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>雲海
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>指導料なり原稿料なりを貰ってもいいくらいのことを自由びとさんに教えてあげてしまってますね。
↑
「指導料を貰ってもいいくらい…」なのは、自由びとの方でしょうが…
>親切ついでに「そのものに成り切る」ということを具体的に言えば南郷さんの『武道への道』の永平寺の僧侶ですよ。
>修行者に成り切れなくてテレビの出演者としての自分を意識してしまうからダメだと南郷さんが指摘していた「あれ」ですよ。
↑
それ正確には、「修行者に成り切れる実力がない」からダメなのです。
修行当初は、
誰もが修行者になり切れるモノではありません。
誰もが自分的な意識での修行です。
それなのに…当人は…
これが行者意識だと思い込んでいるのです。
また、当初は、実体・身体的な言動・行動・行為…が修行だと思い込んでいるのです。
でも、本来は、それらの言動・行動・行為を通して、認識・精神の養成が修行なのです。
端的には、「成り切る・成り切れない」ではなく、真の「修行」というモノを認識していない…のです。
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>雲海
>・コメント
>発言が少し挑発気味になってきたことを反省し以後は自戒したいと思います。
↑
雲海お宅の「反省・自戒」は全く意味がありません。
何故なら、雲海お宅の自由びと言説の理解・解釈…が、全く自由びと的でなく、首尾一貫して「雲海お宅」的だからです
そもそも…
言葉の概念(構造・哲学・弁証法・認識…)の中身が、自由びとと違っているのに…
正しく自由びと認識を理解できる訳がないしょ!
>自由びとさんも余り棘のある言葉はしないようにしていただけたなら有り難いです。
↑
自由びとは、相手の言葉・語彙・認識…に即してコメントを書いています。
>私は自由びとさんの「構造」という言葉の意味合いを探るべく自由びとさんが信奉している南郷学派の文章に思いを馳せたんです。
>例えば瀬江千史さんの「常態論、病態論、治療論」という医学の三構造です。これを「構造」というわけは三角形を三つに区切ってそれぞれの部屋に常態、病態、治療を配置させるからで、建築物の構造と同様に「空間の配置」なんですね。
>ですから、三角形の下側に常態があって左側に病態があり右側に治療があるとしたならば(そういう建物の構造・構成だとしたならば)患者さんの診察をして熱や脈拍が正常だとかの「事実」があったなら、それは三角形の下側に配置されるとか、MRIで撮影したら脳に腫瘍が見つかったとかの「事実」があったなら、それは三角形の左側に配置されるとか、治療のために放射線を当てたなら、それは三角形の右側に配置されるとかの「足幅の広い騎馬立ちは部屋の何処に置いたら良いか?」という「ソファはリビングへ、薔薇の花は応接間へ」みたいな部屋の整理みたいな話しなんだろうと思うんです。
>これは唯物論的弁証法のマルクスだとかが「上部構造と下部構造(土台)」みたいな建築物のことを言って、「そのアダムスミスの話しは経済だから1階ね、そのビスマルクの話しは政治だから2階ね」みたいに整理して、重力の関係で2階は1階が無ければ成立しませんから、その建築物の1階と2階との関係で政治と経済との関係を語った、みたいな。
>だから自由びとさんの言う「構造」というのは、「その事実(ソファ)は家のどの部屋に置きますか?」とか「どういう引き出しに整理しますか?」みたいな外枠の話しなんだろうと思うんです。
↑
全体と部分の関係ですね。
家を全体とするなら、
外から見た家の構造⇒屋根、壁、窓、扉…
中を見た時の構造⇒部屋の種類と配置…
各部屋のそれぞれの構造…
引き出しが全体なら、引き出しをどのように区切ってモノを入れるか…
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>雲海
>・コメント
>私は自由びとさんの見解を否定する気はありませんけど事実を集めて整理したところに自由びとさんの言う「(建物、外枠、学的体系?の)構造」と言うのが成立するのだとは考えています。
>それで、「ボールが止まって見えた」という話しに関わるんですが、早稲田大学の動体視力の研究で面白い話しがありました。それは動体視力の優れているアスリートと優れていない一般人の動体視力を調査したならば、目玉を動かさないで動くものを認知する能力はアスリートも一般人も大差ないということです。ですから、動くものを見慣れていて動体視力の優れたアスリートの高い能力は「対象を追って目玉を動かす能力」だということなんです。
↑
「対象を追って目玉を動かす能力」…知識・結果…重視のお宅的認識・理解ですね。
それは「目玉を動かす能力」ではなく、変化・運動し続けるモノ・ゴトを見よう・捉えよう・認識しよう…続けた結果が「目玉が対象に即して変化・運動」するようになれるのです。
>川上哲治が「ボールが止まって見えた」のは、ボールを目で追いかける能力に優れていた可能性がありますね。
↑
能力は結果です。
その能力の養成・形成は、ボールを全身で見よう・打とうとする努力の成果です。
ボールを見て打とうと努力・練習しない限り、
目で追いかけるだけから、仮に見えるようになれても、
そのボールを打てるようにはなれせん。
>座ってばかりいて体を動かさない人が運動能力が低いのと同様に、座って本ばかり読んでるような人は目玉を動かしていないが故に動体視力が低いのでしょう。
↑
え?
