花粉症の原因は、本当に「花粉」なのだろうか?
正確には、本当に「花粉」だけなのだろうか?
「杉・花粉」は、昔からある。
でも、私の子供の頃に「花粉症」を聞いた記憶がない。
実際に私自身、
テレビで花粉が多いと言われいる年でも、
痒くて痒くて堪らない年もあれば、
殆ど痒くない年もある。
そんな事を考え始めたのは、
師範の「…花粉症はココロの病…」
という言葉を知ってからである。
最近、
愛犬マロン柴犬の体毛が抜け始めた、
愛猫マニャは、私のブラシシングを喜び始めた。
マニャは、真冬だと、
私がブラシを掛けようとすると離れてしまうのに…
最近は、私がブラシを持つと傍に寄って来るようになった。
そして、おとなしく嬉しそうに、私にブラッシングされている。
最近は殆ど無いが…
昔・いつの頃かは定かではないが…
体が痒くかる時期があった…
たぶん、季節の変わり目だっただろうか?
私の場合、夏から冬への時期に、目も鼻も殆ど痒くならない。
それでも、冬から春には、猛烈な痒みに襲われる事が多い…
二十代前半には、医者に行って、
目薬をもらってさしていた。
でも、その目薬を差すと、
どうもアタマの調子が変になる、ような感じがして、
目薬を止めてしまった。
花粉症がココロの病なら、
それは、どのようにモノなのか?
ココロは、どのように病んでいったのか?
私の場合、
季節の変わり目の変化、
目・鼻が何となく痒いという変化、
その「何となく痒い」変化に対して、
「そこを掻く」という行為をする。
その結果、「痒い⇒搔く⇒快感」…と変化する。
痒い目・鼻を掻くと、
痒いが快感に変化した。
その繰り返しの結果、痒くなる掻く、掻いたら快感…
掻いた結果、痒みが無くなれば、それで終わりだが…
事は、そうはいかない。
掻いたら快感でも、その快感が薄らけば、
また初めの痒みを感じてしまう。
痒みの大きな要因である「季節の変わり目」が過ぎない限り、痒みは終わらない。
元々「何となく痒い」だったモノが、
掻いた結果の快感と比べるようになり、
初めの「何しなく痒い」が「猛烈に痒い」へと変化していく事になる。
そんな快感を求めて、痒いと掻かずにはいられない事になる。
少しの不快も快感に比べたら、かなりの不快となり得る。
変化・運動は比較から実感・感覚するモノ。
快・不快も比較の結果の感覚・感情。
掻き続けて、身体的になんの変化もなければ、
それはそれで問題ないのだが…
目も鼻も皮膚であり、弱い粘膜もある。
それらを掻き続けた結果、目が鼻が赤くなる、腫れる、痛くなる…
実体・身体的に傷んでしまう事になり得る。
さて問題、
花粉症・過敏症だから、赤くなる・腫れる・痛くなるのか?
それとも、痒くて、掻くから弄るから、赤くなる・腫れる・痛くなる、のか?
花粉症の目薬は、症状を抑える為に、
過敏な神経を薬で鈍感にする、ようである。
過敏な自分を抑えるのに、
薬に頼る姿は、情緒障害児への薬の処方と同じである。
突然に狂暴に変貌する情緒障害児達は、
その狂暴な感情を自力で解消・抑圧でき難いから、
薬に頼る事が多い、ようである。
ならば、
花粉症の治療は、自力で痒みを我慢・克服…であろう。
だから、花粉症では、
痒くてもは絶対に掻かない事。
何が何でも必死に我慢する事。
花粉症は、
機能・ココロの問題であり、
実体・カラダの問題ではない。
人間は動物であり、動物が季節に即して
身体が変化するのに全く問題はない。
その時の痒み・痛み・違和感…も普通であろう。
だから師範は、
「花粉症はココロの病」
と主張しているのだろう。
この言葉を信じて「痒みの克服」か、
全く信じる事無く「薬に頼る」か、
それは、自己責任であり、全く自由である。