2013年04月26日 悟りの構造とは何か?
試行に連載された『武道の理論』(二十)P193に以下の記述を発見した。
~~引用開始~~
<悟り>というものが観念的実体として形成されるレベルに到達した人たちには問題そのものは簡単でした。
そして、この人たちにとっては<問題>をいかに解くかが大事だったのではなく、
<問題>をいかようにも解けるレベル、
すなわち「問題を問題にしないレベルへの主体性の確立」こそが問題であったのです。
この境地こそが<悟り>の構造なのです。
~~引用終了~~
この~「問題を問題にしないレベルへの主体性の確立」、こそが「<悟り>とは?」を解くカギなのであろう…
「その問題が簡単に解けてしまうから、問題化にしない」レベル~
「その問題は解けないけど、主観的に全く問題視しない」レベル~
「その問題を主観的に解いて、自己満足して、問題視していない」レベル~
「その問題を学問的に科学的に解いて、問題化していない」レベル~
「闘いにおいて、死ぬ事を問題視しない、喜んで死んでゆく」レベル~
「闘いにおいて、死を覚悟して、死を恐れずに、生きる為に闘って勝ち残る」レベル~
果して、私の<悟り>とは、どのレベルなのだろうか?
今~ここで新たな問題が浮上してきた。
それは、そもそも~一般的レベルで、<問題>とは何か?
その<問題>が「問題化」するとは、どういう事なのか?
その答は、その内に~書いてみよう~かな…
この記事へのコメント
><問題>をいかようにも解けるレベル、すなわち「問題を問題にしないレベルへの主体性の確立」こそが問題であったのです。この境地こそが<悟り>の構造なのです。
↑自由びと氏、上の規定で構わぬのなら貴君は既に「悟りの境地」にいるではありませんか。どんな答えを出しても平気な境地に到達しています(笑)。
この『試行』の記述を更に詳しくしたのが『武道と認識の理論Ⅰ』の「悟りとは何か」ですね。そこで南郷氏は「悟り」を語るのに禅宗に限定していますけれども、これは武道家として「剣禅一致」を説いた『不動智神妙録』以来の流れからでしょうか?
私が思うに「悟り」という日本語は一般的に「気がつく」くらいの意味の知的活動を指す言葉ですから、自由びと氏が個人的に「学問と宗教と武道は同じものを見ていたのだ!」と想起したことも「悟った」と言ってよいのだとは思います。ですが、通常「悟り」といった場合は仏教の悟りを指すもので、その原点は「ブッダの悟り(ボーディ)」なのでしょう。ブッダが如何なる悟り(着想)を得たのかは『スッタ・ニパータ』などに書かれていますが、その後の仏教を受け継いだ宗教家たちが「それぞれの悟り(気づき)」を加えながら修正・改革してきたのが仏教の、そして「悟り」の歴史だと思います。ですから、法然には法然の悟りがあったでしょうし、親鸞には親鸞の悟りがありました。「念仏を唱えれば極楽浄土」というのも悟りですし、「他力本願」も悟りの一つです。道元から始まる日本の禅宗にも独自の悟りが存在し、道元による「修証一等」などが代表となるでしょう。
その意味で、「難行・苦行ではなく易行を!」という自由びと氏のお考えも悟りのうちに入るでしょう。
海外でも日本でも宗教家が学問を担っていた時代がありました。宗教家は亡くなった方を弔う仕事の中で「死後の世界」「神の世界」を想像するところに特徴がありますが、その後の貴族や武家社会における学問と本質的には異ならないのでしょう。
Posted by at 2013年04月28日 05:51
未入力氏(毎回お名前欄を未記入なので…)
以下の、コメントへの同意を嬉しく感じています。
>「問題を問題にしないレベルへの主体性の確立」こそが問題であったのです。
