敢えて「禅」というモノを言葉にするなら~
禅は言葉で表現できない。
悟りは言語表現できない。
心は仏で、仏は心…
心は心で、仏は仏…
「仏性」とは、言い換えるなら「仏の本能」である。
「仏」とは、森羅万象・万物…全ての持っている性質である。
それは、換言するなら仏性=万物の性質=弁証法性、とも考えられよう。
しかし、ここには、仏性と弁証法性の相違がある。
仏性とは「仏」の性質であり
弁証法性とは、「物自体」の性質である、という事。
ここでの「仏」とは森羅万象・万物・全てにあるモノ。
「仏」は、常に森羅万象・万物・全てと共に存在している。
「物自体」は森羅万象・万物・全ての変化の根源。
森羅万象・万物…全ては、物自体・弁証法性の変化・運動結果である。
「禅」は、仏の生き方(仏性の運動性)を体得・本能化。
「弁証法」は、過去から現在までの物自体の自然⇒社会⇒精神への
変化・運動性の体得・認識・機能的実体化、といえよう。
その物事・結果に対しの「仏性」からの正解を
「禅」では、説明・言語化は至難であり、
仮に言葉にできても、その理解は、
禅を分かる者or分かりかけた者に
しか、分り得ないモノであろう。
また弁証法でも難しくはあるが、それなりに言語化可能ではある。
例えば
「運動とは、そのモノが、そこにあると同時に、そこにない」とか、
「変化とは、そのモノがそのモノであると同時に、そのモノでない」とか…
上記の言葉、初めて
見た時、「そうなの!」と、殆ど違和感がなかった。
しかし、その内に「え…なんか少し変だ…!」と違和感が生じ、
そして、今は「うん!そうであろう…このように言葉にするしかない…」と納得している。
禅は言葉で表現できない。
悟りは言語表現できない。
心は仏で、仏は心…
心は心で、仏は仏…
「仏性」とは、言い換えるなら「仏の本能」である。
「仏」とは、森羅万象・万物…全ての持っている性質である。
それは、換言するなら仏性=万物の性質=弁証法性、とも考えられよう。
しかし、ここには、仏性と弁証法性の相違がある。
仏性とは「仏」の性質であり
弁証法性とは、「物自体」の性質である、という事。
ここでの「仏」とは森羅万象・万物・全てにあるモノ。
「仏」は、常に森羅万象・万物・全てと共に存在している。
「物自体」は森羅万象・万物・全ての変化の根源。
森羅万象・万物…全ては、物自体・弁証法性の変化・運動結果である。
「禅」は、仏の生き方(仏性の運動性)を体得・本能化。
「弁証法」は、過去から現在までの物自体の自然⇒社会⇒精神への
変化・運動性の体得・認識・機能的実体化、といえよう。
その物事・結果に対しの「仏性」からの正解を
「禅」では、説明・言語化は至難であり、
仮に言葉にできても、その理解は、
禅を分かる者or分かりかけた者に
しか、分り得ないモノであろう。
また弁証法でも難しくはあるが、それなりに言語化可能ではある。
例えば
「運動とは、そのモノが、そこにあると同時に、そこにない」とか、
「変化とは、そのモノがそのモノであると同時に、そのモノでない」とか…
上記の言葉、初めて
見た時、「そうなの!」と、殆ど違和感がなかった。
しかし、その内に「え…なんか少し変だ…!」と違和感が生じ、
そして、今は「うん!そうであろう…このように言葉にするしかない…」と納得している。
というより…たぶん考えた事もないのだろう。
それに、言葉の個人的な使用と社会的な使用についても分かっていない。
ここは、自由びとの個人的なブログであるから、
ここで、「法」を「心の法」=「私の心の法」としても何ら問題ない。
その事に、一々イチャモン付ける事は「自由びと法」の否定であり、
それは、お宅の存在・意味そのモノの否定でもある。
従って、ここで自由びとは、お宅に以下の命令を出す。