>「座って本ばかり読んでるような人は目玉を動かしていない」
↑
読書でも、目玉は、上から下・下から上、右から左・左から右…と必死に動かしています。
何しろ、速読法は、目玉の動きの速さが不可欠だそうです。
[動体視力」とは、変化・運動しているモノ・コトを的確に捉える視力です。
もともと変化・運動しない文面・記述…という静止文字を追いかけても、
目玉の運動にはなり得ても、動体視力の養成・鍛錬…にはなり得ない…と言う事です。
雲海お宅と自由びとの対象認識の違いは、上記の記述から明らかですね。
そもそも「弁証法」とは、
対象の弁証法性の法則化です。
それは、対象の変化・運動の法則化です。
現実の対象の「法則化とは、当人にとっての法則化」です。
当人が容易に自然に無意志に従える法則化です。
弁証法を空手・真剣勝負・決闘…でその対手技の変化・運動を法則化ができたなら、
その対手の技の変化・運動に即して、自己の身体を自己の勝負の目的に即して動かせる・闘えるのです。
全部読むだけの価値あることを全く書いてない(苦笑)。
一つだけ最初のとこだけ指摘すると永平寺でNHKの番組のためにカメラの撮影で寺の中に入ることを許可したのは修行者ではない。もう修行を完遂して偉い肩書きをつけている大僧侶のはずだよ。
寺院も他の団体と同様にトップの偉い人から末端の下っ端の格が違う人間で構成された集団だからね。
だから禅の修行をする寺にテレビカメラの撮影が入ることは、玄◯会でいったら最高責任者の南郷さんが許可したのと一緒。修行者にとって一番よい環境を判断するのは下っ端の僧侶本人でなく責任者だから。
それをお宅は下っ端僧侶の実力がないからなどと話しを勘違いしている。何故お宅の発言がそうなるのかと言ったら南郷さんの著書の「つくる、つかう」という辺りに結びつけようという単層的で単細胞な頭の働きから。
まだ修行中の僧侶に実力がないのは当たり前、だから修行するのだから。問題は、それを預かる上の責任者の判断。
しかし馬鹿だね、お宅は。
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>・コメントを書いた人
>雲海
>・コメント
>しかし馬鹿だし阿呆だね。
↑
「真のバカ者」から見れば、
賢い人間が、バカに見えるモノなのでしょうね。
>全部読むだけの価値あることを全く書いてない(苦笑)。
↑
ゴミの中から一億円を発見したホームレスがいましたね…
彼は、ゴミをゴミと思わず、探し続けたから「一億円」の発見があった事実。
また、カビを馬鹿にしないで研究し続けたから「ペニシリン」の発見があった事実。
お宅って、あらゆるモノから価値を見いだす術を知らない、ようですね。
最後まで、とことん読みもせずに「価値あることを全くかいていない」とは…
価値ある事はあるのではなく、見い出すモノなのでしょうね…
そもそも…どんなに「価値あること」が書かれていても…
文字で書かれた価値に過ぎません。
真の価値は、その事を自分モノにした時に、生じるモノなのでしょうね。
>一つだけ最初のとこだけ指摘すると永平寺でNHKの番組のためにカメラの撮影で寺の中に入ることを許可したのは修行者ではない。もう修行を完遂して偉い肩書きをつけている大僧侶のはずだよ。
↑
「修行を完遂…」は無い筈ですよ。
人間、死ぬまで修行。生きている限り修行に終わりはない…と誰か有名な僧侶・人が書いていましたね。
