人間は自由だ!
今回の弥勒コメントを読で、幻滅してしまいました…
元々、私に比べて知識も学識も豊富な筈の弥勒お宅なのに…
これまで自由についても、書きたい放題・言いたい放題・思考放題だったのに…
なのに…「自由の本質」にちっとも近付けていない今回の弥勒コメントには超の付く程の幻滅ですね…
具体的に指摘するなら~
例えば>「先に殴ったか否か」なんてことを保守的に言うこと自体に不可思議というか自己を他者との関係の中で正当化したい欲求が見えてはいます。<という文面ですが…
「先に殴ったか否か」が問題なのは…>保守的<という事ではなく、
その喧嘩・事件発生の「原因」の探求なのです。
そもそも…一般的に「ケンカ(は悪い事)を避けたい」理由は、その結果が悪い方向へ向かう事が多いから…
原因から喧嘩に発展して、双方or片方が不愉快・怪我…をするから…なのです。
だから…徹底的な喧嘩の結果、互いに理解し合い、
双方が有益に終了した喧嘩の原因の追究はないし、その原因が「悪い」と言えません(どころかかえって「良い」かも…)。
そもそも…「自己正当化」は、人間なら誰もがしているモノでしょう。
自由な人間なら、その自由な行為・行動を「正当だ!」と思っているから、するのでしょう。
誰が、自分で不当だと思っている行為・行動を堂々とするでしょうか…
確かに法律違反(法律的には不当)とは(頭・知識的に)思えても…
それでの実行するのは「感情的にやりたい事をやる」(正当)なのでしょうね…
殺人者だって、自己の殺人の正当性を主張するでしょう…
でも…その「加害者の正当性」は、「被害者からは不当性」という事なのです。
「自己の自由」と「他者の他由」が衝突する時、
互いの「不当性の理解・納得」の為に「人間の法律」が創られたのでしょう。
その人間的な「法・法律」以前には、自然法、暗黙の了解、掟、リンチ…だったのでしょう。
誰もが「自己正当化」の欲求の塊ですよ!
そもそも…弥勒お宅の上記のコメント文面も「正当化したい欲求が見えてはいます」ですね…
なので…
そんな自由な人間にとって当たり前・必然事を改めて書いている
弥勒お宅の言説には、狭く浅い自由底・概念が露出してしますね…
>私が何かを述べると無意味な自由びと氏の発言とは乖離して深い意味の言葉となりますから、屁理屈述べて2円だけ支払っている自由びとに数万円の言葉で表現された情報を与えるのは如何なものか?と思案していますね。<
↑
「深い意味」とは、そうですね~
「深くどす黒い悪意」は感じられても…「深く・広い自由意識は皆無」ですね。
ほ~ほ…自由びとは「2円」で、お宅は「数万円」ですか…
大自然のサバイバルの中で、「数万円の札束紙」と
「一円硬貨アルミニュウム金属」では、どちらに価値がありますか?
ここは、自由びとブログ…このコメント欄での私は数万円より、二円の方に価値を感じていますが…
「屁理屈」とは、常に「屁」ではなく、環境・状況の変化・運動中では、正当な理屈・論理・理論…となり得るモノ。
言い換えるなら~
如何なる環境の中でも、自己の屁理屈?!を正当な論理・理論として生かせるか否かは、その者の認識力次第なのですよ!
そうそう~
ここでの、弥勒お宅の使えない「数万円」の札束でも…筆記用具さえあれば、メモ用紙として活用可能ですが…
>2チャンネルの玄和スレッドが停止していても、玄和への批判的な考えはX(ツイッター)の投稿で理解できますね。やはり南郷先生が他流派他団体を批判しまくったことが受け入れ難い団体だとの認識を作っているように思います。
↑
「他人への批判」の何が悪いの?それも、その人間の自由です、
また「自己の他者の自由な批判結果から~他者から批判も他由なのです」
互いに、やり合いたいなら、やればいいだけですよ!