「即刻、ブログ「悟りを求めて…」から立ち去れ!」
ですが、過去から未来に渡っての全ての禅関係者たちが禅や仏教を言葉にできなかったと強弁することに真があるとは言えません。
現代社会において「公法」とは区別された「私法」と呼ばれているものも、民法や商法として個人の権利を守るためのものだというだけで、その物差しは私的なものでなく公的なものなのでしょう。
その意味で心的鍛錬の為されていない個人の心の中に芽生えた殺意を「私法」などと呼ぶことは「私刑、リンチ」という名の公共性のまったく欠けたる暴行を「法」の名で呼ぼうとする錯乱した思考の産物にしか過ぎません。
死即生などと大きなことを言うならば、秘密教団の中での学問体系の完成などといったどーでもいー遊戯をしている場合ではなく、日本の、世界の人々の苦痛を無くす活動でもされるべきだと考えますね。
南郷さんの我執や煩悩が全空連として空手の大同団結を拒否して特異な執筆を始めた理由だと考えますね。
ヤッパリ…「禅の心」を分かっていない…
真の禅の心を現代の大学で教育でき難いでしょう。
それは、武道空手を「死即生」を大学で堂々と教育できない、と同様です。
そもそも…
>「大学教授で高僧でもある禅師」が「成仏」・悟り得ている保証はあるのでしょうか?
仮に「悟り得て」いたとして、教育可能なのは、「禅」そのモノ・禅の修行法…についてであり
「成仏・悟り」の境地の教育は無理でしょうね。
これは、現代の小・中学校が、
どんなに努力・必死に頑張って言葉で「心の教育」・「道徳」を教育しても、
なかなか成果が得られない事実がゴロゴロしています。
>南郷さんが「死即生」とか書いていても私には興味がありません。
↑
ここでの問題は、お宅が南郷氏の「死即生」に「興味があるかないか」ではなく、
これを言葉から理解できる能力がないのなら禅の境地を理解できない筈なのに、
それでも、禅について分かっている、と、思っているお宅の「思い」が問題なのです。
ほ~ほ~>それは余りに残念な「知的技の崩れ」でしょうから…
この「知的技」とは? また「技の崩れ」とは?
これらを十分に理解し分かった上で上記の言葉を使っているかな?!
↑
「法(律)」についても、同様に二重性が考えられます。
その「法(律)の執行型」と「法(律)の心」の二重性、
「禅」の教えは、言うなれば「法の心」です。
また、「法」には、
個人的な法「私法」と社会的な「法律」とが考えられます。
個人的に殺意を抱くのだけなら個人の自由です。
しかし、殺人を実行したなら、個人的な「合私法」的であっても、
社会的な「法律違反」となり、発覚するなら必然的に罰せられます。
ここから言えるのは、
「禅は個人的な心の法」てあり、
社会的な「法(律)の力」とは別物です。
だから、個人的な「禅」は言葉にする必要はないし、
それを言葉にしても他人には「え!ウソ~」と言われかねないモノなのです。
それでも、心ある禅師は修行僧達の為に言葉に残そうと必死だったのでしょう。
そして、「禅(禅の境地)」は言葉にできないから、公案という形・型で、
禅の心・境地を個別的・比較的・全体的に表現しようと頑張ったのでしょう。
お宅が「禅の境地」を言葉で表現可能だと信じているなら…
それでも死ぬまで「禅の境地は知り得ない」でしょうね。
でも、個々の言葉で表現できないが、多くの言葉・実例の中にある、
言葉で書けなかった個々の「禅僧の心」を読み取れれば、別ですが…
ここから言える事は、
お宅は、「禅」の悟り・成仏の境地を分かっていないのに…
お宅は、それを分かったつもりになって色々と書いている、という事です。
この事は、お宅の南郷氏の記述を対する理解・見解・言葉・感想…にも当てはまる事なのです。