そのお偉ら方は、僧侶の修行はしても、指導者としての修行をしていなかった…のでしようね。
>寺院も他の団体と同様にトップの偉い人から末端の下っ端の格が違う人間で構成された集団だからね。
>だから禅の修行をする寺にテレビカメラの撮影が入ることは、玄◯会でいったら最高責任者の南郷さんが許可したのと一緒。修行者にとって一番よい環境を判断するのは下っ端の僧侶本人でなく責任者だから。
↑
指導者の修行をしていない、ただの僧侶に正しい判断ができるとは思えませんね。
同じ「最高責任者」でも…修行の中身・結果・判断力が大きく違っているのでしょうね。
>それをお宅は下っ端僧侶の実力がないからなどと話しを勘違いしている。何故お宅の発言がそうなるのかと言ったら南郷さんの著書の「つくる、つかう」という辺りに結びつけようという単層的で単細胞な頭の働きから。
↑え?
私が、何時?どこに?「下っ端僧侶の実力がないから…」と書きました?
確りと、私の記述を最後まで読まないから、そんな虚言・誤解を書けるのですね。
>まだ修行中の僧侶に実力がないのは当たり前、だから修行するのだから。問題は、それを預かる上の責任者の判断。
↑
修行中の僧侶でも実力のある者・ない者はいます。
修行中の僧侶の実力とは、真面目に正しく修行し続ける実力ですね。
修行の実力のある者なら、「たかが…テレビ…」と何の悪影響もない筈…
>しかし馬鹿だね、お宅は。
↑
しかし…
上記の文面をしっかりちゃんと読めば、誰がバカか、ハッキリする事でしょうね。
といっても書いている文章それ自体は特に中身のあるものだとは思われないから2度読むことはないけれど、「何らかの己れの要求を通すために相手(私)に精神的な苦痛を与えよう」とするその行動が何かしらのスキルに従ったもののように感じたからだ。
私は以前からお宅の正体は京都の寄筆さんだと思っていたが、仮にそう仮定すると精神医学だとか心理療法だとかには「矯正医学」ないしは「矯正精神医学」と呼ばれる犯罪者や非行少年らの精神的なひずみを矯正する分野があるようだ。
嫌悪刺激(罰)を与えて相手を矯正(自分の思ったように思想や行動を変化)させようとするのはオペラント条件づけという心理学的なスキルかも知れないな。
だが、コモンセンスに鑑みて私は犯罪者でも非行少年でもないからお宅のやっていることは矯正精神医学ではなく単なる「私(雲海)の自由権の侵害」でしかない。なぜならお宅の発言の根底にあるのは「現代日本の常識」ではなく「南郷学派ないしはマルクス主義という特定宗派の教義」でしかないからだ。
だからそれは私(雲海)独自の私(雲海)だけの頭の中にある特異な考えではなく、引用した論文に書いてあるように「動眼動体視力と固視動体視力」というスポーツ科学者による専門的な視点である。
お宅が私の発言を切り取ってコメントを付しているその裏にある欲求、私(雲海)と自分(自由びと)とを同化させようとする欲求の更に奥にある欲求が理解できないから「分かって欲しい心理」などという知見をインターネットで読んでみたりしたが「そうそう、私もそう思う、同じ考えだよ〜」などと言われると安心・安堵する種類の庶民がいるようだ。
お宅が京都の寄筆さんなのか、それとも玄◯空手を学んだ何処かの年増の女性なのか分からぬが、私は私の思考を深めていくことには興味があるが、お宅の退屈な文章には全く興味関心がない。