>この境地こそが<悟り>の構造なのです。
>↑自由びと氏、上の規定で構わぬの…
しかし…本当の問題はここからなのです。
人間、子供時代は自己中心的全能感で、その問題を子供レベルでさっさと解決してしまい、その事に悩み苦しむ事は殆ど無い(大人から見ていて)のでしょう~
これは、その子供レベルで<悟っている>と言えるのでしょう~
でも…そんな<悟り>も大人になるにつれて、消失してゆきます。
大人の世界は子供時代とは違っていて、ずっと広がってしまうのです。
例えば、お金を考えても、子供時代のお小遣い(金銭収入)は、自分の為だけ、自分の欲しい物を買ったり、やりたい事に全部を使っても大丈夫だったのです。
しかし、独身時代は別として、結婚して家庭を持ち、子供持ちならば、その収入の全てを自分だけの為に使う事は不可能です。
ただ…今の世の中では、夫婦共稼ぎで、女房の収入を生活費に充て、夫の収入の全ては自分だけに使うとか…また、その逆もあるようですが…
それでも、普通の家庭で、普通の感覚ならば、その収入は家族全員の為に使っているのでしょう。
これは収入を例えに使っただけで、実際は、その他心配事、悩み…等も、自分だけで無く、家族全員の事についての悩みや心配なのです。
それは、家族全体の現状と未来の事、家族一人一人の現状と未来の事、特に子供の現状と将来についての心配やその悩みなのです。
これらは、自分ひとりの力では、どうにもならないのでしょう~
何を言いたいかというと、「問題を問題にしないレベルへ」のそのレベルの問題なのです。
それは、自分ひとりなら、如何なる状況下でも、自分自身を納得させ満足させさえすれば、例えその問題が解決できていなくても主観的には、問題は無いのです。
しかし、家族が一緒だと、自分だけの主観的解決では駄目なのです。
それでは家内や息子が、例え理解を示してくれたとしても、彼らは決して納得・満足はしてくれないのです。
貴殿の事は全く知り得ませんが…
過去の私は、色々な問題と思える問題に出くわした時、解決の為の行動よりも、あれやこれや考え、その解決策は他人から見てどうなのかな?とか、こんな解決策だと他人の反感を買ってしまうのでは?とか…ある意味他人の顔色ばかり窺っていたのでしょう~
その為、その問題解決が遅くなったり、自分が解決してという達成感が得られなかったり…でした。
その為に~段々と、自己主張や自分のやりたい事を、自分の思い通りにやらなくなり、やれなくなっていったようです。
ただ…それでも他人から見て、私の行動は、我儘で自分勝手で好き勝手にやっているように見えていたようです~
そんな私が、最近~ここ数年、連続的に以前に比べて数段自由になった感覚を実感しているのです。
確かに、(時々貴殿の指摘にあるような)その為の周囲との不協和音や軋轢も発生していますが、それは、その都度に周囲の状況と自己の状況に合わせて、妥協点を模索して解決してきています。
その過程には、自己の欲求や感情の制御、思考過程、思考方法の修正も多々ありますが…
それでも…過去の私と違っている事は、その行動の出発点なのです。
過去の私は親の言う事、先生の言う事…周囲の顔色を窺っての行動でした。
しかし、今は、先ずは自分のしたい事、してみたい事、自分がしなければ!と感じたり、想ったり、考えたり…して事を実行する事が、可能になったのです。
当然に、この行動の裏というか奥には、現代日本の法律的規制があり、犯罪者にならない範囲の自分の行動ですが…
今回の玄和スレでのやりとりに私は不満を感じています。貴殿と私には、多くの感情的、思考的、思想的?(大袈裟かな)精神的~相違点が存在しているのは事実です。
