「群盲象を撫でる」について…
以下はネットからの引用である。
~~~~引用開始~~~~
「群盲象を撫でる」とはどういう意味?「群盲象を評す」「群盲撫象」とも呼ばれることわざとの事。│YAOYOLOG
「群盲象を撫でる」とは「ぐんもう、ぞうをなでる」と読み、他にも「群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす)」「 群盲評象(ぐんもうひょうぞう)」「群盲撫象(ぐんもうぶぞう)」とも呼ばれることわざとの事。意味としては、断片的な情報で全てを理解したと間違った考えを持ってしまう、との意味になるとの事。始めの「群盲(ぐんもう)」とは、複数の盲人との意味。後半の「象を評す」「象を撫でる」とは、象の事を評する、との意味になるとの事。複数人の盲目の人が象に触り、一部触った情報のみで象のすべてを知ったかのように語る、という意味になるのだそうです。一部の情報のみで判断するべきでない、といった教訓で、木を見て森を見ず、のことわざにも通じる意味になる模様でした。
そもそもインドから伝えられた逸話との事で、言い方は違えど世界共通で言われている教訓なのかと思いました。
~~~~引用終了~~~~
盲人は、目が不自由な故に象の姿の全体を観られない。
だから、手で触って「象の姿」を知ろうとしている。
そして、この場合の盲人達は、一人一人が触って感覚したモノを「象」の全体像だと判断している。
でも、しかし、である。
ここで、「象の姿」を知り得る誰かが、象の全身を言葉で伝えられていれば…
そして盲人一人一人が感覚したモノを象の一部であると悟れたなら…
盲人全員の感覚したモノを象の部分・部分として正しく位置づけられたなら…
盲人の象の姿は、普通の人が見ただけの姿より、より感情豊かなモノであろう…
この事は、弁証法、哲学、学問、認識論…等にも言える事なのだろう。
この全体像と部分の関係性~
例えば、犬は動物である。でも動物は犬だけではない。
自然の弁証法は弁証法である。でも弁証法は自然の弁証法だけではない。
社会の弁証法は弁証法である。でも弁証法は社会の弁証法だけではない。
精神の弁証法は弁証法である。でも弁証法は精神の弁証補だけではない。
概念の弁証法は弁証法である。でも弁証法は概念の弁証法だけではない。
奴隷の弁証法は弁証法である。でも弁証法は奴隷の弁証法だけではない。
ならば「弁証法とは何か?」
それは「モノ自体の持つ弁証法性を法則化したモノ」
それは「対象の弁証法性を法則として捉えたモノ」
それを「駆使する事で対象を自己の望む方向に変化・運動させ得るモノ」
全ての弁証法に共通するモノは、全ての事物の変化・運動を
…「生々⇒生成⇒発展⇒衰退⇒消滅…」
⇒「他の事物への生々⇒(新たな事物の)生成⇒発展⇒衰退⇒消滅…」⇒
↑と言えよう!
「弁証法を捨てた論説」とは、
そこに「変化・運動性」がない論説。
そこに「生々・生成・発展・衰退・消滅」がない論説。
弁証法性がない論説・言葉とは、それは常に更新・アップグレード…のないモノ。
全ては変化・運動しているモノなら、弁証法のある論説とは、常に変化・運動し続けているモノ。
一貫性がある論説とは、
「本質・実体は不変・不動」⇔「現象・表現は変化・運動」…なのだろう…
因みに、
言語は認識の表現。
でも言語で認識の全てを表現するは至難。
この「群盲象を撫でる」は非常に重要な諺だと思いますね。そして、これは亡くなった海保静子さんがテーマとしていた「認識としての像」の核心に通じる諺です。
ここで重要だと思われるのは「群盲」ということであり、「群」というのは極論したならば「無限大♾」と言ってもいいかも知れません。
それは「目で見る」ということが如何に重要なことか!ということであり、「一目瞭然」や「百聞は一見に如かず」とセットにもなる話しで、「何百人、何千人の触覚情報を集めても視覚情報で統一・統括されないと核心に到達できない!」ということでしょう。
それは人間の「五感」と呼ばれている感覚器官「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」が「認識する」という点においては平等ではなく、「視覚」を中心に統一・統合される必要があるということで、それを南郷さんは「五感情像」と表現しています。私見では、この「五感情像」という言葉は「五感覚」と「感情」と「像」とで合成された言葉であって、「五感覚」というのは当然に目や耳、鼻、口、肌といった身体のそれぞれに分かれて置かれているものですが、「感情」というのは脳の古い皮質で統合されて生まれるもので、感情が五つの感覚それぞれに分かれて存在するわけではないということ。
そして「像」とは当然に「視覚情報」ですから目が大事なわけです。
この生理学的には一般感覚と特殊感覚に区別されている一般感覚のほうの「触覚情報」をいくら集めても統合された認識には至らないということが、特殊感覚たる「視覚情報」を中心に感覚情報を統合・統括する重要性が「五感情《像》」という言葉に込められていると思われますね。
