新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
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続「論理」とは?

2018-08-08 10:07:40 | 言葉・概念



空手で論理を考えるなら…


空手とは何か?
武道空手とは?
スポーツ空手とは?
寸止め空手とは?
防具空手とは?


空手には技がある。
突き技に正拳突きがある。
正拳突きの説明を聞いて・読んで、
正拳突を理解する事は可能である。

しかし、読んだり・聞いたりの理解では、正拳突きは体得できない。
正拳突きの体得には、正拳突きの稽古・練習が不可欠である。
その場突きから移動突き、約束組手での突き、自由組手での突き…の稽古・練習。

最終的に、
ストリート・ファイトで正拳突きを用いて対手を倒せたなら、
それが正拳突きの論理の体得!と言い得るのだろう。


「正拳突き」は言葉。
「理解」、「稽古・練習」、「体感・体得」も…言葉。

それらの言葉を身体・頭脳で体感し続ける事で、
「正拳き」の変化・運動性を体感・体得し、その法則性を会得した時、
それが「正拳突き」の論理化であり、論理的理解であり、
論理的把握…と言いうるのだろう。


こう考えるなら、
武道空手の突き技の論理、
スポーツ空手の突き技の論理、
寸止め空手、防具空手…

それらの論理は言葉としては同じ「突き技の論理」であっても、
その「突き技の論理」の中身はそれぞれに異なってくる、モノなのだろう。



弁証法は、「変化・運動性の法則化である」なら~
私の弁証法は、私の誕生から消滅までの変化・運動性の法則化であろう。
ならば、私の弁証法は、私の死亡まで続き続けるモノであろう。


どこかの知ったかぶりおバカが、私が「弁証法…卒業…」と書き寄越したが…
それは私・自由びとではなく、彼・奴自身の「弁証法からの離脱」なのだろうに…


悲しい事に時に人は、
自分自身の思った事を、
誰々さんの思っている事だと勘違いして、
その間違えを確信してしまう過ちを犯してしまう生き物ある。


だからこそ、人には、
多くの他人との言い合い、言葉の交わし合い、
本音の討論・議論が必要なのだろう。

しかし、そんな他人との言葉のやり取りを有意義なモノにするには、
そこには共通認識・共有認識が必要なのだろう。


因みに、「卒業」という言葉には次がある。
小学校卒業と中学校入学、
小学校卒業とニート入門・就職、
三法則の卒業は、次なる弁証法の始まりである…

また~
小学校は卒業しても、時々小学校を思ってしまうモノである。
例え、弁証法の三法則を卒業しても、時にそれを思ってしまうモノである。
事実的卒業と論理的卒業では、同じ卒業でも中身が違っているモノだろう。


だから、私には「弁証法の卒業」はあり得ないモノだ!






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