だから今はまた新たな視点を見つけて深く深く調べているが、基本的に大事なことは現代ではマルクス主義は主流ではないということだ。私は現在でもマルクス主義系の学会に足を運ぶことがあるし、斎藤幸平さんのようなマルクス主義者に注目もしている。
だが、東側の共産主義国家が崩壊し自由主義vs共産主義の冷戦が終わった今、マルクス主義が主流として登場することはない。だから私は京都の寄筆さんのように「私は南郷主義で三浦つとむ主義でマルクス主義」だなどと公言することはないし、それを強要されることも望まない、拒否をする。
南郷さんの本だけ読んで文字からの情報で理解した内容だと感じる。
すると玄◯会の本部道場で30年以上修業したということも嘘で事前に作り上げたキャラクターだということになる。
もっとも京都の寄筆さんは本田さんの道場に入門したもののスパイ容疑で直ぐに破門されたようだから空手の稽古の真実は知らないのだろうし、心理カウンセリングには架空のキャラを演じる方法もあるようだから、自由びと=寄筆さんの可能性は高まったね。
玄◯空手の稽古を経験したことのある私の考えでは自由びとさんの言っている「出来るように努力する」という南郷さんの初期の著作で「意志のMacht」と書かれていたものは、その後の南郷さんの研究で「観念論的な稽古」と位置づけられたんじゃないのかな?
それが「人間体力、空手体力の養成」という、やろうと意識して稽古しても持ってる体の能力によって上達が阻まれる、だから骨を育てる、筋肉を育てる、神経を育てるといった実体・構造物を育てる方法を最終的に目的とした機能を発揮させるのとは別に行う、といった…それが新書版の『空手道綱要』のグラビアの永田某と神庭さんの技の違い、じゃなかったかね?
玄◯では走り回ったり縄跳びしたり木登りしたり跳び箱とんだりラジオ体操したりの空手だとか武道だとかと直接は関係ないこと一杯やってたぞ。
こんな話も同じ時に同じ場所で苦しい稽古をした者同士なら「そうそう、そうだった!」と自然に共感できるものだが、稽古もしなかった人間がどうして本部道場で30年以上も修業したなどと嘘をついたのかね〜?
確かに警察に捕まるような犯罪ではないが、倫理的な心の苦しみはなかったのか?歪んだ薄っぺらい正義感からなのかねえ?
>続・続・構造の構造
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雲海
>・コメント
>私はお宅が何処の誰か全く分からないが、お宅の書いていることに少し興味を覚えてきた。
>といっても書いている文章それ自体は特に中身のあるものだとは思われないから2度読むことはないけれど、「何らかの己れの要求を>通すために相手(私)に精神的な苦痛を与えよう」とするその行動が何かしらのスキルに従ったもののように感じたからだ。
↑
>「何らかの己れの要求を>通すために相手(私)に精神的な苦痛を与えよう」とするその行動が何かしらのスキルに従ったもののように感じたからだ。<
↑↑
これって…雲海お宅の単なる思い込み・被害妄想ですね。
雲海お宅って「被害妄想狂」なの?!
>私は以前からお宅の正体は京都の寄筆さんだと思っていたが、仮にそう仮定すると精神医学だとか心理療法だとかには「矯正医学」ないしは「矯正精神医学」と呼ばれる犯罪者や非行少年らの精神的なひずみを矯正する分野があるようだ。
↑
雲海お宅にとって「矯正医学」・「矯正精神医学」は他人事ではないのでは?
それらは、お宅自身の「矯正…」為に駆使すべき医学なのでは…?
