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《3》弁証法はどのように役立つか (二)

2021-03-29 10:50:38 | 弁証法講座
《3》弁証法はどのように役立つか

2)学問用語は概念規定を厳密に

最後に学問用語の厳しさについて述べておく。何故日常用語と違って学問用語は、概念規定を厳密にしなければならないかである。
学問とは何かといえば、論理の体系であり、大系であると南郷師範は説かれている。学問と似た言葉に研究というものがあるが、研究は体系にする必要はない。体系になっていてこそ学問である。

では体系とはを簡単に言えば、人体を例にとれば、頭があり、胴体があり、手足があるというように、しかるべきものがしかるべきところにおさまっていて、しかもつながって機能しているのであり、それも中枢があって部分を全体として統括している。
これを学問でいうなら、再三説いてきたように、頭が本質論、胴体が構造論、手足が現象論というようにイメージしてもらえばよい。

学問といった場合、例えば医学とか生物学とかの個別科学においても、体系化されなければならないのであるが、「学問は体系である、研究とはちがう」という捉え方をしているのはドイツと日本だけである。ドイツ語と日本語には「学問」という言葉があるが、他の言語にはない。研究があるだけだ。つまり英語にしても、学問という概念すなわち体系化しなければならないという捉え方がないのである。
アメリカがその際たるものだが、彼らは資本主義つまりは金儲けに役立つプラグマティズムが研究だと思っている。要は自動車を作るとか、病気を治すとかなら研究レベルでいいのだというのが、英米式の捉え方だ。

だから彼ら英米人にとっては、学問とは対象の構造に即して体系化されなければならないと考えていないのだから、言語もまあ役にたっていればいいというレベルである。
しかし、事、学問の構築ならば、一分の狂いもなく体系化されなければならないのだから、巨大な積み木細工を想像してもらえばわかるように、素材が間違っていても、1ミリ狂っていても構築できずに崩壊してしまう。
どれほどの言葉の、あるいは概念の厳密さが要求されるかである。

ドイツ語の文法には例外がないと言われるが、それはドイツ民族が世界で唯一、学問の構築を目指したからであり、例外があったのでは論理規定があいまいになるからである。
弁証法は三浦さんは法則と定義しているけれども、本当は法則ではなく理論というべきである。南郷学派がそのように発展させたからだ。
法則は特殊性の一般性である。特殊な分野…というほどではなく、オウムの法則とかパスカルの法則とかのレベルを法則という。理論とは論理に体系性があることだから、弁証法は南郷先生によって体系が創られたのだから、理論になったのである。
さらに付け加えれば、学問用語、つまり論理的な言葉が厳密に使われなければならない所以は、歴史性のゆえである。

古代ギリシア以来、人類は主観的な問いかけ的反映を克服して、万人が認める事実の「像」を確定し、その像から論理の像へと転換するプロセスを辿ってきたのである。そうした歴史性をあらゆる言語は包摂しているが、とりわけ学問用語はその概念規定がシビアになされてきたという歴史性を持っている。
諸君の中には、自分は学問をやるわけではないと言う人もいるだろうが、しかし私たちがゼミで目指すものは、ひと言で言えば論理能力である。

論理能力すなわち、対象を反映して頭の中に論理の像を描くには、外界をしっかり反映して「事実の像」を創るだけではなく、「論理としての像」へと転換するプロセスを育てなければならない。「論理」も「像」として描けるように技化しなければならない。
私たちは日常生活でしゃべるときは、「論理的だね」とか「理論的に言えば」などと平気で使っている。…これは現今の学校教育を受けたものの、ほとんどがかかる宿痾というべきものである。
だが、学問ではそんなあやふやな言語ですませてはいけない。ここは論理というべきか、論理的というのか、論理性というのか、厳しく使い分けされなければならないのである。

論理としての像を創らなければならないから、学問用語に慣れ、学問用語で像が描けるようにならなければならない。それゆえに、学問用語を用いなければならないし、また日常用語と違って、概念規定を厳密にしなければならないのである。
例えば老人の下の世話をするだけなら、そんな理屈はいらない。言われた通り仕事をすればいい。しかし、どうしたら老人の立場にたって最高の援助ができるかを問われるなら、これは「介護」なのか「看護」なのか、医療なのかは、厳密に使い分けしなければならない。
だから学問用語は厳密さが要求されるのである。

……

以上、諸君に弁証法とはどういうものかのイントロダクションを説いてみた。詳しくはこれから1年間の学習をとおして理解していってほしい。今聴いていると、とてつもなく難しいと感じた人もいるだろうし、怖じ気づいてしまった人もいるかもしれないが、諺に「案ずるより生むが易し」とあるように、一歩一歩稲村先生を信じて勉強していけば、しだいに弁証法の像ができてくるものである。あきらめずに喰いさがってほしいものである。




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