禅だとか、真言宗でも浄土宗でもいいですが、それだけ歴史の中で鍛えられ生き延びてきた価値あるものですから、学ぶ意義は十分に感じます。
大学教授で高僧でもある禅師は、やはり言葉も用いて雲水の指導をするようですから、他のすべての人間の営みと然程変わりはしないのでしょう。「接化」というらしいですけどね。
禅宗でも出家した側と檀家とでは密接な関わりがあるようですから、お前は生死の境を覗く修行をしてないから理解できない、などという禅師は失格だと思いますね。
それじゃあ「教団」という象牙の塔に引きこもって、国家の一大事には活動できないマニアの集まりでしかありませんから。
南郷さんが「死即生」とか書いていても私には興味がありません。南郷さんは禅師でもありませんし、歴史的な知的遺産でもありませんから。
私からみたら南郷さんは我執と煩悩の塊で仏教や禅でいう悟りとは何ら関係ない人でしょう。
生に執着してるから道場所在地を隠して他者の悪口を書き連ねているだけで、それでも「これは!」とハッとするような論述が著作の中に見られるならば執筆者としての価値もあるでしょうけれど、そうした箇所は皆無ですからね。
あまり言いたくはありませんが、その南郷さんの弟子であるアナタの実力がこの数回に渡る「禅」に関する投稿なのですよ。
それは余りに残念な「知的技の崩れ」でしょうから…
↑
>教育によって身につけてきた「他者を想う心」にての二重性、
「他者を想う心」の表現手段・手法の教育、
「他者を想う心」の境地の体得・教育、です。
手段・手法の型・形は目に見えるので、言葉と型・形で教育可能です。
しかし、「他者を想う心」の型・形は目に見えません。
これを言葉で知らしめても。その「他者を想う心」の型・形は、
「十人十色」かつ「千差万別」でしょうから、無理なのです。
ここは、子供と生活を共にする者・保護者…によって、
その日々の関わり合いの中で教育可能です。
もっとも…その保護者に「他人を想う心」が育まれていれば…ですが。
現代の学校教育の課題は、
物事の見える型・形でなく、
心境・境地…の見えない「型・形」を、どのように知らしめるか、です。
そもそも…お宅と私では、言葉の捉え方・理解が異なっている、ようです。
私は、言葉で表現して伝わる・伝えられる事と言葉にしても伝わらない・伝えられない事がある、と思っています。
「禅」で具体的に説くなら、
「禅」については言葉で書けます・伝えられ・伝わります。
「禅」の修行法も言葉で書けます・伝えられ・伝わります。
しかし「禅」で体得した「成仏の境地」は、
仮に言葉で出来ても、その境地・心が正しく伝わるのは至難です。
至難であっても…条件によっては伝わる事もあり得ます。
その修行者が老師について必死に修行をし続けて、
日々の生活を老師と共にして、老師の態度・言動…を観察・把握し続けた時、
ある日・ある時、その修行者は、老師の態度・動作と当時に発した言葉から瞬時に「悟り得る」事があり得ます。
しかし、これは「言葉・表現だけ」の問題ではないのです…
これは、修行者が既に「悟りの境地」に達していて、
老師の言葉が己の悟りの境地と一致した故に、
己の境地が明確化されたという事です。
この事は、南郷氏が書かれている武道空手の極意である「死即生」についても言えます。
「死即生」を言葉で分かっても、その境地を未体得の者には、
感情的に分からない・理解できない事と同様なのです。
従って、ここで私が、どのように如何に書いても、
お宅に伝わる事は伝わるし、伝わらない事は伝わらない、のです。
それでも、ここでも、お宅の言葉を受けて、
私の現在の心境・境地を書き残しておく事は、
それはそれで有益な事なのでしょうが…
