何を書きたいの…
弥勒お宅は、コメントで自由びとに以下のよう書いている~
>私が自由びと氏の文章に空虚だというのは、以前も書いたように「内容が虚しい」ということではなく「本当に何を書いているのか理解できない」からなのです。
そんなお宅の言葉を受け…ここ暫く私は考えている。
『私は何を書きたいのか?』
『私何を求めているのか?』
『毎日私は何を思い・何を考えて生活しているのか?』
『私は、本心から悟りを求めているのか?』
『本当に悟りを欲しているのか?』
思えば…家内が亡くなる数年前から…
若い頃、幼少の頃、家内と出会う前の時々の私がそうだったように…
ある瞬間、突然に「スーと淋しい・切ない風のようなモノが通る」感覚・感情…が生じて始めていた。
それは、家内と知り合い・結婚して…から殆ど感じなくなっていた感覚・感情だった…のに…
それは、過去の記憶が…
例えば父の介護生活の前に住んでいた近所を通った時や…
息子の幼少時・昔の写真を見た時とか…過去の時々の生活を想い出した時に、生じていたようである。
最近は、少し落ち着いて…「スーと感」はそれ程ではないが…
私は、そんな「スーと感の根源の追及」がしたいのかも…と思ってか…と最近ふっと思った…
私の中学時代は、楽しくないモノだった事を~
小中一貫校で、小6までは人数も多く活気あるクラスで担任も若く…とても楽しい充実した日々だった事を~
でも、中学へ進学したら、多くの友達が公立中学へ転向して、クラスの人数は半分以下に減少した事…
担任も年配で、とても口うるさく…褒める事より指摘・注意が多く…時に非常に愚痴っぽく長々と説教していた。
時に、国語の時間を一時間丸々愚痴のような説教で終わってしまう事をあった。
そんな担任でも…聞くところによると…
数十年前の若かりし頃は、熱血感があり、とても頼りがいのある教員だったらしい…
でも…年と共に…その熱血の表現が、愚痴や説教に変わったのだろう…
実際、私の母親は「とても熱心な先生!」と担任を評価していた…
年配の保護者達…には、その熱心さ真面目さは見え分かっても…
中学生の私達には見えない分からないモノだったようだ…
そんなクラス学校生活でも…
学校ではなく、放課後の習い事・スポーツ…で有意義な日々を送っていた同級生もいたが…
私の親しい友達は私と同様な感じで日々「面倒臭い…かったるい…疲れる…」と何かした訳でもないのに…
そんな…思春期…大切な日々を無益に過ごしてしまったのだろう…
また…私の根底・原風景(南郷氏的表現)は、「淋しさ」のようである…
それは、一人っ子、幼少時に両親との交流の浅さ…両親から離れていた日々の暮らし…
そんな~私の原風景の「淋しさ」も結婚・生活・子育て…と忙しい日々の生活中で…
何時の頃から、忘れてしまっていた…
そして…月日は流れ…父親が亡くなり介護の日々の終了…息子も大学生となり、家内もオーケストラという趣味に熱中…
私の日々の労働・生活も、父親の遺産相続で非常に楽になり…以前のように生活費の為に七日間フルに働く事も不要になくなった…
忙しい日々の中では、私の原風景は見えていても…気にしている程の余裕がなく…
殆ど、前面に出る事はなかったのだろう…
でも…生活が落ち着き初め…家内も息子も自分の趣味や生活に前向きになったのに…
私は、日々の労働なら解放されたら…自分のしたい事も趣味もなく…手持無沙汰になった…
そんな中で、ココロの目は、自然に我が心の原風景へ~なのだろうか?
それとも…加齢の為の…老化現象…なのか?