初めから、それらの存在を認めた上でのやりとりだった筈です。相手と自分の相違点を浮き彫りにして、自己の正当性の主張は当然にありです。
それでも…あそこまで、感情的言語を多用しての貶しは、どうなのでしょう~
私は、ネットで誰に何を言われようと書かれようと、現実の私は私であり馬鹿や阿保化する事はありません。書きたいように書けば的関わりでもOKなのでしょう…
しかし、教師しての私は、他人を馬鹿・阿保・苔にしている、その生徒の心的状態に悲しみを抱き、怒りを抱いてしまうのです。
それは、他人を馬鹿・阿保・苔にしている、その生徒は心の底から自分を信じ尊敬できるとは思えないと考えている私の悲しみであり、そして、その怒りとは自分と関わった、その生徒には、そんな自分を信じ尊敬できない人間にはなって欲しくない~なるな!という怒りなのです。
実際に貴殿は私の生徒でも息子でも無い…なんの所縁もない人物ですが…。
それでも…偶々の御縁があり…というより因縁的関わりを持ち続けている貴殿なのです。
貴殿が何を信じて、どう生きようが~それは自由です。
それでも…私としては、貴殿のあそこまでの記述には反感を感じてしまいます。
…私としては、こんな真逆的共通点が無い!と思える貴殿と私ですから、逆に共通点を探し出して関わり続けるのも、また人生の意外性であり、面白さなのではないでしょうか?と感じています。
結論は、互いの否定は大いに結構だと思いますが、互いの貶し合い、馬鹿にし合いは止めにしませんか…
そんなやり取りでは、悲しいだけの不毛なやり取りで終わってしまいますよ…
このように書くと、貴殿に「我々のやり取りに実り等あるものか!?」的に書かかれそうですが…
例え、その実りが無くても、互い(貴殿は「私は違う!」と否定するでしょうが…)に、楽しくは無くても、不愉快というか、不快感は感じたくない、と思いませんか?
まぉ~貴殿の気が向いたら、また~やり合いましょう~
最後に質問です(答えるか否かは貴殿の自由ですが…)
人間にとっての「幸福」とは何なのでしょう?
私が思うのは、究極的には~
「『自分幸福だ!』と、自分に嘘つく事、自分を偽る事も無く、心の底から信じられる事」
なのです。
これも自分の事だけを考えての「幸福」なら比較的簡単なのでしょう~
しかし、自分だけの幸福から、家族の幸福を含んだ、周囲の幸福を含んだ、人類の幸福を含んだ、地球全体を含んだ、全生命体、全物質の幸福を、全て包み込んだ自分の幸福は、そう簡単には、得られませんね…
こんなところに「<悟り>の構造」があるのでしょうね♪♪♪
貴殿の今回のコメントは、ナイスグッド・タイミングでした。
貴殿と2チャンでの今回のやり取り~に私は大変な不満足を感じています。
そこで、今日2ちゃんに、この不満を言語化して、書き込み伝えたいと考えていた所でした。
私の最後の「心がずきずきショックで笑いが止まりません♪♪♪」
~この後半は嘘というか…素直に書けていませんでした。
貴殿の事は、知り様が無いのですが…
私はどんな時も、どんな状態でも、どんな苦境でも、
自分だけには、嘘や偽りや誤魔化しをしたくないのです。
例え他人に嘘をつき、偽ったり、誤魔化したりしていても…なのです。
人間は、嘘偽り誤魔化し無しには生きでいけない、悲しく哀れな動物なのでしょう~
もっとも、これを嘘偽る誤魔化す「自由」がおり、嬉しく楽しい事なのだ!と考える事も可能ですが…
それは、100%本能的に生きてゆけない人間の宿命なのでしょうね…
これは、想いの限り可能な限り自由に生きられる、と同時に
いつでも、自由に死んでゆける人間の宿命なのでしょうね…
~人間にとっての真実・真理とは、それを真実・真理である、と信じる事から始まる、始める事なのではないでしょうか?