>嫌悪刺激(罰)を与えて相手を矯正(自分の思ったように思想や行動を変化)させようとするのはオペラント条件づけという心理学的なスキルかも知れないな。
↑
お宅は誤解しています。確かに直接的身体・肉体的な刺激が強すぎると「嫌悪」を感じ事でしょう。
それでも、マゾヒストなら、その嫌悪刺激が快感・刺激になり得る、でしょうし…
しかし、意味理解できない・しない・大声・怒鳴る…でなはない言葉なら、それらは「ただの強烈でない音声刺激」です。
>だが、コモンセンスに鑑みて私は犯罪者でも非行少年でもないからお宅のやっていることは矯正精神医学ではなく単なる「私(雲海)の自由権の侵害」でしかない。なぜならお宅の発言の根底にあるのは「現代日本の常識」ではなく「南郷学派ないしはマルクス主義という特定宗派の教義」でしかないからだ。
↑
言論の自由は、全ての人間達のモノです。
お宅は、私の記述を「雲海お宅の自由権の侵害」と書くことで、
私・自由びとの自由な記述の侵害権を否定しています。
これって、自分の自由権を盾にして、他人の自由権を侵害している行為・言動…ですよ!
お宅って、他人からお自分の言葉・内容が、「他人・鏡に映っているお宅の姿」と理解不能なのですね…
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>雲海
>・コメント
>私は自説の出処を論文の執筆者が引用するように丁寧に提示した。「早稲田大学の動体視力の研究」だと。
>だからそれは私(雲海)独自の私(雲海)だけの頭の中にある特異な考えではなく、引用した論文に書いてあるように「動眼動体視力と固視動体視力」というスポーツ科学者による専門的な視点である。
↑
そんなに「専門…」が好きなら、専門家になってお宅の研究論文を発表すれば…
所詮は、「虎の皮を被った狐」レベル…ですね!
研究論文の意義は、その論理を自己の研究・実践に活かせる事…
その論理・理論の活用で自分の研究・論文を発展させる事でしょうが…
お宅のように、ただただネットに書くだけなら、全く意義なし!
>お宅が私の発言を切り取ってコメントを付しているその裏にある欲求、私(雲海)と自分(自由びと)とを同化させようとする欲求の更に奥にある欲求が理解できないから「分かって欲しい心理」などという知見をインターネットで読んでみたりしたが「そうそう、私もそう思う、同じ考えだよ~」などと言われると安心・安堵する種類の庶民がいるようだ。
↑
「同化させよう」が、目的ではなく、その同化の結果を否定する事での自己発展が目的です。
そもそも同化・分かったとしても、そんな言説・思考に納得可能とは限りません。
そのような時は、私が納得不能な理由・構造を思惟しています。
また、納得可能なら、可能な理由・構造を思惟しています。
>お宅が京都の寄筆さんなのか、それとも玄◯空手を学んだ何処かの年増の女性なのか分からぬが、私は私の思考を深めていくことには興味があるが、お宅の退屈な文章には全く興味関心がない。
↑
私なら、「自身の思考の深まり」の理由・構造をお宅の言葉・記述・内容に即して思惟しますが…
そして、その「思考の深まり」が、現実の社会関係・児童・同僚・教師の関係の中で適切・的確であかを確かめていますが…
>だから今はまた新たな視点を見つけて深く深く調べているが、基本的に大事なことは現代ではマルクス主義は主流ではないということだ。私は現在でもマルクス主義系の学会に足を運ぶことがあるし、斎藤幸平さんのようなマルクス主義者に注目もしている。
>だが、東側の共産主義国家が崩壊し自由主義vs共産主義の冷戦が終わった今、マルクス主義が主流として登場することはない。だから私は京都の寄筆さんのように「私は南郷主義で三浦つとむ主義でマルクス主義」だなどと公言することはないし、それを強要されることも望まない、拒否をする。
↑
マルクス主義とは?
今の私には、正確に理解していませんが…
国家のマルクス主義は、組織・会社・家族…の人間関係・社会…
の中では、どのように現象しているのでしょうか?
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>雲海
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>この文章を読むと私の文章にイチャモンつける以外の意味は無いように思うが、何となく南郷・玄◯の空手をやったことの無い人間だという気がするね。
>
↑
現実的なお宅の想像・幻想・妄想…ですね。
>南郷さんの本だけ読んで文字からの情報で理解した内容だと感じる。
↑
これは、お宅の感じ違いですね!
