弁証法とは!?
弁証法とは、弁証法性を法則化したモノ。
弁証法性とは、モノ自体の持っている変化・運動性。
物・物体の変化・運動性は、モノ自体の弁証法性が変化・運動した結果。
生物の変化・運動性は、物・物体の変化・運動性の本質である弁証法性の変化・運動…
全ての物・物質・物体・生命体・生物…の変化・運動性は、
モノ自体の弁証法性の変化・運動形態…と考えられる。
弁証法とは、弁証法性の法則化とは、
モノ自体の弁証法性が、物・物質・物体・生命体・生物…の変化・運動性へと変化・運動する過程の明確化・法則化…と考えられる。
このように考えられるなら、
何故に師範が、「いのちの歴史の物語が自然の弁証法」と言った訳が分かり得る。
モノ自体を実体とするなら、物質・物体・生命体・生物の性質・本質・性質は、実体の変化である実態と言えよう。
モノ自体の弁証法性は見えずとも…物・物質・物体・生命体・生物…
それぞれの性質の変化・運動性の事実から論理的に弁証法性を知り得るのだろう…
モノ自体の弁証法性の変化・運動⇒
モノ自体⇒物の誕生⇒生命現象⇒生命体⇒生物までの変化・運動の法則化が可能なのだろう…
それが「弁証法」となり得よう。
弁証法性の二重性、
モノ自体の性質が実体の本質なら弁証法性の静止体。
他の性質は、弁証法性の運動体。
弁証法性の静止体の姿は見えずとも、運動体の姿は見る事が可能である。
運動体から静止体の弁証法性を見て取るのも弁証法なら
運動体のそれぞれの運動体の変化・運動の法則化も弁証法。
物体の状態変化も変化なら、物質の化学変化も変化。
状態変化から化学変化への変化も変化。
弁証法とは、弁証法性を法則化したモノ。
弁証法性とは、モノ自体の持っている変化・運動性。
物・物体の変化・運動性は、モノ自体の弁証法性が変化・運動した結果。
生物の変化・運動性は、物・物体の変化・運動性の本質である弁証法性の変化・運動…
全ての物・物質・物体・生命体・生物…の変化・運動性は、
モノ自体の弁証法性の変化・運動形態…と考えられる。
弁証法とは、弁証法性の法則化とは、
モノ自体の弁証法性が、物・物質・物体・生命体・生物…の変化・運動性へと変化・運動する過程の明確化・法則化…と考えられる。
このように考えられるなら、
何故に師範が、「いのちの歴史の物語が自然の弁証法」と言った訳が分かり得る。
モノ自体を実体とするなら、物質・物体・生命体・生物の性質・本質・性質は、実体の変化である実態と言えよう。
モノ自体の弁証法性は見えずとも…物・物質・物体・生命体・生物…
それぞれの性質の変化・運動性の事実から論理的に弁証法性を知り得るのだろう…
モノ自体の弁証法性の変化・運動⇒
モノ自体⇒物の誕生⇒生命現象⇒生命体⇒生物までの変化・運動の法則化が可能なのだろう…
それが「弁証法」となり得よう。
弁証法性の二重性、
モノ自体の性質が実体の本質なら弁証法性の静止体。
他の性質は、弁証法性の運動体。
弁証法性の静止体の姿は見えずとも、運動体の姿は見る事が可能である。
運動体から静止体の弁証法性を見て取るのも弁証法なら
運動体のそれぞれの運動体の変化・運動の法則化も弁証法。
物体の状態変化も変化なら、物質の化学変化も変化。
状態変化から化学変化への変化も変化。
昨日、仕事から帰宅したら郵便ポストに届いていたので、今朝少し読んでいました。
それで、最初の感想は自由びとさんが言ったような「以前よりも格段に進化して昔の著述からは想像できないところまで来ている」なんてのとは真逆に「全く変わっていない」ということですね(笑)。
しかも看護職の神庭さんに南郷さんが乗り移ったかの大言壮語で(笑)、現代の看護大学の教育者たちは全くダメで、それは弁証法・認識論・論理学を学んでいないからだ、と(笑)。
師に殉じるのは弟子として美しい姿なんですかね?まあ、これから読み進めていきますけどね。
南郷さんが「弁証法の教科書は三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』だ」と説いているわけですから、玄◯会で30年以上修業したというのが本当ならば「対立と敵対の区別」というのは基本中の基本です。「反対意見を述べるな!」などという考えは現実の組織・企業でも発展性を損なう駄論でしかありません。
ですが、私は自由びとの「理性の狡知」というか「概念の詭計」というか、私が紹介した早稲田大学の「動眼動体視力」の問題を「動体視力の概念」から「意志のMacht」という動体と静体の区別が無くなったところ(自由びとの中の南郷本の記憶)に持っていった「自由びと的な概念体系?」が参考にはなりましたね。