その理由は、真実にしても、真理にしても、それは自分の外側の世界の事、外界の事なのです。
しんし、人間にとっての本当の事、それは自分の内部、内界である認識の中に存在しています。子供時代は、この外界と内界の区別は、大人ほど明確では無いので、特に信じる必要性はありません。
しかし、大人になるにつれて、その老化してゆく大人とは逆に、時代は変化発展してゆく(内界と外界の相対的独立か)のです。
そんな老化してゆく大人に、とって外界を信じる事は、とても大切な事になってゆくのでしょう~
もっとも~何を信じるか!何を信じ無いか!「信じる必要性は全く無い」と信じるか?…
その全ては、その個人の自由な意思の問題なのでしょう~
こんな所にも<悟り>の問題があるのでしょう~
暇な時、気が向いた時に、貴殿の嘘偽り誤魔化しの無い、
真摯な意見・感想を伺ってみたいな~♪♪♪
との私の自由勝手な想い
と供に擱筆する事にする~
~グッバイ~また逢う日まで~また逢える時まで~別れのその訳は…なのだ…
~元気な姿で,憎き楽しき元気な姿で~
憎まれっ子、世に憚る的姿、での再会を期して~
・サ・ラ・バ・(書きたくは無いが自分に正直に)
~我が友よ~
…憎き宿敵よ…
~我が天敵よ~
Posted by ~ナイスグッド・タイミング~ at 2013年04月28日 12:27
話の核心は南郷氏の「悟り」の規定です。そこには「問題を問題にしないのが悟り」だと書かれています。
けれども貴君の言うような「家庭内の幸福感」を問題にした場合、それは「問題を問題にしない」では解決しません。
貴君は述べるでしょう。「それは貴殿が南郷理論に学ぶ姿勢が無いからだ」と。それでも私はガリレオよろしく「それでも南郷は間違っている」と呟くのです。そこに大いなる不満を感じ続けています。
人にはそれぞれの都合があります。その互いの都合が折り合わなければ他人同士が家族になることも出来ませんし、企業が契約することも出来ません。
どうして子供の小遣いの話をしたのでしょうか?子供は自分のためにしか使えない程度の金額しか与えられません。心の優しい子供は両親や家族のことも気にかけることでしょうが、それは「家族のためにお金を使う」という形ではないのでしょう。「家族として、一緒に生活していく者として自分の役割を果たす」という観点から考えるならば、「大人も子供も自己の役割を果たしている」と見ることが出来ることでも、「使っている金銭の金額だとか使用目的」で見た場合は「子供は自分のことしか考えていない」とも映るのでしょう。
私は南郷氏の著書に大いなる不満を感じています。その「不満」ということ自体が問題であるならば、満足いくだけの論述を自分が提出することが解決になるでしょう。決して「問題にしない」ことでも「待て、しかして期待せよ」といった南郷氏に満足いく論述を出してもらうことでもありません。「私が」自分で解答を出すことですし、その論述の時期は私の認知活動が実りを迎えたときになります。
先日、とある少林寺拳法の先生に電話をしましてね、「少林寺拳法の思想が素晴らしいと思いますが、別の徒手武道をやっていますので入門するのではなく『少林寺拳法教範』を購入して勉強させていただきたいのですが…」とお願いしました。「あの本は非売品で2段以上の少林寺拳士が総本山に1万円を寄付しながら、希望者のみ頂いて帰ってくるもの」だというのがお答えでした。本を入手できなかったのは残念ですが、礼儀正しく親切な先生の応対には爽やかな感情を持ちました。やはり顔が見える、声が聞こえる、相手の存在を感じ取ることが出来るのは大きなことです。
仏教が問題にしてきたもの、「悟り」の境地が与えるものは、現代の言葉で言えば「心理学」「社会心理学」なのかも知れませんが、「問題を問題にしない」ことでは決して無いのでしょう。
人間の「幸福」は様々なものがあり、マズローのようにそれらを「レベルの高低のある階層」として整理する考えもあるのでしょう。