問題は、その「批判の内容」でしょうね…
その「自由」と「他由」の衝突の中で、第三者・世間が、どちらの正当性を認めるか、「世論」の問題でしょう。
または、社会に対する貢献度…ですかね…
玄和会には、多くの大学教授・教師・看護師・医者…がいて、社会的貢献度が高いでしょうが…
空手界では、受け入れがたい団体でも…
会員・個人は、各分野で受け入れられている…ようですね…
だから…他の空手団体の認識は、玄和会・組織・団体にとっては、問題外でしょう。
そうそう…過去に「極真会」は、他の空手・団体に受け入れてもらえず、
世界的規模で極真空手独自の団体を創り上げたモノですが…
玄和会は、空手組織の団体化を求めず、
一匹で闘う「ローンウルフ」的な組織化を求めたようですね…
>その「司法試験に落ち続けていて、収入のために空手の指導を選んだ」だけではなく、「嫁さんがお茶の水女子大を出て東大の大学院を出た」という学歴差に苦闘して「俺は凄いのだ!」と自流の支部のある大学生に自画自賛のメッセージを送っていた南郷先生が噴飯物ですよね。
↑
「司法試験…」が事実か否かは不明ですが…
空手を選んだのは、著書にも書かれているから、事実でしょうね…
「俺は凄いのだ!」とは、己の自由の表現です。
それは、事実的現実的な現在の己の姿に負けそう・ダメそうになり、
そこからの自己の脱却為の自己武勇!ですかね…
人間には、
「自分はダメだ!もう終わりだ…」と思い込む自由も、
「俺は出来る・やれば出来る・凄い奴!」と思い込む自由があります。
どちらの自由を選択するかは、当人の自由なのです。
「出来ない・ダメな現状」だからこそ「俺はやればできる!きっと出きる・だからヤレ!」が必要です。
本当に「真にできる人間には、自己賞賛」は不要ですね。
だって、大谷選手の如く、多くの他人からの賞賛・羨望…の眼差しがあり得るからです。
教師が、自分ダメ人間だと思い込んで、人間の自由な可能性を否定して…
未来ある子供達の教育が可能でしょうか?
そんなダメ人間的な態度・表情の教師から、立派な大人は、育つでしょうか…
もっとも…その教師が自己のダメさを自覚して、
ワザワザ児童の前で、その自己のダメさ批判を見せつけたなら…
その言動・行為から、子供達の自己ダメさ批判も可能でしょうが…
「墳飯物ですね」のお宅には、
未来ある「若者教育」への教育者の姿が分からないようですね…
>菅野幸子さんの護身科なんてものが成立する前は、そんな「お遊び」の稽古などなく「指導者が生徒を殴り付けるような稽古」だった、としたならば「殴ってしまった弊害」というのは団体の最高責任者である南郷先生が請け負うものでしょうね、当然に。
↑
え~!?
「指導者が生徒を殴り付けるような稽古」だった、としたならば「殴ってしまった弊害」…
↑
何を言っているの…
玄和会の稽古では、「生徒を殴る必要は皆無」です。
その声・顔付きで、「一発!カツ入れれば即・解決」ですよ。
児童・生徒・学生を「殴ってしまう・手を出してしまう」先生は、
未熟な者・自己に自信がない者、または自信がないのにあると思っている者…
私も…実際に私は、未熟な過去の自分の姿を、最近痛感しています。
その痛感の理由は、
今の私が過去に比べて、教師として大きく成長できた!からでしょうね…
それは、特別支援学級(知的・自閉的障害児・知的でない情緒障害児)の補助員・通常級の補助員の体験・経験…の結果~
特に、ここ四年間の毎年の新・一年生の補助の連続体験から強烈な認識の変化を実感しています。
組織の「最高責任者」が体罰否定であれば…
その体罰の結果は、その体罰指導して、被指導者・保護者から賛同・同意を得られなかった指導者当人の問題です。
その責任の取り方は、何としても、自己の熱意・思い(自由)を、被害者・保護者の納得・了承を得る事・熱意・思いの深さ…ですなね。
「人生意気に感じる」ですよ!