故・海保静子の著作が絵・漫画の視覚表現を重視しているのはそこにあると考えられますし、それは哲学的な抽象論が「知識」へ向かった歴史の方向性とも合致します。「知恵」と「智慧」の知と智の違いは実際に視覚情報として確認したのか?それとも理屈の上だけで想像しているのか?との違いだとも言えるでしょうから。
南郷さんも、その時々の弟子の関心事に左右されて思考を進めているようですから、40年前に大学で心理学を専攻していた本田さんや精神医学を専攻していた山辺(布施)さん、園児の心理発達を見ていた海保さんといった弟子と思索していた時に重視していた「像、視覚情報での統括」を、いまはギリシャ哲学を専攻している悠季真理とともに忘却している可能性は否定できませんね。
その「五感情像」の追究がヘレンケラーへの関心などに繋がったのだと思われますが、貴兄のようにその「像での統括・統合」を「全体と部分」という曖昧模糊とした言葉で見えていた映像が消えいくような弟子もいるということで。
「弁証法はモノ自体たる対象の弁証法性を法則化したもの」←これ、何かを言ってるんですか?笑
「運動はモノ自体たる対象の運動性を法則化したもの」
「静止はモノ自体たる対象の静止性を法則化したもの」
「遺伝はモノ自体たる対象の遺伝性を法則化したもの」
「生命はモノ自体たる対象の生命性を法則化したもの」
ww貴兄の頭の働きが十年一日であることの根幹はそこにあるんでしょうねwww
>「静止はモノ自体たる対象の静止性を法則化したもの」
>「遺伝はモノ自体たる対象の遺伝性を法則化したもの」
>「生命はモノ自体たる対象の生命性を法則化したもの」
↑~どこに書かれていた記述でしょうか?
これは、私の言葉ではありません!
これって、お宅が理解した私の言葉の中身のようですね。
これじゃ~私が読んでも分かりませんね…残念…
因みに私の言葉は以下です。
ならば「弁証法とは何か?」
それは「モノ自体の持つ弁証法性を法則化したモノ」
それは「対象の弁証法性を法則として捉えたモノ」
それを「駆使する事で対象を自己の望む方向に変化・運動させ得るモノ」
モノ自体の弁証法性は無限・無制限…環境次第で如何様にも変化可能な変化・運動質。
でも、モノ自体が特定の物質へと変化したら、
その弁証法性は制限された、「その物質特有の変化・運動性」となり得る。
ですから…
>「運動はモノ自体たる対象の運動性を法則化したもの」
>「静止はモノ自体たる対象の静止性を法則化したもの」
>「遺伝はモノ自体たる対象の遺伝性を法則化したもの」
>「生命はモノ自体たる対象の生命性を法則化したもの」
↑~
「ここで書かれている「運動性・静止性・遺伝性・生命性」は、
モノ自体の性質ではない、と私は考えています。
これらは、モノ自体が別モノに変化した結果の、その別モノの固有の性質ですかね。
「モノ自体の持つ弁証法性を法則化したモノ」を具体的に書くなら、
モノ自体⇒物質(体)⇒静止体⇒運動体⇒生命現象⇒生命体⇒静止体⇒運動体…
このような変化・運動が弁証法であり、その変化・運動の過程の論理化が法則化…
上記の記述を書き変えるなら以下です。
「運動性」を法則化したら「運動」…
「静止性」を法則化したら「静止」…
「遺伝性」を法則化したら「遺伝」…
「生命性」を法則化したら「生命」…
モノ自体の(弁証法)「運動」とは、
子供が落ち着きなく、ここからあそこ、あそこからそこへと動き回る運動のように、
モノ自体が落ち着きなく「このモノからあのモノ」、「あのモノがそのモノ」のように、
変化そのモノが「激しく変化=運動する」という事なので…
なので、モノ自体の激しい変化の変化=運動性を法則化(落ち着か)したら、それはモノ自体「変化性」ですかね。
また「静止性」はありませんよ。
静止は、運動の一時中断・停止ですから、「静止(性)」は「運動性」ですかね。
貴兄には貴兄のお考えがお有りでしょうから強引に私の考えに従わせようなどとは思ってもいませんが、少し弁明といいますか説明させていただくなら、確かに私のコメントは私が考え判断した私のオリジナルな?見解ではありますが、貴兄が「どこに書いてありましたか?」と問うたように「相手が書いていないことは相手が発言していないことであり、相手の既述したこととは全く無関係」だとは思わないんです。
何だか長ったらしくなってしまいますが誠実に述べようとするとこれぐらいの言葉を費やしてしまうことはご理解ください。
南郷さんが本に書いたこと、例えば一般論だとか抽象論だとかも南郷さんが実際に挙げている=書いている事例・具体例にしか適合しないのであって名前を出して挙げていない事例には適合も通用もしないのだ!とは私は思いません。
南郷さんが執筆した時代に実際には存在していなかった新興武道団体に南郷さんが書いた論法が適合する可能性は充分にありますから。
そうしたことを前提として「論者の発言の確かさ=貴兄の言葉でいったら「真理性」ですかね?」を確認するために論者が直接は述べてはいない具体例を対応させてみたり数式を展開するように変形させてみたりと言うことは当然に正当に為されるべきことだと考えますが?