動体視力を学的な概念として眺めたならば「動体・視力」で「対象(客体)・主体」の両者の関係によって構成されている概念です。それを自由びとは「動体視力」と「静体視力」という言葉の違いは「動体」と「静体」だから違うのは対象であり、主体の視力は同じ「視力」という言葉が使われているから同じなのだと言葉的(記号的)に頭の中で処理しています。
弁証法は対立物の統一である。このように述べたのはレーニンだ。レーニンは『哲学ノート』に「ヘーゲルの『(大)論理学』全体を良く研究し理解しないではマルクスの『資本論』を理解できない」というようなことを書き残した。
つまりヘーゲルの「論理学」の中に「対立物の統一としての弁証法」が読み取れるということだ。
そしてヘーゲルの『エンチクロペディー』の「(小)論理学」が「自然哲学」と「精神哲学」とを架橋する形而上学であることが、「自然と精神」という「定量的に扱える対象」と「定性的にしか扱えない対象」とを「量質転化」という考えで繋げている。
ヘーゲルは度量衡の研究などもしていたから現代の自然科学に繋がるものも見ながら、宗教などの心の世界という数量的には扱えないものも見ていた。
統計学的推論というのが定量的な
私は間違いなく未成年の頃に夢見たことの一端を実現できる手応えを感じている。
未成年の頃の私はエンジニアになるべく自然科学と技術の教育指導を受けていたが、そうした自然科学ないしは物理学的な「性質」、英語でいうならばnatureやpropatyでは無いのだね、量質転化の「質」というのは。
ヘーゲルが量質転化として弁証法的に対立物の統一として考えた「質」とは、現代では定性的研究ないしは質的研究と呼ばれている人間の心情に絡む、英語でいったらqualitativなのだ、量質転化の「質」とは。
三浦つとむが『弁証法はどういう科学か』で量質転化をあのように説明したのは「唯物論」というマルクス主義者としての拘束を受けていたからなのだ。
私は間違いなく南郷も滝村も、もちろん三浦つとむをも超えて独自の見解を執筆できる実力を貯えつつある。
確かに南郷さんの『武道講義』第一巻では「弁証法は対立物の統一」だと書かれている。だか、それは『月刊空手道』で連載されていた1986〜1987年当時の執筆で、三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』の記載を受け継いでいる時期での発言だ。
だが、おそらく今は『武道と弁証法の理論』に掲載された「合格点を取った神庭純子の弁証法の像」とやらが「南郷学派における弁証法」なのだと想像できる。
その神庭さんの「弁証法の像」とは薄井看護論における人間の頭に認識たる吹き出しがついて、それが『科学的看護論』の「出生から死亡までの生命力」の図に合成され、さらに南郷学派の浅野昌充さんの「人間以外の生物研究」がマルクス主義の唯物論的な歴史観に重ねられ(二重化され)、いわゆる南郷学派的な意味での「生成、生々、衰退、消滅」という形になった。
その図式が「情像」たる感情を纏っている意味は、師である南郷さんの奥方であった薄井坦子さんを深く尊敬し愛していたという所にある。
私は「対立物(自然(物質)と精神)の量質転化」こそが弁証法の究極の法則?だと今、感じている。
>・コメントが届いた記事
>弁証法とは!?
・コメントが届いた記事のURL
>
>https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/cf79895f9675a382cf4bed932951485a
>・コメントを書いた人
>雲海
>・コメント
>自由びとさんの書いていることは相変わらず私にはサッパリ分かりませんけど、自由びとさんの勧めに従って?神庭さんの『現代看護教育に求められるもの』を買ったんですね。
↑
「サッパリ分かりません…」の理由は?
私の表現・言葉が悪いのか?
お宅の理解力かが悪いのか?
それとも、互いに同じ景色を眺めているのに…
心の中では異なって見えているのかも?!
>昨日、仕事から帰宅したら郵便ポストに届いていたので、今朝少し読んでいました。
>それで、最初の感想は自由びとさんが言ったような「以前よりも格段に進化して昔の著述からは想像できないところまで来ている」なんてのとは真逆に「全く変わっていない」ということですね(笑)。
↑
自由びとには~
>「以前よりも格段に進化して昔の著述からは想像できないところまで来ている」<
↑~なんて書いて記憶はありませんよ!
たぶん…神庭さんは、以前と同じ事を書いているのでしょう…
なのに…私がその書かれた同じ事をより広く・深く理解できるように変化した…という事なのかも?
それとも…お宅が、神庭さんの記述内容・言葉の変化を読み止めず・感じ取れない…のかも?