ですから「周囲の者が喜んでくれる」という幸福感も勿論ありますが、「自分だからこそ成し遂げられる仕事を達成すること」その自己実現の幸福感がとても重要だと思っています。
昔は女性は他人の幸福に役立つという面ばかりを強いられて縁の下の力持ち的な役割を担っていたかも知れませんが、最近は社会の表舞台にどんどんと出ていってます。そうした「自己の輝く面を、評価してもらえる環境で発揮していくこと」自己の持つ能力を輝かせることが一つの幸福だと思っています。それは決して「子供の独り善がりの幸福感」ではなく、人間として果たされるべきものですから。
自由びと氏が今回の件で不満なのは分かります。試合で負けた選手と同じく為す術なく敗れたのですから。書籍として出版した以上は、間違っていたと訂正するまでは批判は受けるものですから。
Posted by 未入力 at 2013年04月29日 05:41
見入力氏
前回の貴殿への私のレスは、ちょっとしたミス(私のよくやる勘違い)で…
あれは、あそこで引用した三行を読んだだけで、返事を書いてしまっていました。
あそこで書きたかった事は、自分ひとりだけの事なら「問題を問題としない」という解決も主観的解決で可能であるが、家族や多くの他人と関わる度合いが増すに連れて主観的解決だけでは、難しくなってゆくだろう~という事です。
お金の事を書いたのは、現代社会では、生活=金銭収入的側面を具体例に使ってみただけです。「社会でのお互いの折り合い」は大切かつ重要ですね…
貴殿の書いていた「悟りとは気がつく」くらいのもの…について~
例え「悟り」をそのくらいのものと考えたとして、私が求めるのは、その「気がつく」事のできる観察力、考察力、総合的分析力…等です。
「悟り」とは、自己の感性力、思考力、心と頭の能力、頭脳力の結果の表面化した部分だと私は考えています。
問題は、その頭脳力の養成方法なのです。
それは、優れた他人の能力を技術論的に修得してゆく事なのでしょう~
この技術的修得過程に、
「形を真似て創る」→
→「その形に慣れる」=
=「創りながら使う」⇔「使いながら創る」→
→「形に拘らず自由自在に使う」
があるのでしょう~
Posted by ~技術論的修得方法~ at 2013年04月29日 11:28
先ず「悟り」についての認知科学的な研究を行っている専門家は存在しています。自由びと氏が、そのときどきの気紛れで逃げの手を打つのでないならば、専門外のことに首を突っ込まぬべきでしょう。貴君は私が専門外のことに言及していることを自分のことでもないのに責め、専門外のことに首を突っ込むなと言いました。自由びと氏が「私は専門外のことに首を突っ込みませんよ」と自分に言うのならば分かるのですが、貴君は私に要求してきたのです。そして、南郷氏の「悟り」の見解とは食い違う私の見解を読んで、「南郷氏が正しいのか間違っているのか」の回答を下すこともなく、それに乗じて南郷氏の「技を作る過程」を機械的に組み合わせてきた。
私はこういうところを指して「嘘偽り野郎」と呼んでいます。ハッキリ言いましょう、南郷氏は悟りについて全く理解しておりませんし、脳の高次機能だとも言ってはおりません。しかし、そんなことは常識でしかないのです。
私が何かを語れば貴君には勉強になるところがあるのは分かります。しかし、貴君は私が学べる何も持ち合わせてはおりません。嫁さんと息子さんを大事にして、己の無能を自覚して他人ばかりあてにするのはお止めなさい。
南郷からでなく私から学んでおきながら無礼な自由びと氏、今後は自分だけで考えなさい。まあ、確かに私は貴君に対して「知的乞食」なる呼称を与えたが、貴君からすれば「布施行」のつもりだったのかも知れんね(笑)。
