新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「文は人なり」というが…

2021-10-10 12:33:30 | 言葉・概念



「文は人なり」と言われていても、
そこに現象している「人なり」も色々…、
そこから読み取れる「人なり」も色々…
そこは千差万別・十人十色であろう…


以下のお宅からの度重なる繰り返しコメント投稿なので、
その暑苦しい熱意に絆されて以下のコメントをくれてやる。



・コメントを書いた人  2021年10月9日 (土)
臨済義玄

・コメント
>久方ぶりにブログが更新されたようで安堵しました。
何しろ、パンデミックなご時世ですから、無名の学徒?が人知れず息を引き取っていても不思議ではありません。


「お宅の自分勝手な都合で他人の存在を抹殺すな!」



>今回の奇形の記事を読んで失礼ながら「十年一日の相も変わらぬことを…」と感じてしまったことは申し訳なく思うのですが、それでも最近は南郷継正さんの本を以前とは異なる心境で読むようになったことは奇形との心的距離を近づけるキッカケになるやも知れません。

>…奇形の記事…<、>…奇形との心的距離…<

「嘘つきお宅の本性丸見え!」
「以下のコメントを忘れかい!」

>まあ、今回、自由びとさんのお気に触ったのは「貴兄」という言葉をタッチタイピングしたときに「奇形」となっていたものを「後で訂正しよう」と文章入力を進めていって、訂正するのを忘れて送信してしまったことみたいですね。<

それって、またまた>…訂正するのを忘れて送信…<ですかいな!?


>「十年一日の相も変わらぬことを…

「相も変わらずに弁証法が分からないお宅ですね!」
「弁証法は、過程の構造・構造の過程の論理化が命なのですよ」
「それをお宅は、私の十年を知らないのに、一日にしようとするからダメなのですよ!」



>南郷継正さんの本を以前とは異なる心境で読むようになったこと
↑~
「心境は変わっても、お宅の、その頭の中身は旧態依然で同じようですね!」





>私は奇形のような『武道講義』以降の「体系性」という観点からではなく『武道への道』の「現今の若人、とくに高校生に欠けたるものが二つある。それが大いなる志と論理能力」だというくだりに「中々よい文言だ」と新たに感じるところがあります。

「ここでも>奇形<ですね!  本当の嘘つきお宅ですね!」
「たぶん…お宅の『体系性』と南郷氏とでは、その内実・中身が異なっていると思いますがね…」
「それでも…>感じるところあり…<とは、めでたい事ですね」




>国の資格試験の勉強を新たに始めてから改めて学習・勉強で大事なのはイワユル「論理能力」であり、そこの教育は極めて重要だと痛感するのです。そして、その論理的な能力は何も特別な場所でなければ学べない、といったものではなく、義務教育のカリキュラムの中に普通に位置づけられているものなのだ、と。

「『論理能力』と言っても…」
「南郷氏のと、お宅の思っているのとでは、大きく異なっていると思いますがね…」





>私も、義務教育のときの先生が優秀だったものですから、10代のときに正しく論理的に考えることのできる地頭を作ってもらってはいたのですが、その後に学んだ専門学校の教員が体育大学を卒業した論理性の低い人物だったものだから全く頭が働かない無様な状態に陥ってしまい、それもこれも「自らを信じる!」という主体性に欠くるが故であったと反省しています。

「これって…もしかして…」
「いつもの悪癖=お宅自身の妄想を恰も客観的事実の如く書く、の発動かな…」



>奇形のいう「唯物論が生き様」だということは奇形の記述からは意味を把握しかねますが、何となく「師である南郷さんが唯物論を主張しているから疑うことなく従うだけ」という感じに受け止められます。

「またまた>奇形・奇形<ですか?」
「この『奇形』という言葉、あ気に入りですか?」

「その解釈は、間違っていますよ!」
「世界観とは日々の己の眼前で繰り返される現実世界に対する観方・捉え方」
「だから、その結果が『生き様』であり、その過程が『生きる姿勢』となり得る…のです」




>つまり、奇形の生き様とは「七尺去って師の影を踏まず」だとか「わが師は生涯ただ一人!」だとか「海ゆかば」の大君のためなら、といった「さぶらい」の戒律に生きることだと感じますね。

「またまたまた>奇形<ですか…救いようのない嘘つきですね」
「『師の影を踏まず』ではなく、『師の認識・軌跡を踏んで歩む』ですかね」


>その生き方は田熊さんの説く「守破離」とも違いますし、第一、南郷さん自身がその様な生き方をしてきていません。南郷さんご自身は正に主体的に「自分がナンバー1」との生き方をしてきたように思えますし、鶏口となるも牛後となるなかれ!の生き方をしてきたのでしょう。

「本当に分かっていないのに分かったつもりお宅ですね!」
「『守破離』の解釈・意味・使い方が分かっていないでしょう…」
「現在の南郷氏と、過去の南郷氏の区別と連関が分かっていない」
「著書・著作で登場後の南郷氏と、それ以前の南郷氏の区別と連関を…」


>そこは見事だと感じるのです。ですので、今回、自由びとさんの書いた世界観だとか唯物論だとかのことは「書いてはいるが何も自分ではやってないな」と思えるものでしかありませんが、そこは「今までやっていなかったな?」と責めるよりも「今からやって行くのだね?」と前向きに受け止めて応援したく思うのです。

「見事に大外れの感じ方ですね!」
「この>自分ではやっていない<とは…」
「私の現実を知らない、お宅の妄想の現実化ですね!」




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