新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

自由についての気付き~

2019-11-07 12:59:43 | 悟りシリーズ

先ほど、ネットで「禅問答」サーフィンをしたら…

そこには、禅において、
仏性を悟る為の道として二通りある、書かれていた。

一つは、公案に書かれた禅問答を通しての自由自在獲得への道。
一つは、座禅を組み通す事での無我の境地獲得への道。

そんな事を読みつつ私はフッと気付いた。


今の私が自由に生きるとは?

それは、特別支援学級補助員として、自由に振舞える事。
それは、高3男子の息子の父親として、自由に振舞える事。
それは、一人男性社会人として、自由に振舞える事。


今の私が、時々勤務している学校で『不自由』を感じるのは…
補助員の私が、私自身に教員としての言動・行為を求めた時~
その瞬間に、私が教師ではなく、補助員だと痛感した時である。

犬は、犬の本能で犬として自由に生きられる。
しかし、
人が犬に猫を求めたら、その飼い犬には自由はなくなる、のだろう。
飼い主から、犬を求められた猫は、きっと不自由なのだろう。
もっとも、本能のままに振舞っている犬・猫が、不自由を感じる事はないが…


翻った我々人間にとっての自由とは?
人間とっての自由に生きるとは?


それは、時々の環境・状況・状態…に即して、
己の実体・身体と機能・認識の最大限のベスト状態の
創出・維持可能な言動・行為の選択なのだろう。


それは、社会的自由と個人的自由の統一、なのだろう。


授業中、
普通のクラスでは、殆どの児童は教師の言葉を聞き、
その行為を見詰め従っている。
しかし、
学級崩壊しているクラスの多くの児童は、自分勝手な事をしていて、
教師の言葉も行為も全く気にしていない。

その児童達の自分勝手とは、
その時々の自分の思った事・したい事をする、であり、
そこには、「自分勝手」という一貫性はあっても、
社会的・全体的な一貫性はない。


学校で求められるべきも、根本的か「勉強」とは~
それは、
個人的な自分の勝手な言動を、
社会的な自分の考えに即して、
自分で制御する事。


今の私が、不自由を痛感する事無く、自由に振舞えるには、
私の中の、教師的私を滅して、補助員的私を貫く事であろう。

言い換えるなら、
それは、私の児童達への想いの体現方法の変換である。

そう…既にあるモノを「滅する」の無理だろう。
だから、「滅する」ではなく「無視する」と言える。


教師的心を、教員的に体現する、のではなく、
教師的心を、補助員的に体現する。

それも、これも…

教師も補助員も社会的な職業だから、
なのだろう。

主観的には教師であっても、
社会的には補助員である…
今の私…

そこに、
非常なる不自由さを日々痛感している私でもある。











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2 コメント

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Unknown (游士)
2019-11-10 14:33:47
私も気づいたことをコメントさせて下さい。
いま「自由」という日本語は英語の「free」だとか「freedom」の訳語のような形で使われてるように思いますが、漢字の意味から推察すると「自由」というのは「自らをよりどころとする」意味ですから欧米と交流が始まった17~18世紀よりも昔からある「法句経(仏教)」の「己れこそ己れの寄るべ」という聖徳太子の頃からある釈尊の心構えではなかったかと思われるのです。
それで自由びとさんが言っている「思ったとおりにならない」というのは古来からある?日本語では「儘にならない」ということで、それは派生して「我が儘」という自分勝手だと判断される行いにも繋がりますから、日本の歴史を生きてきた日本文化を背負った日本人の頭に浮かぶ「自由」という概念は既に社会性を裡に含んだものだったのではなかろうか?とも思われるわけです。
返信する
自由と我儘 (自由びと)
2019-11-11 15:19:16



>漢字の意味から推察すると「自由」というのは「自らをよりどころとする」意味ですから…

そうなのかも…知れません。
私も特に異論はありません。


それでも以下の記述には異論があります。

>日本の歴史を生きてきた日本文化を背負った日本人の頭に浮かぶ「自由」という概念は既に社会性を裡に含んだものだったのではなかろうか?とも思われるわけです。

果たして…本当に「…日本人の頭に浮かぶ…」のでしょうか?
現代日本に、「…日本文化を背負った…」若者が何人存在するのでしょうか?


過去の文化と現代の文化…
過去からの言葉の意味理解が…、
現代では少しずつ、時に大きく異なってきていたりします。

なので、
「自由」を、
貴君の書かれた意味・概念と同様に理解しようとしている者は、
そう多くないと思いますが…



実際に、
「例解新国語辞典[第二版]にも、以下のように書かれています。

自由とは、
「ほかから制限されたりじゃまされたりしないで、自分の思いどおりにできること」

だから「不自由とは、思いどおりならない」となるのでしょう。

「自由」という漢字の意味・概念が、貴君の書いている上記の通りであっても…


現代日本社会では、「自由」の意味理解・概念規定は、辞書に書かれた通りなのでしょうね。


私の個人的理解としては、「自由」の問題点は、
如何にして、どのようにして、
「よりどころ」足り得る「自らを」の創造・創出ですかね。


自分の「思い通り」の中身に、
社会的妥当性がないなら、
その自由は我儘であり、
社会的な妥当性ある我儘は自由なのでしょう。

自由も我儘も、事実・現象ではなく、
その事実・現象と周囲・状況との関係性で決まるモノ…


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