私の嫁は自然科学者なので貴君のように「ただ信じる」ことなど要求しはしないよ。家庭内の経済問題に関しては夫婦でよく話し合うことだから、私の友人にも専業主夫で嫁に食わせてもらっているのがいるが、もちろん他人が口を挟める問題じゃない。そこの家族の問題だから。
じゃーな、ついでに言っておくと、ネットで求愛、求婚してるかの紛らわしい表現があったから気をつけたほうが良い。貴君には女性的なところがあるが、適齢期を超えた焦りの隠せない女性はネットの顔も見えない相手に恋愛幻想をもってしまう者もいるが、男は顔の見えない相手に恋愛幻想を持つことはないよ。美人だ、優しそうだ、といったことに限らず視覚情報のない相手に恋愛幻想は絶対に持たない。それは覚えておきたまえ。そして言動に注意しなさい。
Posted by 未入力 at 2013年04月29日 12:03
未入力氏
これは~これは、言葉不足で、私の真意は以下です。
自分の専門外の事に、専門家レベルで事細かくネットで調べただけで、分かったつもりで、その専門外の事に首をドップリ突っ込んで関わるな、というような事なのです。
>「南郷氏が正しいのか間違っているのか」の回答を下すこともなく、
↑だから~あっちこっちで書いているでしょう~「人間は自己の能力の範囲内でしか事物を理解できない」と…
では~質問です!
貴殿の「正しい」とは何です?
私と貴殿の「正しい」とは同じなのですか?
ここで私が「正しい」と書くことの意味は何なのですか?
私は南郷氏が貴殿の考える「正しい」と同じかどうかは分かりませんが…
少なくとも貴殿の言説の数々より、南郷氏の著書に書かれている言説の方が、ずっとズット役立っています。
この役立つとは、現実生活で問題解決に役立っている、という事であり、ネットでの記述には、それ程役に立っていません。
なので、「役立つ=正しい」と考えたとしても、ケースバイケースなので、いつも常に正しいとは言い難いですね…
その点貴殿のネット知識は、ここでは大いに役立っていますが…
反対に現実世界の問題解決には如何なものですかね…
>ハッキリ言いましょう、南郷氏は悟りについて全く理解しておりませんし、脳の高次機能だとも言ってはおりません。しかし、そんなことは常識でしかないのです。
↑この様に、他人の言説、他人の知識を読み齧っただけで、ここまで断定的に書ける、その認識が、私からすれば異常的なのですよ。
南郷氏の言葉に「高次元的機能」と言う言葉が無くても、この「高次元的機能」という言葉を使った専門家が視たその「高次元的機能である何か」を南郷氏は、その専門家とは異なった角度から関わって、異なった言語表現を使っているかも?とは貴殿には考えられないのですね…
言語は認識の表現であり、その認識はその人物の個別的個性的ものなのですよ。
例え同じものを視ても同じ言語表現をするとは限らないのです。
そこを貴殿は言葉に重きを置いて、その裏や奥にある、その当人の認識には辿り付けていません。
それを「嘘偽り野郎」とは、君は、分かったいるつもりで、正しい事を書いていると、思いあがっている、「思いあがり野郎」ですね…
最後は、またまたネットの話ですか…
でも~>男は顔の見えない相手に恋愛幻想を持つことはないよ。美人だ、優しそうだ、といったことに限らず視覚情報のない相手に恋愛幻想は絶対に持たない。それは覚えておきたまえ。そして言動に注意しなさい。
↑「顔の見えない相手への恋愛感情」~これって~男のロマンでしょう~若者だけのロマンですよね!
未入力氏は、もう爺爺になってしまったのですね…ロマンが無いね…
でも…年寄りの老爺心からの御忠告は肝に銘じて覚えておきます。
そうですよね…貴殿への言動にも、梅雨さんへの言動にも、Y2K殿への言動にも、椿さんへの言動にも…注意しないとな♪♪♪
最後に貴殿の言説で役立つのは、私に対しての皮肉だけみたいですね…
「役立たない筈の皮肉が役に立つ」とは、これって、とても皮肉ですね♪♪♪
貴殿を私は「皮肉い氏」と書こう!とても「憎い御人」だね!