>すると玄◯会の本部道場で30年以上修業したということも嘘で事前に作り上げたキャラクターだということになる。
↑
>「本部道場で30年以上修業した…」なんて書いていません。
それは、玄〇会の在籍期間ですね。
南浦和の本部の在籍期間は残念な事に数か月でしたね…
そこの稽古で初めて南郷師範に声を掛けられました。
師範―まじめにやっているか?」
私―「オッス!一所懸命やっています!
師範―「複雑な答えだナ!」
師範「―何歳だ?」
私―「31歳です!」
師範―「若く見えるナ!」
私―「………」
↑
これは、
1987年10月8日のPM8:00 の出来事でした。
出典は私の「空手ノート」
当時は分かっていなかった
「一所懸命・一生懸命」の複雑さは、今は理解できます。
対象の構造・変化・運動に即しての「一所懸命・一生懸命」。
対象とは離れた自己満足レベルの「一所懸命・一生懸命」。
また~
一か所に留まり続けて、そのモノを求め続ける懸命さ。
場所は変わっても、一生そのモノを求め続ける懸命さ。
>もっとも京都の寄筆さんは本田さんの道場に入門したもののスパイ容疑で直ぐに破門されたようだから空手の稽古の真実は知らないのだろうし、心理カウンセリングには架空のキャラを演じる方法もあるようだから、自由びと=寄筆さんの可能性は高まったね。
↑
雲海お宅の記述は、誤解・曲解・虚言…の羅列ですね。
私の事実は、私のモノです。
なのに…雲海お宅は、私の事実をお宅勝手に捻じ曲げています。
この雲海お宅の他人の事実の捻じ曲げ記述は、上記のように合現実的な事実的です。
これは、雲海お宅の観念的・観念内の事実であっても…
決して唯物的・社会的・現実的な事実ではありません。
そもそも…天寿堂氏の確信しているだろう
「自由びとの弁証法ゼミ内容の二チャンネル公開」も…
あれは、彼の誤解でしかありません。
>玄◯空手の稽古を経験したことのある私の考えでは自由びとさんの言っている「出来るように努力する」という南郷さんの初期の著作で「意志のMacht」と書かれていたものは、その後の南郷さんの研究で「観念論的な稽古」と位置づけられたんじゃないのかな?
>それが「人間体力、空手体力の養成」という、やろうと意識して稽古しても持ってる体の能力によって上達が阻まれる、だから骨を育てる、筋肉を育てる、神経を育てるといった実体・構造物を育てる方法を最終的に目的とした機能を発揮させるのとは別に行う、といった…それが新書版の『空手道綱要』のグラビアの永田某と神庭さんの技の違い、じゃなかったかね?
>玄◯では走り回ったり縄跳びしたり木登りしたり跳び箱とんだりラジオ体操したりの空手だとか武道だとかと直接は関係ないこと一杯やってたぞ。
↑
確かに直接は「空手」に無関係ですが…
人間体の基礎体力の養成・強化の結果、空手技は同じでも、その技の威力が大きく異なってきます。
大山さん曰く「技は力の中にあり…」・「力の中に技あり…」
>こんな話も同じ時に同じ場所で苦しい稽古をした者同士なら「そうそう、そうだった!」と自然に共感できるものだが、稽古もしなかった人間がどうして本部道場で30年以上も修業したなどと嘘をついたのかね~?
↑
自分勝手な想像・妄想・幻想を自由びとの現実・事実に押し付けている、この雲海お宅の姿は~
他人の発見・知識が、自分のモノ・自分でも直ぐに役立てられると勘違いしている姿でもありますが…
>確かに警察に捕まるような犯罪ではないが、倫理的な心の苦しみはなかったのか?歪んだ薄っぺらい正義感からなのかねえ?
↑
確かに、雲海お宅が、想像・妄想・幻想し続けている、
非自由びと的な現実を事実を恰も自由びとの事実・現実の如くに、ここで
書き綴っても、「警察に捕まるような犯罪ではない」ですね…
普通の人々なら良心の呵責で…耐えられない、だろうに…
雲海お宅って、きっと強烈な思い込み精神の持ち主なのですね♪♪♪