普通に考え書く「二重化」とは?
認識の二重化は、自己の他人化ではなく、自己の自分化から始まる…
そんな言葉が思い出せている。
日常用語には、「同感と共感」があります。
以下は、ネットから引用した解説です!
~~~転写開始~~~
同感と共感は、どちらも他人の考えや感情に共感するという意味ですが、ニュアンスが異なります。
同感は、自分の経験や考えと相手の話の内容を照らし合わせて共通点や相違点を見つけ、自分がどう感じるかというものです。主語は「自分」で、相手に伝えるのは自分の気持ちです。たとえば、友人から悲しい話を聞いたときに「(私はあなたと同じで)悲しいよ」と表現する場合は同感にあたります。
共感は、相手の気持ちを察することがメインで、主語は「相手」です。相手と同じ状況に自分が置かれたらどう感じるのかを想像し、相手の気持ちを読み取って共有し、効果的かつ適切な方法で対応する能力です。たとえば、友人から悲しい話を聞いたときに「(あなたは)悲しいよね」と表現する場合は共感にあたります。
共感力が高い人は、聞き上手で他者の考えを理解できるだけではなく、自分の意見をしっかりと持っていることが多い傾向があります。他者と信頼関係を築いたり、良好なコミュニケーションをとるうえで非常に重要な力です。
同感とは、自分の経験と相手が話す内容と照らし合わせて共通点や相違点を見つけ、「自分」がどう感じるかというものです。
それに対して共感とは、「相手」がどう感じるのかがわかることです。
~~~転写終了~~~
どうですか?! 一目瞭然・一読瞭然 でしょう~
同感とは、眼前の他人の認識への「二重化」が、自己認識の自分化。
共感とは、眼前の他人の認識への「二重化」が、自己認識の他人化。
同感とは、自己の立場・思考・感情から、「その人に同感」。
共感とは、自己の立場・思考・感情を無視・無関係に、「その人に共感」。
上記のように言葉として理解可能でも…
では~
どのように「同感」する?
どの様に「共感」する? その方法論は?
また、今の自己感情・感じが、
「同感か?共感か?」という、判断・根拠・基準は?
「理解が可能」になっても…「実践が可能」になれる、とは限らない!
それは~理解から理会へ、知識から技能・技術へ~
そんな~弁証法的な歩みが必要なのでしょうね~