糞には、肥料としての使い道がある。
その道を歩むなら、糞にも価値がある。
以下のようなコメントでも、
使い方次第で価値が生まれるモノ。
▼ コメント ────
・コメントが届いた記事
存在価値はクソ以下!?
・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/58fe19ff0de081b4cc22fda114049fc5
・コメントを書いた人
一村隆滝
・コメント
>おやおや、随分と口汚い表現があらわれましたね(笑)。
このお宅が「口汚い」と思うのは、
「臭い糞・汚い糞…」といった糞の対する一面的な感じ方の為であろう。
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母親なら、子供の糞も「可愛いうんち」、
愛犬なら、「健康そうな糞」…
愛猫なら、「立派なウンチ」…
「糞・うんち…」が、口汚い表現とは限らない。
問題は、書き手が、どのような感情・意図・思い・考え…で、
その言葉・表現を選択しているのか?であろう。
それを「口汚い表現」と、初めに感じ取っている、
このお宅には、書かれた文面から、書き手の真意を読み取る能力は感じ取れない。
>それが自由びとさんの本性だといえ、私のコメントがそれを発現させる引き金となったのだとしたなら申し訳ないことです。
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己の能力不足をこのように対手の「本性」と言い切っている姿は、爆笑かつ悲しいものがある。
「申し訳ない」とは、よくもまあ~シャーしゃ~と思ってもいないを平気で書ける者である。
>ソクラテスの名前が飛び出したのは意表をつかれましたけど、奇遇にも私もこの数日、ソクラテスからアリストテレスにかけて、それからトマス・アクィナスにかけて調べていたことがありましてね、それは私の専門分野に関わることで、なんですが…
↑
私なら「専門分野」的ではなく、
先ずは、哲学的・学問的・弁証法的・認識論的・論理的…から「専門分野」ですがね。
>私が自由びとさんとどうにも馬が合わないのは、やはり「顔が見えないから」のようなんですね。実は私も何十年も前に玄◯会で空手をやっていましたから、本当に自由びとさんが語られている時期に青雲塾にいたならば私とも会っているはずなんです。
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私が思うに~
このお宅が、私と「馬が合わない」のは、
私の言葉・表現の捉え方・関わり方問題ですね。
>私はここ数年で当時の青雲塾で時空を共有した方々と再会して旧交をあたため嬉しく感じたものですが、単に「青雲塾にいた」というばかりで何処の誰だか分からない自由びとさんの書いていること??言ってることが良く理解できないのも、その「顔が見えない、何処の誰だか分からない」ところに原因がありそうです。
↑
このお宅が私の言葉を「…良く理解できない」のは、端的には、理解しよう・理解したくない…からです。
この感情・気持ち…とても理解できます。
去年から、私は一年生の授業補助を始めました。
その一年生の児童達の多くは、突然に私の全く理解できない言葉・話をするのです。
そこで暫く聞いていると、どうやらゲームのキャラの名前・話でした。
でも…私との会話の中で、そのゲームの話はなかったのです。
児童は、私との会話の中で、突然に「そのゲーム」を想起したのでした。
その児童は、私の言動と無関係でも、突然に想起した事を言葉にしているのです。
このような「想起を言葉へ」の子供は、賢い子供なのですが…。
でも、先生との話の筋から、外れてしまう、不都合な点が問題。
このような事の繰り返しは、授業・学習には、マイナスです。
ただし…教師が、このような事を理解して、授業を進められるなら、問題ではなくなります。
そんなこんな児童との認識論的な関りが二年目の今日この頃、
ここ一年間の強烈な体験・経験から~
このお宅の私を「良く理解できない」という思いの原因は、私への二重化かできない。
対象への二重化能力の欠如だと、分かるのです。
こんな能力不足のお宅だから「相性」と言っているのです。
「相性が良い」とは、性格・考え方・生い立ち・価値観…が似ている・近い…等の
理由から、「互いの二重化が容易」とう事です。
このお宅は、己の能力不足を「相性」を理由に解消し、
哲学・学問・弁証法…的関わりを、専門的・知識的な関りに解消し、
そんなこんなで、自己満足・自己納得…しているお宅なのです。
>つい先日も尊敬する論研の先生とメールのやりとりをさせていただいて、おそらくは他の人なら何を書いているのか理解できないだろう暗号のような文章も「正に論理的とは、このような文章だ!」と感激した次第。
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真の論理的な実力者は、哲学・学問…を小学一年が分かるように説ける者です。
「何を書いているのか理解できない…暗号のような文章」を「正に論理的…」
このお宅は、自分が「論理的」と納得・痛感…可能な文章だけが「論理的」なのです。
そもそも…誰もが、他人の言葉・言動…を論理的とは思えない現実が存在します。
その理由は、言葉・言動…は、論理ではない」から…です。
「論理」を論理として、直接言葉で表現すする事は至難だからです。
他人の論理は、その人の言動の裏にある認識に、
二重化できて初めて、その人の「論理・的」が浮上してくるモノです。
しかも…二重化している自己の中に、その「論理・流れ」があって初めて「論理的」となり得るモノです。
>人と人との相性というのは、そうしたものかも知れませんね(笑)
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己の能力不足を「相性というもの」に解消できる程の幸せ者。
↑~
以上が、「存在価値はクソ以下!」のコメントから、
高価な宝石以上の価値を創出するかの実例である。