変化と不変、
相対的と絶対的、
変わるモノと変わらないモノ、
赤子⇒児童⇒小学生⇒中学生⇒高校生⇒大学生⇒社会人⇒…
ゼロ歳⇒10代⇒20代⇒30代⇒40代⇒50代⇒60代⇒…
と…
その肉体・精神は変わっていても私が私である事に変わりない。
私が私であって不変でも、時々の私の考え・感情は変わっている。
変化は不変の中、不変は変化の中…
変化・不変は二つで一つ…
どちらも変化・運動の一部である。
ヘーゲルの絶対精神は不変であっても…
その絶対精神の中身は、時代と共に変化していく…
今も昔も日本は日本である…
でも、その日本の中身は変化している。
変化と不変の二者択一は、変化・運動の否定であり、
それは、弁証法の否定でもある。
絶対者を認める観念論は、
その絶対者の中身の変化を考慮して初めて学問となり得る。
事実から始まる唯物論は、
その事実が具体⇒具象⇒抽象⇒論理⇒理論へ向かえて学問となり得る。
世の中、「あれか・これか」であり、「あれもこれも」…である。
大切なのは、いつ「あれか・これか」であり、いつ「あれもこれも」の選択。
私は、
独りの時は「俺(昔は僕)」であり、
私生活・家庭では「俺(昔はパパ)」であり、
友達の前では「俺」であり、
仕事・学校では、「私」である。
同じ私でも、学生時代と社会人時代とでは同じ私ではない。
それでも、学生の私と社会人の私は、同じ私である。
それは、
どこが・なにが、違っていて、
どこ・なにが、同じなのかである。
事実の中に、変化・不変がある、のではなく、
人間が事実の中に変化・不変を見出しているだけ…
人間なら人間にとって大切な事は、
自己の中に如何なる不変を創出し~
どのような変化を求めていくか?
変化の激しい世の中に、不変を求めるのも人間なら、
変わらぬ世の中に、変化を求める、のも人間なのだろう…