その上で貴兄から「いや、私はそこまでは言ってない」と対話の範囲や方向性を限定する発言があるならば私は納得できるわけです。いわば、三浦つとむの言う「真理の限定性・条件付き」というあたりでしょうし。
それを「どこに書いてありましたか?私が書いたことだけを書いて下さい。私は小学生にも黒板に書いた数式は変形・展開させて証明などせずに、そのまま暗記しなさいと指導しているのですから!」と貴兄は言うでしょう。それは私と貴兄との育ちの違い=生い立ちの違いですから如何とも出来ません。
ただ、これから私の考えを少しばかり述べさせていただきます。
その利用規約を読むと「投稿者、つまりは私が書いたものの著作権は書いた私にあるのであり、もしもブログの筆者とトラブルなどになった時はこのSNS=gooブログの主催者とは関係なく当人同士で解決してくれ」みたいな内容ですね。
まあ、いま私が著作権など主張するつもりもありませんけど、私の書いたものにそんな価値が付与されたなら願ってもないことです。
おそらくは『試行』に執筆する以前の南郷さんにとっても「望外のこと」だったでしょうからね。
ダラダラ書いていてもキリがありませんから核心に入りますと、私が貴兄のブログに即興でコメントした「五感情像」は「五感覚と感情と像が統合・統括されたもの」であり、それは五感覚が全て平等ということではなく「視覚を中心に統合・統括されたもの」だという「即興の解釈・理解=直観」は、哲学史上のデカルトからカントまでが問題視した「統覚」ということと重ねて考えることが出来ると思えたんですね。
それは「直立二足歩行をしている人間の目が頭部の高いところに並んで付いている」という比較生物学的・比較解剖学的というか、進化論的な観点から、その人間の「視覚経路」が眼球から大脳まであるわけですが、その視覚経路の途中にある「視床」というところで嗅覚以外の感覚情報が全て視覚情報と一緒に中継されて大脳のほうへ行くという解剖・生理学的構造なんです。
このようにゴチャゴチャ書くと自由びとさんには付いてこれないかも知れませんから「認識・実体」の実体の話しです、ぐらいにザッパにしてもいいんです?いや、それじゃ不味いんですが、まあ、南郷さんも人間と四足動物とじゃ目のついてる所が違うぐらいは書いていたので似たようなとこを探ってる気もしなくは無いんですけどね。
それで、その「統覚」が「われ思う、Ich denke…」という認識に繋がるわけですけど、そうした「認識論」を探っていくのも私の今後のライフワークの一つになるやも知れません。
ああ、それで私が貴兄の「弁証法とは…」という定義というか一般論というかに同じ構成で「運動」や「静止」や「遺伝」を使った文章を書いてみたのは、もう少し「メタな」「高次的、形而上学的な言い方」をするならば「弁証法」というものを説明・定義しようとしている文章に「弁証法的」なんて同語反復をしていたからです。貴兄の観念の中では「主観と客観」「内的世界と外的世界」というフレームがあって、そこにキチンと区別されて位置づけられた言葉というかモノとして「弁証法と弁証法的」という概念はあるのかも知れませんけれど、「弁証法とは外界にある弁証法的に対応する内界の…」とか「弁証法的とは内界にある弁証法に対応する外界の…」といった文章は同語反復だとか循環論法だとか呼ばれているものでしょう?
