に繋がったんでしょうね。
↑
「誰にでも良い顔」ではなく、誰の言葉も、その人の立場・認識から理解したい…という事です。
その言葉の理解から、その人の立場を理解したなら、
私的には納得不能な事では、その相手的には納得可能になり得ます。
その時…私と相手の社会的・事実的な関係が対立する必要のないモノなら、
敢えて、私の認識を書く必要を感じません。
>その「私を先生として認めて欲しい」というお宅の焦りが、偽物人間の証明なんですよ。
↑
「先生と認める・認めない」…なんて…重要な事ではありません。
担任・先生と認めたからと言って、先生・担任の言う事を聞かない子供も沢山います。
その時、先生・教師は、「家に電話します」と脅しています。
また、子供によって、親の前では、ちゃんと話を聞いていて、従う様子をしても…
見えない所で、またまた悪さをしています。
子供よっては、教師を先生ではなく、友達のように思っていても、
しっかりと教師の言葉に従っています。
>素晴らしい指導者の元には人は集まるものですから、自ずと。
↑
私は祈っていますよ……
お宅の「素晴らしい」が、真の「素晴らしい」である事を~
巨大なヤクザ組織の指導者は手下が大勢だから素晴らしい!?
振り込め詐欺の巨大組織は大勢だから指導者は素晴らしい?!
ピカソの素晴らしい芸術は、初めから多くの人々に認められたのか?
真理であった地動説は、初めから多くの人々に受け入れられたか?
嘘の天動説は、多くの人々が賛同しました。
天動説は嘘でも、その時代では「真理」。
犯罪を求める者には、犯罪の天才は素晴らしい。
スポーツ空手を求める者にとっての素晴らしい指導者。
ダイエット空手を求める者にとっての素晴らしい指導者。
喧嘩空手を求める者にとっての素晴らしい指導者。
真の武道・空手を求める者達にとっての素晴らしい指導者。
真の弁証法を求める者達にとっての素晴らしい指導者。
お宅の言葉は、一見一読だと正しい…ようですが…
私とお宅の素晴らしいの具体的な中身が異なっている以上…
そうそう…
現代の流行に乗った素晴らしいなら「現代人は集まります」
しかし、時代遅れの素晴らしいだと「現代人は集まれません」
だから、お宅にとっては「素晴らしい」でなくても、
集まる人々が少なくても、素晴らしい指導者は存在している…という事ですね、
人類史に刻める素晴らしい。
社会に貢献できる素晴らしい。
犯罪歴史に残る素晴らしい?犯罪。
戦争で敵を大量に殺して素晴らしい英雄。
敵の戦艦に突撃して死んだら英雄。
恋人を殺して自分も死んだらアホ。