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《3》弁証法はどのように役立つか (一)

2021-03-29 10:44:02 | 弁証法講座
《3》弁証法はどのように役立つか

1)弁証法が使えるようになるために

世界という物質の機能、すなわち運動性=運動する性質についてもう少し繰り返しになるが、説いておこう。
世界は運動していると言っただけでは何の意味もない。問題はこの過程性、歴史性をどう個別科学の構築に役立てるように捉えるか、なのである。
弁証法の対象は、個別科学とは違って世界であり、その運動性だと説いたが、この運動は物理や化学のような個別科学が提示する例えばオウムの法則のような「法則」では扱いきれない。
弁証法は対象の運動を扱うとは言うものの、個別の具体的な運動を扱う(個別科学)というより、世界そのものの運動を扱うのだ。
むろん弁証法は個別の運動を扱わないのではなく、個別の運動も世界そのものの運動から扱うのである。個別のものの運動は、世界全体の一部の運動だからである。
ここを誤解すると、具体的なものの運動とその結果だけ見てしまい、全体を貫く運動性を見損なうことにもなる。
社会というものは、人間という実体が集まっているから社会なのではない。生活体として運動しているから社会なのだと捉えることが弁証法なのである。
ここまで弁証法とはおおよそこんなものだという説明をしてきた。これは空手とはだいたいこんなものだと分かった上で入門者が稽古を始めるのと同様に、だいたいの全体像を理解してほしく説明をしてきた。
では弁証法を学ぶとどんなメリットがあるかを多少説いておく。そうすれば諸君も弁証法を学ぶ意欲が湧くであろうからである。
南郷先生は『全集』第2巻で、なぜ弁証法が必要かを次のように説かれている。
「受験勉強で培った能力は人間というものの生活や考え方や生き方をみてとれないようになっていくので、どうしても大学の初めにその受験のための能力を、人間のすべてをわかるための能力に変えていかなければならないからだ」と。
具体例として医者がいるから、病気の例で説いてみよう。

ここに心臓病の患者がいるとして、この患者は心臓だけが悪いということはあり得ない。心臓を病むときは、必ず全体が病んでいる。心臓の悪さを100とすると、他が10や20のレベルの悪さであるため、表に出てこないだけである。全体の中で、その人は心臓が一番弱いからこそそこが表面に現象しているが、表面に出てこない部分も同じく病んでいるのである。医者は全体を見ずに、現象しているおかしな部分だけを見てしまうから治せないのである。
ある症状を訴える患者には、その生活過程をみて、全身の運動形態をまともにする方向で治していけば良いのである。歪みというのは、全体のおかしさがそこに現象しているものなのだから、全体を正しくするようにしながら、その歪みを治していくことが大切なのである。そこだけがおかしくなるということは絶対にない。そこが歪みという形で量質転化するには、必ず他も量質転化している。全体の歪みという量質転化が、さらに部分の歪みに量質転化して現象する。
弁証法は大きく全体の発展過程の論理である。だから自分の研究対象の問題を考える場合も、このように全体との媒介関係において捉えなければいけない。
このように、弁証法で考えが身に付くことが、弁証法の実力である。
弁証法を自家薬籠中のものにすれば、対象の問題を何でも解くことができる訳は、弁証法が全体の運動の論理だから、全体との媒介関係で対象の構造が見てとれるようになるからである。また弁証法だけではなく、全ての学問を研鑽すること、つまり哲学という全体的学問を究めたところからそれを媒介にして部分たる個別科学の問題を解けるのである。
そうすれば病気をみるにも、人間の身体の病みとしての運動を、正常の全体運動から捉えようとする。正常の運動から量質転化、相互浸透の問題として病気を捉えるのである。
全体の運動のありかたで物事を考えることができるようになることを、弁証法が自家薬籠中のものになった、なんでも問題が掌を指すように解けるようになった、ということである。
弁証法をやらなかった人間は世に名を残せない。アリストテレスも、カントも、ヘーゲルも、歴史に名を残した人物はみんな弁証法をやっている。

くどく言うが、なぜ弁証法を勉強しなければならないかと言えば、森羅万象は弁証法性、つまり機能として運動するという性質を持っているからである。世の中のもの全てが変化・発展している。つまり運動しているからである。変化発展、そして消滅、だからその構造をわかるために弁証法をやるのだ。空手はそのためにやっている。
私たちが弁証法がわかって、使えるようになるためには、脳細胞という実体が弁証法性をおびなければならない。実体が機能を決定するからである。
ではその脳細胞が弁証法性を帯びるためにはどうしたらよいか。

第一は、脳細胞を運動させなければならないが、脳細胞としては運動はできない。なのに運動させるとはいかに? それは日々、同じ運動をしないことである。つねに違う運動、脳細胞が困ってやめてくれというほどの運動を続けることだと南郷先生は説かれている。だから空手が一番良い。空手に代わるものとして、諸君が今日の午後練習してきた健康腺の講座も、これまでやったことのない運動をやらされたと思うが、それが脳細胞を強烈に運動させることなのでる。
したがって諸君にあっては、この『弁証法はどういう科学か』でまずは知識的に学びつつ、実体たる身体を動かして、その結果脳細胞に弁証法を帯びさせることをしなければ、弁証法で何でも専門分野の問題が解けるようにはならないのである。

第二は、弁証法の学びと対象の究明を相互浸透させていく勉強をしなければならないということだ。諸君の専門とする対象、例えば医療とかビジネスとかを究明しなければ弁証法性、つまり運動性、ないしは過程性は浮かび上がってこない。
例えば南郷先生は現在「“夢”講義」を執筆されているけれども、そもそも夢とは何かを研究していくに当たって、どのように対象である夢と弁証法を相互浸透させて究明されていったか。
夢は、脳の機能としての認識のはたらきによるものである、だから、夢の問題を解くには、脳の問題として解かなければならない。脳の問題として解くには、神経の問題として解いていく必要があり、さらにそれを解いていくためには、脳の誕生から、脳と神経の発達の過程から解くことがどうしても必要である。こういったつながりとともに、いわゆる進化の過程的構造がわからなければ、夢の問題を解くことはできない。
対象のもつ過程のありかたを理解するには、過程性に着目し、どのような発展や消滅がおきるのかという運動の法則性を理解したうえでないと、究明がなされないのである。
これが弁証法と対象の究明を相互浸透させるということである。一見つながっていないものを、つなげていく努力を指す。また対象たる事物事象は運動でつながっていることを指針にそれがどう運動しているか、つながっているかを導いてくれるのが弁証法の力なのである。


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