以前、自由びとさんが引用していた臨済義玄の「仏に会うては仏を殺し、父母に会うては父母を殺し、羅漢に会うては羅漢を殺し…」というのも、
私、あらためて、これは「真理たることにも例外がある、だから教条主義的で形式的な判断ばかりではいけない、戒禁取見で悪しき戒律を守り施行してはいけない」という教えではないかと考えました。
というのも臨済義玄が述べている「仏殺し、父母殺し、羅漢殺し、」といったことは従来の仏教では「五無間業」として無間地獄に落ちる最低最悪の悪行だとされていたからです。これは当然に譬え話などでなく、実際に相手の身体を破壊して絶命させる殺生のことですが、
臨済義玄は、そうした「五無間業」をしてしまった者であっても必ず無間地獄に落ちるわけじゃない、救われる道は有る!と説いたのだと思います。
その良き実例が昭和48年の「尊属殺重罰事件」で実の父を殺してしまった娘さんが、本来ならば「死刑判決」になるところ、
その父親の悪行から情状酌量で減刑されて、懲役2年6ヶ月の有罪判決で済んだという件です。
つまり、仏法というのは現代の法律にも通じる人倫を説く規範・人の道であると思うんですよね。
それを「禅は言葉には出来ない」では「法としての力」を禅や仏教から失わせてしまうことになると私は考えます。
私も禅には興味があるので禅僧になるにはどうすればいいかネットで調べてみたところ、近所のお寺の住職と話しをしに行き仲良くなって色々と教えてもらうところから始めるらしいです。
一番いいのは自分の菩提寺の住職と話すことらしいですけど、私の場合は自宅の近所じゃありませんから行くのに時間がかかりますし、日蓮宗だから禅宗じゃないし、歩いて5分くらいの禅寺に行こうと思います。
たぶん禅って言葉にできるんだと思います。色々な禅師が言葉を使って本を書いてますし、たくさん議論もされてるみたいだし。
それで、禅にしろ他の仏教の宗派にしろ何処で何をやってるのかを見るのが理解の近道だと思います。曹洞宗にしろ臨済宗にしろ「お寺」ですから墓地があるんです。
それで葬式あげて墓参りして故人を弔ったりするわけです。
そうした仏教文化としての一つ一つを「何をしてるんだろう?」と見ていけば、禅宗にしろ他の宗派にしろ言葉で理解していけると思いますね。
例えば、人が亡くなると葬式するわけですけど、そこに「香典」といってお金もってくわけですよね。2万円とか3万円とか包んで持っていくわけですけど、それは何かを買ってその対価として支払うわけじゃなくて「身内が亡くなってお気の毒さま」と差し上げるわけで。
それで「お悔やみ」といって亡くなった人がどれだけ大きな存在だったのか、それを失ってしまったことがどれだけの損失なのか、どれほど残念で悔やんでも悔やみきれないかを切々と述べるわけじゃないですか。
そうすると、家族を失った遺族の方々も心の慰めになって癒されるところが出てきます。それを、人間は必ず死ぬわけで、◯◯さんの寿命は60歳だったか!みたいな言われ方されたなら救われる心も救われないでしょうし。
それで亡くなった人に食べ物だとか飲み物だとかお供えして、「弔う」だとか「供養」だとか呼ばれる「お父さんは哲学が好きだったから、今頃はあの世でカントやヘーゲルと議論してるに違いない」なんて話しで盛り上がったり。
それが無宗教・無神論だと神も仏も信じてませんから、「お彼岸」だとかの春や秋に親族が集まって墓参りする意味も分からなくなります。同じ寺の同じ墓の下に先祖代々の遺骨を集まっておく意味も有りはしなくなりますし、「菩提寺」なんてものにも意味は感じなくなります。
そうした知人の親族が亡くなったときの香典だとかお悔やみの言葉といった「本能」では全く無い、教育によって身につけてきた「他者を想う心」というのが「仏心」であり「仏性」ではないかと私は考えてますけども。