Posted by 皮肉だけが役立つ貴殿の皮肉 at 2013年04月29日 14:42
>貴殿の「正しい」とは
また逃げて誤魔化したね(笑)。ここで語られるべきは私の発言を否定し「自己の能力の中でしか理解できない」と述べている貴君が「自由びととしての理解を語ることで、未入力には理解する能力がない」ことを説き明かすこと」でしかない。それが出来ねば、貴君は私の理解が足りないのか、そしてそれが能力がないからなのかすら判断できないはずなのです。それは「正しいとは?」という一般論に照らし合わされて判断されるものでもないのです。貴君の発言は、正に南郷流の「正しいの一般論から導かれた」という、そして南郷氏すらそんなことは言っていない誤魔化しでしかありません。
一般的・全般的なる「正しい」規定に則っての見解を要求するならば、私は「間違っている」とはどういうことかを要求しますよ。
「正しいとは一般的にどういうことか?」ではなく、この場合は「悟り」が問題になっているわけですから、「悟り」の事実が先ずは問題になるでしょう。そしてそれは「悟る」という一般的な日本語の意味での日常生活への使用ではなく、歴史的に連面と続いている仏教における「悟り」であることを確認しました。南郷氏も禅宗を挙げていますから少なくとも「禅宗の修行で得られる悟り」であることは間違いないことです。そして禅宗の開祖である道元の「修証一等」を挙げて「悟り(不安心の克服)は修行実践と一体である」との事例を出しました。このように少なくとも一つには「問題を問題にしない」のではなく「問題を解決する際に付随する不安心の克服が問題であった」ことを示し、例えるならば「病を治すために手術をするときに付随する痛みや不安を解消する麻酔の発明」に匹敵するものが禅の効果の一つであったのであり、これは「病など治らなくともよい」といった問題にしないことではないことから、つまりは南郷氏の規定が実際の悟りの現実を説くものではないところから「正しくない。間違い」だと断定したわけです。
しかし、この場合の思考方法が全ての場合に当てはまるとは言えないため、この場合の「正しくない」との判断は「一般的に正しいとは?」との設問には結び付かないのです。
もう赤子のように世話をかけるのはおよしなさい。あなたは社会のお荷物なのですから、静かに余生をお過ごし下さい。
Posted by 未入力 at 2013年04月29日 15:34
どうも~歳を感じてしまいます。
蛍光灯、パソコン、テレビ…等の光で目が痛いのです。
パソコンのやり過ぎなのか…目がとても疲れています。
貴殿の長文、自分が書いた長文を読むのにも疲れてしまいます。
最近の貴殿の書き込みに、以前に感じたような面白さも感じなくなっています。
このまま~惰性で貴殿のコメントに返事を書いていても、疲れが増すばかりのようなので…
ここらで、一度、貴殿の関わりに終止符を打って、自分の世界を広げてみよう~と思いました。
まぁ~目の疲れがとれ、元気になった時には、またやり合おう~
>もう赤子のように世話をかけるのはおよしなさい。
>あなたは社会のお荷物なのですから、
>静かに余生をお過ごし下さい。
↑まだ~年金も貰ってないし、普通に仕事もしているし、子育てもしているし、「お荷物」なんて、考えた事も無いし、想像も出来ませんでした。
このような記述が書けるなんて…
貴殿は自分の事をお荷物だと思っているか、
周囲からお荷物だと言われているか、
周囲から思われているのですね~
なんか可哀想ですが………
明日は我が身で…他人事ではありませんね…
今後~目が疲れている時はパソコンを
起動して見ない事も多々あると思います。
悪しからず~です!
疲れている事に飽きたら、
また~やり合おうぜ!