家内が亡くなり…一年半近く…とても淋しい心だった…ようだ…
それは、自分で淋しさを直接に淋しさとは感じられない程のモノだった、ようだ…
私は思う~
過去に未体験の強烈な感情・強烈過ぎて大き過ぎる感情の中では、
(私の場合は)感情そのモノの全体像が見えない・見て取れない…ようである…
数か月前に、近所に住む旧知の知り合い石さんに出会った…
彼に曰く「元気そうだね…この前(家内の亡くなった時)合った時は死にそうな顔していたよ!」…
どうやら…日頃の私を熟知している人には、私の心の中は丸見えのようだ…
多分…私には以上のような感情が根底にあり…
私が何かを書く時、その時々の感情・感性が、私の理性・記述へ干渉していくのだろう…
その結果、読む人が読めば…感性部分も含めて理解しよう・してしまう人が読めば…
「…何を書いているか理解できない…」なのだろう…
それは、たぶん私の感性と理性の葛藤の結果なのだろう…
それでも…私は、その記述の結果から私の感情への理解が深まっているのだろう…
だから…それは思想ではなく、私の精神活動であり思考過程でもある…
思想は出来上がっている。ある形としての「思い想う」であろう…
思考過程・精神活動は…過程として・活動として、形はあっても…
その過程・活動の結果には、まだまだ未到達なのだろう…
しかし…67歳で未到達とは、結果的に死ぬまで「未到達」の可能性のあり得るのだろう…
それでも…私自身が「未到達・未完」という自覚を持ち得る限りは、
それは、完結・完成ではなく、未到達・未完成…
完成・完結は、自己満足へ~
未到達・未完性は、不満足の連続へ~
以上が、お宅の言う「空虚」=「何を書いているか理解できない」記述なのだろう…
私は私の中で日々活動している「私の感情」を知りたい・確定したい・書きたい・表現したい…のだろう…
しかし、変化・運動している感情そのモノの表現なんて…
それは、書いても・書いても・書き続けても変化していくモノ…
そこには、正解なんてないモノ…
何を書いても「正解」であり「不正解」でるモノ…
ある感情を正しく捉えて表現した瞬間には、別の感情へと変化してしまっているなら…
どう…弥勒お宅唐~
上記のような捉え方なら、お宅の「空虚」に近づいているかも…
弥勒お宅は、コメントで自由びとに以下のよう書いている~
>私が自由びと氏の文章に空虚だというのは、以前も書いたように「内容が虚しい」ということではなく「本当に何を書いているのか理解できない」からなのです。
そんなお宅の言葉を受け…ここ暫く私は考えている。
『私は何を書きたいのか?』
『私何を求めているのか?』
『毎日私は何を思い・何を考えて生活しているのか?』
『私は、本心から悟りを求めているのか?』
『本当に悟りを欲しているのか?』
思えば…家内が亡くなる数年前から…
若い頃、幼少の頃、家内と出会う前の時々の私がそうだったように…
ある瞬間、突然に「スーと淋しい・切ない風のようなモノが通る」感覚・感情…が生じて始めていた。
それは、家内と知り合い・結婚して…から殆ど感じなくなっていた感覚・感情だった…のに…
それは、過去の記憶が…
例えば父の介護生活の前に住んでいた近所を通った時や…
息子の幼少時・昔の写真を見た時とか…過去の時々の生活を想い出した時に、生じていたようである。
最近は、少し落ち着いて…「スーと感」はそれ程ではないが…
私は、そんな「スーと感の根源の追及」がしたいのかも…と思ってか…と最近ふっと思った…
私の中学時代は、楽しくないモノだった事を~
小中一貫校で、小6までは人数も多く活気あるクラスで担任も若く…とても楽しい充実した日々だった事を~
でも、中学へ進学したら、多くの友達が公立中学へ転向して、クラスの人数は半分以下に減少した事…
担任も年配で、とても口うるさく…褒める事より指摘・注意が多く…時に非常に愚痴っぽく長々と説教していた。
時に、国語の時間を一時間丸々愚痴のような説教で終わってしまう事をあった。
そんな担任でも…聞くところによると…