手を出してしまった程の指導者の「意気・熱意」を実感してもらう事ですね…
>宗教的に倒錯しているお宅=お前には理解できないかも知れませんけどね。
↑
弥勒お宅に「宗教の何か」分かるのでしょうね…
現代で「オーム真理教」が、カルト・宗教の代表のようで…
宗教=悪しきモノ・団体…と思われていますが…
人類の歴史を振り返るなら、キリスト教の教会は、当時は「学校・教育機関」
日本の御寺は、寺小屋・教育機関…
そもそも…当初の人類は、神を人類・人生の拠り所にしていたでしょう…
また、現代の武道会でも「養神館」と…自己の中に「神」を養成するモノもあります。
まあ~この弥勒お宅の言う「宗教的倒錯」とは、
宗教レベルの信心を「玄和空手」に抱いている…という意味でしょうが…
ただ…それでも言える事は、
人間同士の信頼関係とは? 他人の言葉を信じとは?
その人間同士の信頼感のレベルが「宗教レベル」だと、何か問題があるのではしょうか?
それは、裏切られた時のショック・打撃・被害の甚大さ…でしょうかね…
私が「玄和会を宗教レベルで信心しているか否かは不明」ですが…
南郷氏曰く「私の言葉は論理であり事実ではない」から分かるように…
「信頼・信心は論理レベル」であり、実践するのは「自己の自由」…
それは、その論理の自己の現実への適用は、自由であり、適用した者の自己責任…という事なのです。
南郷氏の言葉を信じて実践して不成功なら、
それは自己の事実的選択・決定のミス!という事でしょうね…
南郷氏が成果を出した論理・理論で、自分が出せないのは、自由の問題です。
最後に、「本能依存の動物(ペット家畜以外)には自由は皆無。
しかし、現在人類・人間は、完全に自由です。
その自由の「結果の思い通りの成功・自由」も自由なら、
その自由の「結果の不成功の失敗・不自由」も自由です。
ここでの弥勒お宅のコメントの文面・感情・認識も、弥勒お宅の自由なのです。
この内容が、不快感でも、快感でも、…全ては、弥勒お宅の自由・自己責任なのです。
他人の言動を「愉快と思うのも自由」・「不愉快だと思うのも自由」
「他人の言動」とは、その言葉・行動の「他由」であり、
その「他由」に対する「不快・快感」は、俺の「自由」意志なのです。
特に、視覚以外の他の四感への直接的な刺激が不可能なこのブログでは…
視界的不快(画面の光の強烈性)だけですね。
後は、読み手の認識・理解・想像力次第ですかね…
だから…このコメント欄への「私的な言説への批判・否定・異論・暴論」…全ては、お宅の「自由」です。
それに対しての、自由びとの反論・異論・暴論・反撃論…へのお宅の感じ方・捉え方もお宅の「自由」です。
お宅が、そして私が愉快・不愉快になるのは、
お宅の「他由」であり、また私の「自由」なのですよ!
ここが、そんな所だから、
ここは、「自由びとブログ」なのですよ。
弥勒
間違いなく私のお宅への信頼感はゼロですよ。薄っぺらい言葉の羅列、それが自由びとお宅の本質、真実なのですよ。
「文は人なり」とは正に金言で、言葉が不自由で本当は立派な自由びとお宅を表現できていない、と自由びとお宅は思っているようですが、実際は書かれた中身のない空虚な言葉そのものが自由びとお宅という人間なのだということです。
「幻滅」とは良かったですね、お宅の頭の中に渦巻いている考えは文字通り「幻想」だからです。お宅の書いている「全てが幻想で妄想でデタラメの嘘つき」だという事実から信頼関係を作れないという本質を等閑視して「ここは自由びとのブログ」だという「ブログ開設したのは自由びとお宅」だということが「全ての権限は自由びとにあり投稿された文章も相手の許可なく手を入れて書き換える」という倒錯したことを行える人間がお宅だということですよ。
作りごとの規範を強要するよりも相手と信頼関係を作れない自分の能力を悲しみなさいな。