二重化のついての気付き~
数日前に、師範の全集の再読から以下のような気付きが得られた。
そこには、「…一つを二重化して二つへ、そしてその二つを一つへ…」のような事が書かれていた。
この全集は、もう数回も読んでいる…
そんな中、今回は、上記の記述に引っかかった…
そして以下のような事を思った。
目の前の現実・事実を自己の想像可能な「あらまほしき姿」に二重化…
そして、事実・現実を姿に変換できるような関わりを持ち続ける事で、
その現実を変えてしまう事。
「一つを二重化して二つへ」想像物へ、その「二つを一つの連続」実在物へ変えてしまう。
上記のような事を思った時、思い浮かんだのは「玄〇会の運足・足進法」の事である。
空手の普通の運足は、後ろ足を意識・力んで、前足で突っ込むモノ。
でも、私が教えられて玄〇会の運足・足進法は、前足の膝を意識して、その意識で突っ込むモノ。
これは、師範が、
当時の現実・事実的な「後ろ足意識の空手の運足」を
「前足を意識の運足」という「あらまほしき姿」に二重化して…
その為に試行錯誤の訓練法の模索…
その結果、あらたな「運足・足進法」(前足・後足の同時的意識運足)の体得…
「小志を大志へ、現実を夢へ、更に夢を大きな夢へ」二重化~
「少年よ大志を抱け」であり、「大きな夢を描け」…
大志・大きな夢が抱けたなら、それに向かって実行・頑張れ!
こんな事は、誰でも分かり・書ける事…
しかし、実際に実現的な頑張りの持続が至難。
数日前に、師範の全集の再読から以下のような気付きが得られた。
そこには、「…一つを二重化して二つへ、そしてその二つを一つへ…」のような事が書かれていた。
この全集は、もう数回も読んでいる…
そんな中、今回は、上記の記述に引っかかった…
そして以下のような事を思った。
目の前の現実・事実を自己の想像可能な「あらまほしき姿」に二重化…
そして、事実・現実を姿に変換できるような関わりを持ち続ける事で、
その現実を変えてしまう事。
「一つを二重化して二つへ」想像物へ、その「二つを一つの連続」実在物へ変えてしまう。
上記のような事を思った時、思い浮かんだのは「玄〇会の運足・足進法」の事である。
空手の普通の運足は、後ろ足を意識・力んで、前足で突っ込むモノ。
でも、私が教えられて玄〇会の運足・足進法は、前足の膝を意識して、その意識で突っ込むモノ。
これは、師範が、
当時の現実・事実的な「後ろ足意識の空手の運足」を
「前足を意識の運足」という「あらまほしき姿」に二重化して…
その為に試行錯誤の訓練法の模索…
その結果、あらたな「運足・足進法」(前足・後足の同時的意識運足)の体得…
「小志を大志へ、現実を夢へ、更に夢を大きな夢へ」二重化~
「少年よ大志を抱け」であり、「大きな夢を描け」…
大志・大きな夢が抱けたなら、それに向かって実行・頑張れ!
こんな事は、誰でも分かり・書ける事…
しかし、実際に実現的な頑張りの持続が至難。
>ブッダ
>・コメント
>玄◯さんの運足は基本の前屈立ちの移動へのコダワリから出来たのだと私には思われますね。言ってみれば「文化大革命」みたいな感じで。
↑
「コダワリ」ですか?
そうですね!
後ろ足で地面を蹴っての突っ込み!から、
前足・前膝を前へ出そうと意識を先に抱いてからの後ろ足の意識。
そのコダワリは「可能な限り全身の同時的駆使」ですかね~
ある物は、使い惜しみなく、可能な限り全部を使う、というコダワリ。
前足と後ろ足の同時的な使用・駆使…
旧来の運足への「文化大」革命レベルの意識の付加・増加…ですかね…
>それが「基本の前屈立ち→自由組手のための前屈立ち」そして運足になった、あくまで私の仮説ですけどね。
↑
「新たな運足・足進法」の開発・創造以前から、基本の前屈立も運足もあったのでしょう。
ただ、新たな運足の創造法が開発された以後は、同じ基本の前屈立ちでも中身が変化した…とうい事でしょうかね。
>ああいう運足が生きる間合いというか距離って、凄く遠い長い距離だと思います。ですが、南郷先生が批判している他団体の自由組手を見ると間合いが非常に近いんです。いわゆる「誘導間合い」というやつで、誘導するわけでしょうね、相手の技だとか動きを。「先の先」だとか「後の先」で。
↑
多分…闘いでは、間合いの詰め方が重要なのでしょうね…
初めから無造作に近づいて闘う!よりも、意識的に少しずつ間合いを詰めて、結果的に闘いが始まる的~
遠間から、対手の全身を確り確認・見詰めつつ、間合いを詰める事。
勝負の上達論的な闘い方?なのかも…
>それはやっぱり剣道の歴史から来ているのではないかと想像されますね。いわゆる「返し」という小手だとか胴だとかにワザと隙をつくって切り返す高等技の。そのための主導権を握り相手を誘導するための間合いと運足の使い方という「技術」でしょう。柔道にも返し技というのはありますけどね。
>ですが、最近、南郷先生の「武道武術の諸問題」を読んだら示現流みたいな先手必勝で倒せばいいのだ、みたいな考えになったみたいですから剣道や柔道の歴史は関係ないのでしょうね。ま、あくまで私の個人的な意見ですが。
↑
「示現流の先手必勝」は、闘魂養成の為の鍛錬・手段だと、私は思いますよ。
>たまにはコメントに誰か投稿してくれたら嬉しいでしょう?投稿されるような自分になることですよ。
↑
「投稿されるような自分になる」事は難しいですね。
私は~
コメントが欲しくて記事を書いているのでなく、
書きたい事が、あるから記事を書いている~…
ただ言える事は、同じ内容の事を書いていても、
他人が読みやすく、理解しやすい書き方のほうが、コメントが来る可能性は高い。
しかし…元々国語・読書が大嫌いだった私には、そんな表現力・書き方が至難。
また、元々思い込みの激しかった私は、加齢とともに、その思い込みの増幅で…
独りよがり的・思い込み的な認識になり易くなっている。
当然に、その表現もそのように変化しているのだろう…
確かに読んで・コメント欲しい思いはあっても…
投稿されるような自分にはなり難いでしょう。
なので、私のできる事は~
ただ書きたい事を書きたいよう書き続ける事~
~まな~暇があったら、また、どうぞいらっしゃいな!
それが「基本の前屈立ち→自由組手のための前屈立ち」そして運足になった、あくまで私の仮説ですけどね。
ああいう運足が生きる間合いというか距離って、凄く遠い長い距離だと思います。ですが、南郷先生が批判している他団体の自由組手を見ると間合いが非常に近いんです。いわゆる「誘導間合い」というやつで、誘導するわけでしょうね、相手の技だとか動きを。「先の先」だとか「後の先」で。
それはやっぱり剣道の歴史から来ているのではないかと想像されますね。いわゆる「返し」という小手だとか胴だとかにワザと隙をつくって切り返す高等技の。そのための主導権を握り相手を誘導するための間合いと運足の使い方という「技術」でしょう。柔道にも返し技というのはありますけどね。
ですが、最近、南郷先生の「武道武術の諸問題」を読んだら示現流みたいな先手必勝で倒せばいいのだ、みたいな考えになったみたいですから剣道や柔道の歴史は関係ないのでしょうね。ま、あくまで私の個人的な意見ですが。
たまにはコメントに誰か投稿してくれたら嬉しいでしょう?投稿されるような自分になることですよ。