数十年前の若かりし頃は、熱血感があり、とても頼りがいのある教員だったらしい…
でも…年と共に…その熱血の表現が、愚痴や説教に変わったのだろう…
実際、私の母親は「とても熱心な先生!」と担任を評価していた…
年配の保護者達…には、その熱心さ真面目さは見え分かっても…
中学生の私達には見えない分からないモノだったようだ…
そんなクラス学校生活でも…
学校ではなく、放課後の習い事・スポーツ…で有意義な日々を送っていた同級生もいたが…
私の親しい友達は私と同様な感じで日々「面倒臭い…かったるい…疲れる…」と何かした訳でもないのに…
そんな…思春期…大切な日々を無益に過ごしてしまったのだろう…
また…私の根底・原風景(南郷氏的表現)は、「淋しさ」のようである…
それは、一人っ子、幼少時に両親との交流の浅さ…両親から離れていた日々の暮らし…
そんな~私の原風景の「淋しさ」も結婚・生活・子育て…と忙しい日々の生活中で…
何時の頃から、忘れてしまっていた…
そして…月日は流れ…父親が亡くなり介護の日々の終了…息子も大学生となり、家内もオーケストラという趣味に熱中…
私の日々の労働・生活も、父親の遺産相続で非常に楽になり…以前のように生活費の為に七日間フルに働く事も不要になくなった…
忙しい日々の中では、私の原風景は見えていても…気にしている程の余裕がなく…
殆ど、前面に出る事はなかったのだろう…
でも…生活が落ち着き初め…家内も息子も自分の趣味や生活に前向きになったのに…
私は、日々の労働なら解放されたら…自分のしたい事も趣味もなく…手持無沙汰になった…
そんな中で、ココロの目は、自然に我が心の原風景へ~なのだろうか?
それとも…加齢の為の…老化現象…なのか?
家内が亡くなり…一年半近く…とても淋しい心だった…ようだ…
それは、自分で淋しさを直接に淋しさとは感じられない程のモノだった、ようだ…
私は思う~
過去に未体験の強烈な感情・強烈過ぎて大き過ぎる感情の中では、
(私の場合は)感情そのモノの全体像が見えない・見て取れない…ようである…
数か月前に、近所に住む旧知の知り合い石さんに出会った…
彼に曰く「元気そうだね…この前(家内の亡くなった時)合った時は死にそうな顔していたよ!」…
どうやら…日頃の私を熟知している人には、私の心の中は丸見えのようだ…
多分…私には以上のような感情が根底にあり…
私が何かを書く時、その時々の感情・感性が、私の理性・記述へ干渉していくのだろう…
その結果、読む人が読めば…感性部分も含めて理解しよう・してしまう人が読めば…
「…何を書いているか理解できない…」なのだろう…
それは、たぶん私の感性と理性の葛藤の結果なのだろう…
それでも…私は、その記述の結果から私の感情への理解が深まっているのだろう…
だから…それは思想ではなく、私の精神活動であり思考過程でもある…
思想は出来上がっている。ある形としての「思い想う」であろう…
思考過程・精神活動は…過程として・活動として、形はあっても…
その過程・活動の結果には、まだまだ未到達なのだろう…
しかし…67歳で未到達とは、結果的に死ぬまで「未到達」の可能性のあり得るのだろう…
それでも…私自身が「未到達・未完」という自覚を持ち得る限りは、
それは、完結・完成ではなく、未到達・未完成…
完成・完結は、自己満足へ~
未到達・未完性は、不満足の連続へ~
以上が、お宅の言う「空虚」=「何を書いているか理解できない」記述なのだろう…
私は私の中で日々活動している「私の感情」を知りたい・確定したい・書きたい・表現したい…のだろう…
しかし、変化・運動している感情そのモノの表現なんて…
それは、書いても・書いても・書き続けても変化していくモノ…
そこには、正解なんてないモノ…
何を書いても「正解」であり「不正解」でるモノ…
ある感情を正しく捉えて表現した瞬間には、別の感情へと変化してしまっているなら…
どう…弥勒お宅唐~
上記のような捉え方なら、お宅の「空虚」に近づいているかも…