貴兄は自分で書いていて奇異に感じませんでしたか?「弁証法とは弁証法的の…」「弁証法的とは弁証法の…」という循環論法のシャガールの騙し絵のような不思議さに(笑)。
もっとも、この「トートロジー」こそが「恒真式」という経験的な内実に関わらずに文章が常に真である「記号論理学的、形式論理学的」な形らしいですから、そこはこれから勉強させていただきたいですけどね。
気晴らしに、自由びとさんが書いているような「弁証法に関する私の理解」を書いてみたいと思います。こうしてみると私は嘗ては距離が近くて仲間同士だと思われていた論者の共通した読者だったのだなと感じますね。南郷さんや滝村さん、三浦つとむや庄司和晃、板倉聖宣だとか、今、それらの論者の後継者たちは余り繋がりは無いみたいですけどね。
自由びとさんは南郷さんの道場に入門して南郷さん一色に染まったのだと思いますけど、昔、南郷さんが故・海保静子さんを評して述べた「頭の中に生起する像を一コマ一コマ説く」ようなことが出来たらいいと思っています。
私が弁証法について考えるには、自由びとさんとは少し違うんです。自由びとさんの考えは三浦つとむが『弁証法はどういう科学か』で書いていた「弁証法は運動をあつかう科学」というもので、その定義からするならば『弁証法・認識論への道』に書いてあるように、「弁証法を失くした、棄てた者の論説には弁証法性、つまりは運動性・変化性がなくなる」となるわけなんですね、つまりはそれが具体例として如何なる事例なのかは見当がつかなくても論理的に「運動・変化がなくなる」と。
私が考える弁証法というのは直接的に運動じゃないんです。それは「哲学の遺産」なんですけど、端的に言うと「対立物の統一」なんです。「運動」って簡単に言ったなら物理学でやる運動ですよ。物体が落下して何処から何処まで移動したとか、自動車が何処から何処までどのくらいの速度で移動したとかが「運動」です。でも、それでは弁証法じゃないんです。
弁証法が運動だというのは実は「一重」じゃなくて「二重」になってるんです。例のゼノンの詭弁の「アキレスの疾走」というのが正に「運動」なわけです。「場所の移動」という。でも単に「アキレスが走った、そして何処から何処まで移動した」では弁証法じゃないんです。
その「アキレスの疾走」を「亀に追いつく、と、亀に追いつかない」という反対の矛盾したことで考えたのが弁証法が「運動」というのと「矛盾」というのとの二重のこととして始まった最初じゃないかと思いますね。
まあ、私はこのように具体例で語りますから、つまりは自由びとさんの言う「部分に対する全体としての抽象論」だとか「一般論」だとかで語らずに「反証可能性のある仮説」として説くわけです。それは板倉聖宣の「仮説論」にも通じますし、南郷さんが『武道の理論』で自分の行き方が板倉聖宣に類似していたと書いていたように深化・発展性があるのだと思っているわけです、間違えたとしても。
それで、弁証法の「運動を、追いつけない&追い抜ける、飛べる(動ける)&飛べない(動けない、静止)」という相反する矛盾で考えたゼノンの詭弁は、三浦の本には余り取り上げられていないけどソクラテスの産婆術に引き継がれるんだと思うんですよ。
つまりは弁証法の弁証法たる所以&由縁であるところの「弁=対話して、証=証明する、法=方法」で、何を証明するかと言ったなら「何でも知ってると豪語している人たちが実は知ってないのだ!」ということを証明するわけです。
それで証明してどうするの?といったなら、そうした「俺は何でも知ってる、分かっている!」と豪語している人たちは、その豪語する実力で他人を支配して自分の利益のために利用しようとしてるから、そんなことより人間に「徳」というものが大切で、公共性というか利己的なことでなく多くの人のために役立つ生き方が「善く生きる」ということなのだ!と説いたんです。
それを説くための対話の過程が「背理法」だとか「帰謬法」だとかとも呼ばれる「真&偽、知ってる&知らない」といった対立概念を行ったり来たりするものだったんです。
それで、どうして見解が「真」から「偽」へ、「知っている」から「知らない」へ変わることが「運動」なのか?というと三浦の『弁証法はどういう科学か』に書いてあるようにゼノンの詭弁の「アキレスの疾走」とイメージが二重になっているからなんです。
だから、卵から雛がかえって大きくなって行ってその雌鳥がまた卵を産んで、なんて変化を描写しただけでは弁証法でもなければ弁証法的でも無いんです。
最近、南郷さんの著述の何処だったか失念しましたけど、三浦の『弁証法はどういう科学か』で相互浸透、量質転化、否定の否定ときて、唐突に「矛盾」なんてのが出てくるみたいなこと書いてましたけど、矛盾は弁証法の最初から出てくるんです。それが無いと弁証法じゃないからです。