「禅」というモノについて考えて思った事は、
「禅」的な生き方とは?
物事に囚われない自由な心であろう。
「物事」とは?
「モノ」と「コト」である。
「囚われない」とは?
「囚われる」とは?
眼前の世界・現実にはモノもコトもない。
あるのは目の前の事実だけである。
その事実をモノやコトとするのは自分のアタマとココロである。
「囚われる」とは、眼前の事実に対して「ココロやアタマ」が囚われている事。
これは眼前の現実・事実を全体・世界の変化・運動の一部である事を認識できていないアタマとココロ。
前回の「野鴨」について~
「鴨が飛んでいった」とは、
眼前の鴨が水面・地面から羽ばたいて、
私(達)から見えなくなっていった、という事実であろう。
それに対して「さっきの鴨」または「あの鴨」と問うなら、
過去の記憶を呼び戻して「分からない」であろうが…
それを「どこへ飛んでいったのか」と問われ、
その即答ならば「え?何が?」となろう。
悩み・苦しみ・悲しみ…は、
ココロ・感情として人の中にはあるモノではあるが…
それは、事実の全体像を、そのようなに感じ取ったモノである。
でも…全体像ではなく、一つ一つ分解して部分・部分で捉えたなら、
そこには、喜怒哀楽…様々な感情変化が起こり得るだろう。
「禅」とは…
人が今この瞬間に対応して生きているなら、
そこにある感情は「快・不快」であり、
後悔、悲しみ、喜び、怒り、楽しみ…は、ないのだろう。
人間の感情は過去の体験・過去との比較なら生じるモノなのだろう。
人間が他の動物と同様に過去との比較なく、今だけを生きているなら、
そこにあるのは、今を生きている快感なのだろう。
「禅」の求とめているモノは、
今この瞬間を生きている!という快感である。
いうなれば、それは動物的な生き方であるが…
そうは言っても…
頑張っても踏ん張っても「禅」的には生きられないのが人間であろう。
人が「『禅』的に生きよう」と思った瞬間に、
それは「禅」というモノに囚われてしまい、
既にもう「『禅』的に生きて」はいかい事なのだから…
これは、言うなれば…
現代人にとっては「禅」を理解できたとしても、
その「禅」の生き方を実行するのは至難である、という事であろう。
「禅的な生き方」とは目的意識を持って目指すモノではなく、
人が今を生きている中で自然成長的に修得していくモノだから…
ならば、どうするか?
それは、常に囚われているだろう自己のアタマとココロの自覚・認識であろう。
「囚われていない」と思っていても「囚われている」という危機感認識・自覚。
「囚われている」と思っていても「囚われていない」という安心感認識・自覚。
別言するなら、
「囚われている」全体像なら「囚われていない」部分像の想起。
「囚われていない」全体像なら「囚われている」部分像の想起。
「囚われている」部分像なら「囚われていない」全体像の想起。
「囚われていない」部分像なら「囚われている」全体像の想起。
もっとも…
思っていて、その通りにできるのも人間なら
思っていても、その通りにはでき難い難いのも、
また人間なのだが…