「物事」は、初めにアバウトに「知る」。
次に、その知識を元に、更にその「物事」と広く・深く関わる事で、
知るから識るへ…
更に、識ったモノを元に関わり続ける事で「悟る」へ変化・運動するのでしょう。
知る→識る→悟るへの運動道ですかね。
「知らない」から「悟る」への構造。
「無知」⇒「無知の無知」⇒「有知・智慧」への変化・運動。
>しかも看護職の神庭さんに南郷さんが乗り移ったかの大言壮語で(笑)、現代の看護大学の教育者たちは全くダメで、それは弁証法・認識論・論理学を学んでいないからだ、と(笑)。
↑
「ダメ」とは?
「適切な方法論」と未熟な方法論」を比較した時、「未熟…」は「ダメ」と言う事はなのでしょう…
また、「未熟な方法論」と「不適切な方法論」を比較するなら、「不適切…」はダメ。
問題は「ダメ」に拘っている、その認識です。
確かに、経験豊富な者達から、弁証法・認識論…を知らずとも、適切な対処・方法を持っている事でしょう。
問題は、その経験的対処・方法を経験不足の者達に適切に伝えられるか、どうかです。
もっとも…これは経験的実践の問題ではなく、教育的な実践学習の問題です…
>師に殉じるのは弟子として美しい姿なんですかね?まあ、これから読み進めていきますけどね。
↑
神庭さんには、師範と同じ弁証法の世界景色がみえている!事でしょうね。
お宅には、全く無縁な「景色」てしょうが…
>・コメントが届いた記事
>弁証法とは!?
>・コメントが届いた記事のURL
>https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/cf79895f9675a382cf4bed932951485a
>・コメントを書いた人
>雲海
>・コメント
>自由びとさん(社会的な慣習で「さん」をつけていますが、最近は「さん付け」で呼ぶ価値も無いなと痛感していますが)が私の動体視力に関するコメントを「ボールが止まって見えた」という個人の主観をどう考えるかで悩んでいた自分(自由びと)に「動体視力」というポイントに焦点を絞らせてくれたと感謝するでもなく、私(雲海)への悪意に満ちた「動体視力の概念」を投げつけてきたのは今までに育んできた人間性の薄っぺらさでしょう。
↑
なんと自分勝手な立場からの自己主張・言い分!
「さん」付けは一般常識です。
しかも…他人の個人ブロぐへのコメント記述なら当然の礼儀作法なのに…
そもそも…この記事の前提条件が、誰もが「飛んでいるボールが見える訳ありません」なのです。
視ようと必死に訓練・鍛錬するから、「止まって見える」ようになり得る。
そのような事実が、この記事の前提です。
そんな簡単な事も分からないで「…個人の主観…」とはなんとピント外れな認識でしょう。
そんなピント外れに「…感謝…」とは、自信過剰じゃない⁉
更に、そんな雲海自身を顧みずに自由びとを「…人間性の薄っぺらさ…」とは、実に愉快な漫才である。
>南郷さんが「弁証法の教科書は三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』だ」と説いているわけですから、玄◯会で30年以上修業したというのが本当ならば「対立と敵対の区別」というのは基本中の基本です。「反対意見を述べるな!」などという考えは現実の組織・企業でも発展性を損なう駄論でしかありません。
↑
「対立と敵対」は、論理レベル異なった言語です。
対立の現象形態が、「敵対的対立」と「友好的な対立」に分れるのでしょうね♪
もっとも…
敵対関係・敵対的な対立関係にあっても、一時的な「友好的対立」もありえますね。
似たモノに、敵対的矛盾と非敵対的矛盾がありますが…
>ですが、私は自由びとの「理性の狡知」というか「概念の詭計」というか、私が紹介した早稲田大学の「動眼動体視力」の問題を「動体視力の概念」から「意志のMacht」という動体と静体の区別が無くなったところ(自由びとの中の南郷本の記憶)に持っていった「自由びと的な概念体系?」が参考にはなりましたね。
↑
人間は見ようとしないと、見えてこないモノですが…
間の前に、先生が来ても、夢中で友達と無駄話している児童には、先生が見えません。
>動体視力を学的な概念として眺めたならば「動体・視力」で「対象(客体)・主体」の両者の関係によって構成されている概念です。それを自由びとは「動体視力」と「静体視力」という言葉の違いは「動体」と「静体」だから違うのは対象であり、主体の視力は同じ「視力」という言葉が使われているから同じなのだと言葉的(記号的)に頭の中で処理しています。
↑
視力は、見ようとしている側の視力です。
動いているモノを見るか、静止しているモノを見るか?
自分が止まっていて、動いている対象を見る場合…。
自分が動いていて、静止している対象を見る場合…。
どつちも「動体視力」と考えるのでは?
因みに、
自分が静止した状態で静止物を見るのが「静止視力」なら、
自分と見る対象が、同じ速度の等速移動をしている時にも「静止視力」となり得ます。
>・コメントが届いた記事
>弁証法とは!?
>・コメントが届いた記事のURL
>https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/cf79895f9675a382cf4bed932951485a
>・コメントを書いた人
>雲海
>・コメント
>いま本格的に弁証法の中に入っていけてる感覚がある。
↑
私のは、対象の変化・運動と一体的に変化・運動している感覚です。
児童の暴言を、笑って説き伏せられるモノです。
例えば、数日前に、二年生の男子児童Aが、
算数の「線で結ぶ」問題の「線」を直線ではなく、
クニャクニャの曲線で繋いでいました。
そこで、
私―「え?直線で繋いでないの?!」
A―「今どきの子供は、こうなの…」
私―周囲を見直して「え!曲線は君だけだよ!定規わ使っていない子もいるけど…君以外はみんな直線だよ!」
A―「そうなの?」と慌てて書き直していた。
この場合は、
他の児童(周囲・環境)と児童(対象)の関係性からの指導でした。
生意気・反抗的な児童に対して、以前ならその言動・態度を直接指摘・叱る事が多かった私でしたが…
最近は、直接的な私への問題の指摘ではなく、周囲・環境との不具合に対する指摘になっているようです。
>私は間違いなく未成年の頃に夢見たことの一端を実現できる手応えを感じている。
↑
まあ~そう思えるなら、「し・あ・わ・せ」者ですね。
>未成年の頃の私はエンジニアになるべく自然科学と技術の教育指導を受けていたが、そうした自然科学ないしは物理学的な「性質」、英語でいうならばnatureやpropatyでは無いのだね、量質転化の「質」というのは。
>ヘーゲルが量質転化として弁証法的に対立物の統一として考えた「質」とは、現代では定性的研究ないしは質的研究と呼ばれている人間の心情に絡む、英語でいったらqualitativなのだ、量質転化の「質」とは。
>三浦つとむが『弁証法はどういう科学か』で量質転化をあのように説明したのは「唯物論」というマルクス主義者としての拘束を受けていたからなのだ。
>私は間違いなく南郷も滝村も、もちろん三浦つとむをも超えて独自の見解を執筆できる実力を貯えつつある。
↑
パチ!パチ!パチ!
その自己満足・自信過剰は、私には、羨ましいモノですね♪♪♪
残念な事に、私の弁証法概念は、雲海お宅と大きく異なっているので…
お宅のような自己満足・自信過剰は、得られていませんね…
>・コメントが届いた記事
>弁証法とは!?
>・コメントが届いた記事のURL
>https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/cf79895f9675a382cf4bed932951485a
>・コメントを書いた人
>雲海
>・コメント
>自由びとの発言や『城学』の執筆を見ると、おそらく現在の南郷学派では弁証法は対立物の統一では無くなっているのだろう。
↑
「対立物の統一」とは、矛盾の解決であり、弁証法の構造なのです。
それが、「無くなる筈」はありません。
ただ…文字として書く必要がない程に、当然のモノになり得た(量質転化化した)のでしょうね。
>確かに南郷さんの『武道講義』第一巻では「弁証法は対立物の統一」だと書かれている。だか、それは『月刊空手道』で連載されていた1986~1987年当時の執筆で、三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』の記載を受け継いでいる時期での発言だ。
↑
当時の多くの読者の認識・実力に合わせた「弁証法解説」だったのでしょうね。
>だが、おそらく今は『武道と弁証法の理論』に掲載された「合格点を取った神庭純子の弁証法の像」とやらが「南郷学派における弁証法」なのだと想像できる。
>その神庭さんの「弁証法の像」とは薄井看護論における人間の頭に認識たる吹き出しがついて、それが『科学的看護論』の「出生から死亡までの生命力」の図に合成され、さらに南郷学派の浅野昌充さんの「人間以外の生物研究」がマルクス主義の唯物論的な歴史観に重ねられ(二重化され)、いわゆる南郷学派的な意味での「生成、生々、衰退、消滅」という形になった。
>その図式が「情像」たる感情を纏っている意味は、師である南郷さんの奥方であった薄井坦子さんを深く尊敬し愛していたという所にある。
↑
弁証法性が、モノ自体の「変化・運動性」です。
その運動性が、より具体的に「生々・生成・発展・衰退・消滅…」となり、
この変化・運動の全体構造が「否定の否定」てあり、
その過程に、対立物の相互浸透、量質転化・質量転化…を見て取れるのです。
上記の雲海お宅コメントのどこに、弁証法があるのか?
おっと失礼!
雲海お宅は、
>「いま本格的に弁証法の中に入っていけてる…」ので自分の外の現実は全て主観的・自分的なのですね。
私的には、「自然や社会や精神…の他人、私の外、私自身の中に感じていますが…。